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その12 帰宅

 保健室に入ると、見慣れた保健医の先生が机に向かって忙しそうに何か作業をしている。

 

「失礼します」


 挨拶をしても返事は無かった。余程集中しているようだ。


「きみ、早く、このベッドへ寝かせ給え」


 謎の白衣の女性に促されるまま、抱きかかえていた羽島さんをベッドに寝かせる。


「ありがとう。きみは、もう教室に戻り給え。学生の本分は、勉学だ。勉学はその人の基礎になるものだからな。疎かにするんじゃないぞ」


 連れてきたのは、あなたなんですけど、と言いかけて思い留まる。


「彼女の事は任せ給え」


 白衣の女性が手を振ると、俺の身体は自然にドアへ向かって保健室を出て行った。


 教室に帰ると、何事も無かったかの様に授業が続けられていた。倒れていた机や椅子は元に戻されている。


「ご苦労」


 国語の担当教員は、教室に入って来た俺に、それだけ言うと、授業を続けた。


 さっきの騒動のせいか、眠気はすっかりと無くなっていた。

 気分良く、とはいかないが、これで普通に授業が受けられる。

 とは言うものの、目の前で起きた出来事について、考えないわけにはいかなかった。

 黒い蛇。あれは実体が無かった。はっきりと見えているのに、触れない。そして、国語の担当教員には見えていなかった。恐らく、他のクラスメイトたちにも見えて無かったのだろう。そして、俺が肌で感じたあの感覚は覚えがある。これは、姫と一緒に夢の中にいたイノシシもどきに触れたときと同じだった。さっきのは夢じゃなく、現実だ。あんなイノシシみたいなやつが、夢を飛び出して現実に出て来たりするものなのか?


 わからない。

 これはどうしても姫に話を聞く必要がある。


 羽島さんは、二回ほど俺とお昼を一緒に食べただけだ。

 それであんな呪いを受けてしまったのだ。

 犯人が処理されるのを待っている時間は無いように思える。鷹野が犯人だとしたら、何故、呪いが今掛かる? 噂は誤情報で、実は生きている? もしくは、死んだ後も呪いは継続されるとかか?


 放課後、意を決して姫に電話を掛ける。

 いままで電話しなかったのは、昨日のあいつの様子が変だったからだ。儚げで、寂しそうで、それでいて何かを決意した様な顔を別れ際にしていた。だから、何て話せばいいか戸惑っていたのだ。

 しかし、今はそれどころじゃない。


 だが、姫に電話は繋がらなかった。


「お掛けになった電話をお呼びしましたが、お出になりません プッツゥ――」


「あいつまさか、着信拒否してたりする?!」


 あー、ちくしょう!

 姫が頼りにならないのなら、自分で何とかするしかない。

 取り敢えず、羽島さんの様子を見に行こう。彼女は結局放課後になっても、教室に戻って来ていない。鞄もそのままなので、見過ごした可能性はない。なら、まだ保健室に居るのだろう。いや、最悪の場合、病院へ搬送もあるか。でも、救急車が来た様子はないから、たぶん大丈夫だと、自分を落ち着かせる。


 保健室のドアを開けると見慣れた保健医の先生が居た。謎の白衣の女性を探して見渡すが、居ないようだ。


「いらっしゃい。あら、隼人くん。どうかしたの? 怪我でもした?」


 年齢は三十歳前後との噂の保健医の先生は、見た目は若々しく、制服を着れば学生でも通じそうな童顔の女性である。

 話し掛けられるとついつい嬉しくなってしまう。


「いえ、その、羽島さんの様子を見に来ました」

「ああ、羽島さんね。そういえばー、隼人くんが運んで来たって聞いたけど。まだ、そこのベッドで寝てるはずよ。ちょっと待ってね。まだ来ちゃだめよ」


 めっという感じで可愛らしく威嚇した先生は、カーテンの隙間から覗いて中のベッドの様子を窺っている。


「まだよく寝てるわ。酷い貧血だったみたいね。倒れたって聞いたけど」


 先生は、カーテンを締め直し、椅子に戻って来た。


「貧血……なんですか? 急に倒れたんですけど。倒れた瞬間は見てないんですけどね」

「そう聞いてるけど? 外傷も無いし、熱も無いし。倒れたなら、頭とか打ってるといけないから、後で病院行った方がいいわね」

「聞いてるって誰にですか?」

「んっと、誰だっけか……」


 保健医の先生は、ぽかんと天井を眺めて、誰だっけ? と呟いた。


 そんなの、あの白衣の女性しかいないだろう。あの人が、そう伝えたに違いない。

 でも、保健医の先生は、あの白衣の女性のことを覚えていない様子だった。

 しかし、あれはいったい誰なんだろう。


「あ、隼人くん」


 カーテンの隙間から、羽島さんが覗いていた。少し疲れた表情をしている。寝起きだからであろう。眼を擦りつつ、瞬きを繰り返している。


「あ、羽島さん、起きたんだ。どう? 具合は」

「あ、うん、大丈夫。えっと、わたし、何も覚えて無いけど、えっと、何が起きたの?」

「羽島さんは、教室で倒れて、気を失ってたんだよ」


 黒い蛇の事は伏せて置いた。言っても理解出来ないだろうし、不安を煽るだけだ。


「それで、保健室に運び込まれたんだ」

「倒れたときに頭とか打ってるかもしれないから、後でちゃんと病院で診てもらいなさいね。今は大丈夫でも、後からおかしくなる事もあるからね」


 羽島さんは、軽く頷くと、ゆっくりとカーテンから外に出て来た。


「えっと今は?」


 羽島さんの視線を追うと、壁に掛けられた時計を見ていた。


「今は、もう、放課後だ。鞄は教室に置きっぱなしだよ。よかったら取って来るぞ」


 彼女は、しばらく考えた後、一緒に行こうと言った。


「待ってるの、なんか落ち着かないし、それにまだちょっとふらつくから」

「まだ休んでた方がいいんじゃないか?」


 カーテンの向こうから出て来た羽島さんは、制服スカートの乱れを整えながら、ふらついてはベッドに手を付いている。


「そうしてあげたいのは山々なんだけどね。ここもあまり長くは置いてあげられないのよ。もう放課後だし、無理そうならタクシーか、救急車呼ぶけど? どうする?」

「いえ、大丈夫です。ちょっとふらつくだけですし、すぐ治ると思います」


 彼女に近付いて、その腕を取る。


「隼人くん?」

「俺に捕まってろ。教室まで、そのまま行くぞ」


 ぱっと明るい表情になった彼女は、すぐに下を向いて顔を隠した。


「では、先生、失礼します」

「はいは〜い。よろしくね。あ、羽島さん、何かあったらすぐ連絡してね」


 保健医の先生に軽く頷いて、彼女は行こうと呟いた。


 放課後なので、他の生徒は帰宅しているか、部活に勤しんでいる。お陰で、教室に戻るまでの間、誰とも遭遇する事なく済んだ。


 お互いに鞄を取って、教室を出ると、彼女は掴んでいる俺の袖を引っ張った。


「あの、もし、もしよければだけど、その、家まで、送ってくれると、助かる。途中で、倒れたりしたら、また、迷惑、掛かっちゃうから」


 なるほど。タクシーや救急車を呼ぶのは恥ずかしいが、独りで帰るのは不安というわけか。


「わかった。送るよ。それで、何処に住んでるの?」

「えっと、楽西口駅」

「え? 俺と同じ駅じゃん」


 そう、俺の最寄り駅は、楽西口駅だ。なら、羽島さんを送った後ですぐに帰宅出来そうだ。


「ずっとそこに住んでるの?」


 同い年で家が近くなら、今まで何処かで会っててもおかしくない。そう思って聞いたが、彼女は黙ったままだった。

 ほんとに会話が続かなくてしんどい。この子は、それを苦にしてないんだろうか? いやむしろ、今は身体の方がきついのかもしれない。なら、話さない方がいいか。


 電車の中でも特に話すことなく、楽西口駅に着いた。


「こっち」


 羽島さんの誘導で、後に付いて歩く。


「駅からは近いのか?」


 バス乗り場とは反対の方に歩き始めたので、恐らく徒歩圏内なのだろう。相変わらず返事は無かった。


 彼女の後ろ姿を見て、様子を窺う。特に問題なく歩いている。ふらつきはもう大丈夫な様だ。このまま倒れる様な事は無さそうで安心する。無事に家まで送れそうだった。


 彼女の歩く道を辿ると、ある事に気付いた。


 この道は、俺がいつも通学で使ってる道だ。高級住宅が立ち並ぶ住宅街。俺の家もその中にある。

 じゃあ、羽島さんってご近所さんなのだ。四月に知り合ってから、まだこの辺で出会う事がなかったのが不思議だった。通学の時に何度か会いそうなものだが。


 そして、俺の家の前まで来てしまった。こんな偶然ってあるんだと思った。


「あの、ちなみになんだけど、ここ、俺の家」


 言わなくてもいいかとは思ったけど、後で知られたら、何で言わないの? ってなりそうだから、先に言っておいた。


「うん。知ってる」


 え? 今なんて言った? 知ってるって?


「なんで知ってるんだ?」


 当然の疑問だ。

 しかし、羽島さんは、それには答えずに先へ進む。

 慌てて後を追い掛けようとしたら、彼女はすぐに立ち止まった。


「ここが……私の家だったところ」


 そう言って隣の家を指差した。

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