その1 片眼鏡の少女
「ごめんなさい」
それが、由美が最後に話した言葉だった。それ以来、俺と由美は話をしていない。
由美の様子がおかしくなったのは、今から一ヶ月ぐらい前の事だ。それまでは、クラスのみんなから、俺と由美が付き合っているのではないかと勘ぐられる位に、俺と由美は仲が良かった。
彼女との出逢いは高二の四月。数ヶ月前のことだ。同じクラスになったのが切っ掛けで、席も近かったので、少しずつ会話するようになった。
由美は、男子と話をするのに慣れているようで、男に対する警戒も遠慮もなく、まるで男友達のように接してきた。黙っていたら凄く美人なのに、どうでもいいような事をべらべら大声でよく喋るから、変な女というのが周りの見方だった。昨日のドラマ見た? とか、SNSでこんなネタあったよ、とか、そんな話を楽しそうに毎日話しかけてきた。
そしていつのまにかいつも一緒に居るのが当たり前になっていた。最近では毎日のように、お昼を一緒に食べるぐらいにだ。ところがである。ここ最近は、顔を合わせても眼を逸らされて会話が無く、直ぐに逃げる様に由美は何処かへ行ってしまう。電話してもメールしても返事は返って来なくなった。
由美は、ある日を境に人目を恐れる様になり、俺と一緒に居るときは、必ず人目につかない場所へ引っ張って行くようになっていた。最初は、一緒にいる所を見られるのが今更恥ずかしくなったのではないかと思ったが、そうではなかった。そのときの彼女は青ざめた顔で震えていた。何かを恐れている。そんな感じだった。問い質してみても応えない。ただ、なんでもないと言うだけだった。
程なくして、彼女は左頬をガーゼで抑えた姿で登校して来た。誰かに殴られでもしたかのようだ。どうしたのかと声を掛けたが、「別に」とだけ呟き、眼も会わさず立ち去ろうとするので、手を掴んで更に問い質すと、
「ごめんなさい」
と弱々しく呟いて、走り去った。
そして今に至る。
その結果として、俺にとっては非常に不名誉な噂が拡がった。
どういうわけか、俺が彼女を殴ったという事になっているようだ。
状況から見た実に勝手な推測だ。俺は今迄女の子を殴るなんてしたことは無い。しかしまあ、わからんでもない。わからんでもないのだが、実に不名誉だ。いつも仲良しで付き合っていると思われてる二人の、女の方の頬に治療の痕があり、彼氏を避けるようになった。そう見えたら、別れ話が拗れて、彼氏が殴ったと想像するのも無理はない。
由美の方もその事は、ちゃんと否定してくれてはいる様だが、怯えて本当の事が話せないのだと解釈されてしまっているに違いない。
まったくなんて事だ。俺が何をしたというのだ。こうなれば絶対に真相を突き止めねばならない。由美の為にも、俺自身の名誉の為にもだ。
お昼休みの弁当は、結果として、ここのところ独りで食べている。
クラスの男とつるんでもよいのだが、如何せん、今下手に絡むと色々聞かれる事は間違いない。あれやこれやと逞しい妄想で彼女に何をしでかしたか等を面白可笑しく愉しまれてしまうだけなのだ。ならば独りで食ってる方が何倍もましというものだ。
そして、今日も独り寂しく席で弁当を食べていると、声を掛けられた。
「あのぅ、隼人くん。良かったら一緒に食べない? 私も、いつも独りだったから」
話し掛けてきたのは、クラスメイトの羽島亜紀さんだった。四月の最初の頃に声を掛けられたのを微かに覚えている。あの日、彼女は「えっと、隼人くん? 早月隼人くんだよね?」と、おずおずと尋ねて来た。余程、緊張症なのだろうか? 顔を真っ赤にしていたのを覚えている。
普段ならこんな可愛らしい女の子からのお誘いは願ってもない事なのだが、時期が悪い。このまま羽島さんと二人っきりでお昼なんかしてたら、俺がこの子に乗り換えて、由美と揉めている様に見えるじゃないか。とはいえ、むげに断るのも気が引けた。そうだ、さっさと食べて直ぐに離れよう。そうしよう。
教室で向かい合わせに座り、互いに弁当を用意する。彼女の弁当箱はピンク色した小さい物で、いかにも女子といった感じだった。
由美とは大違いだ。あいつの弁当は入れ物こそ小さいが、それがいくつもあった。サイドメニューってやつか。あいつは体育会系だな。クラブは確か吹奏楽部だったが。まあ、吹奏楽部もハードらしいので、体育会系っていうイメージは間違っていないのかも知れない。
ちらりと由美の様子を覗き見る。彼女は他の女子たちと机を囲み弁当を食べていた。こっちを気にする様子は見られない。最近では目も合わせる事が無くなった。
羽島さんに視線を戻すと、彼女は無言で顔を赤らめながら少しづつ箸でおかずを摘んで食べていた。時折、そのショートカットの髪が耳に掛かるのを気にしながら弄っている。そういえば、羽島さんが他の女子と話している姿はほとんど見たことがない。いつも独りで席に座り本を読んでいる。そんなイメージしかない。
「羽島さんは、なんで俺を誘ったの?」
特に気になった訳では無い。このままずっとお互いに無言のまま時が過ぎるのを待つのが苦痛過ぎただけだ。彼女とまともに話すのは初めてだ。だから何を話していいかまったく検討がつかなかった。
距離だけ近くて会話もなく黙々と食事するだけは、辛すぎる。飯も美味く感じない。というか喉を通らない。これなら独りの方が数倍マシというものだ。
「隼人くんが独りだと寂しいかな……と思って」
彼女は独り言の様に呟いた。つまり、いつもは独りじゃない奴が、急に独りになったから寂しかろうという心遣いなのだろうか。まあ、その気持ちは有り難い。有り難いのだが、それならこの緊張状態をなんとかしてほしい。俺がなんとかすればいいのかも知れないが、そもそも俺が求めた状況ではないし、むしろこれじゃ余計なお節介というものだ。
「そっか、ありがとな。でも今日だけでいいよ。明日からは無しな」
念押ししておく。これから毎日こんな状態はゴメンだ。これでは俺の胃が保たない。なんでお昼ご飯中こんなに気を使わなければならないのか。お昼休みはゆっくりと休憩したい派だ。
彼女は微かにコクリと頷いた。その俯いたままの様子はまるで俺が虐めているように写ったかもしれない。
これ以上は耐えられない。急ぎ弁当を平らげて席を立つ。「あっ」という声を上げて初めて彼女が顔を上げた。悲しそうな瞳に胸が傷んだが、ここで流される訳には行くまい。
「お先に」
とだけ言い残し、教室を後にする。
じくじくと胸が痛む。
それにしても、羽島さんの行動には疑問が残る。
俺が独りだったからといって、いきなり話しかけて弁当を一緒に食べようとするか?
男同士ならあるかも知れない。しかし、羽島さんは女で、俺は男だ。その事実は、クラス中の生徒から、余計な詮索をされる事になるに決まっている。
仲のよかった子には避けられ、よく知らない子からは謎のプレッシャーを掛けられた。一度お祓いにでも行ってみるかと真剣に考え始めたところで、後ろから肩を叩かれた。
「よっ! 今度は新しい女を早速泣かせたのか? まったく悪い男だねえ」
ニヤついた顔でそんな酷いことを言うのは、同じクラスの相模誠司だ。
「お前なぁ、俺がそんな事するかよ。わかってるくせに」
こいつも四月から知り合った奴で、最初の頃は由美と一緒に三人でつるんでいたのだ。それがいつの間にかフェードアウトしていき、今ではたまに会話するだけの仲となっていた。俺と由美の邪魔をしないようにというこいつの勝手な気遣いだったのだろう。
「まあ、人は見かけに依らないしね。わかんないよう。それにさっきの子、本当に泣きそうになってたよ」
「心が痛えよ。でもなあ、俺にどうしろと?」
「知らないよ。女の子と付き合った事なんてないしね。お前の方が詳しいはずさ」
確かに、誠司が女の子と話したりしているところは見たことがない。悪いやつではないし、男の友達は何人かいる。人当たりもいいし、ルックスもハンサムとは言わないが、それなりにいい。その気になれば彼女を作るのは難しくはないだろう。どちらかというと、まだ作ろうと思ってないという感じだ。
「それで、由美ちゃんとはどうなってんだよ? あんなに仲良かったのに。何があったんだ?」
「色々と噂されているのは知ってるよ。だが本当に何もないんだ。由美が急に避けるようになったんだよ」
「ふーん。それはお前が気付いてないだけじゃないの? 実はずっと我慢させてたとかさぁ。意外とあの子何でも抱え込みそうなタイプっぼいしね。不満が積み重なっていったとか」
その可能性は無いとは言えなかった。由美は、男友達の様に接してくるし、元気一杯で悩みなんて踏み倒して進む様なイメージだが、それは表に見せている顔で、実は色々と悩みを抱えている。なんてことがあるかも知れない。人は表に見える姿だけで判断出来るものではないのだ。
「へえ、意外とよく見てるのな、誠司」
「意外は余計だよ。確証があるわけじゃないけどね。何となくわかっちゃうって事が僕にはよくあるんだよ。昔からね」
「しかしなぁ、本当に見当がつかないんだよ。しかし、そうだなぁ、悩みか。あいつが何か悩みを抱えているとしたら……そうだ、そういえば、こんなふうになる前から由美の様子はおかしかったんだよ。なんかこう、人目を気にするようになったというか、俺と一緒に居るところを見られたくない様な。怯えている感じだった」
「ふーん。つまり、お前と一緒に居るところを見られると何かまずいことが起きたと」
誠司は、何やら考えにふけっていたが、やがて口を開いた。
「わかった。ちょっと探ってみるよ。由美ちゃんとは知らない仲でもないしな。何か分かったら連絡するよ。いままで気にならなかった訳でもないんだ。ただ勝手に探るのもね、なんか気が引けて出来なかったんだが、まったく宛がない訳でもないしね」
「お? いいのか? それは助かる。お前になら由美も何か話すかも知れないしな」
それじゃ、と言って誠司は立ち去って行った。いい退屈しのぎを見つけたように少し愉しそうなのは気になったが、まあいい。なにか成果があれはしめたものだ。
夜になって、日課になっている由美へのメッセージをスマホで送る。毎日送っているが、彼女が俺を避けるようになってからは一度も返事はない。表立って言えないことも、メッセージならと思ったのだが、駄目だった。しかし返事が返ってくる事がないとわかっているが、送る事が止められない。止めたらそれでもう二度と由美とは元に戻れない。そういう予感じみたものがあった。
そしてまた今日も返事が来ることはなかった。
次の日、登校すると教室がざわついていた。
普段なら、クラス中がざわつこうが気にしないのだが、最近の俺の悪評価が止まらないので、また何か新しいネタでも上がったのかと気が気でなかった。じっと静かに周りの会話を盗み聴くと、どうやら俺の事ではないらしい。単に転校生が来るという噂で盛り上がっているようだ。
自分の事ではないと分かったので一安心した。
そして、気持ちに余裕が出ると、噂の転校生にも興味が沸いてくる。女子だという話に男性陣は盛り上がっている。クラスの興味の的が俺から逸れるのは好都合だった。
チャイムが鳴り、担任がやって来て朝のホームルームが始まる。
そして転校生が来た事を告げられる。担任に呼ばれ、ドアから黒髪ツインテールの小柄な女の子が入って来た。静かに教卓まで歩き、こちらに身体ごと向き直る。身体の動きに従って、ツインテールがくるりと回る。
「冴木姫乃です。よろしくお願いします」
見た目の可愛らしさとは裏腹に、暗く沈んだ声音でぼそぼそと言った。
その時になって初めて気が付いた。彼女の左眼には、片眼鏡が掛けられていた。小さい顔には大き過ぎるサイズで、縁が太くゴテゴテしたスチームパンクじみた造形で金の龍が複数のたうっている様な装飾が施されている。レンズは薄暗く、サングラスの様だ。
「ああ、冴木さんは、眼を患っていて、陽の光に弱いらしい。それで片眼鏡を掛けている。間違っても、冗談で片眼鏡を外したりしないようにな。失明の危険もあるそうだ。みんなも気に掛けてやってくれ」
担任が、みんな彼女の片眼鏡に興味を持つだろうと予想したのか、いたずらしないように釘を刺した。まあ、当然だろう。失明するかも知れないとか言われたら流石に冗談でもする奴は居ないだろう。言っておかなければ、何人かは、やったに違いない。
しかし、俺は片眼鏡よりもむしろ反対側の眼の方が気になった。反対側の眼、つまり右眼だが、彼女の右眼はまるで死人の様に見えた。まるで感情を感じない、冷たい眼だった。どこにも焦点が合っていない、どこを見ているのかわからない状態だった。
「冴木さんの席は一番後ろの右から二列目だ」
担任に促され、こちらに向かって来る。一番後ろの右から二列目、つまり俺の右隣だった。
彼女は真っ直ぐこちらに向かって来る途中、周りからの興味の視線を浴び続けている。転校生で女の子、それに目立つ片眼鏡を付けている事が注目されるポイントではあるが、それ以上に彼女の顔立ちはよく見ると大変可愛らしい。しかしその視線は真っ直ぐ固定されたまま、表情も眉一つ動く事はなかった。周りの関心などどうでもいい。そんな強い意思を感じた。
机に着くと静かに席に座り、じっと前を見つめる。さっきからずっと見ている俺の事など眼中にないといった感じだ。隣の席なので、一言だけでも挨拶しようかと思っていたが、この周りを寄せ付けない拒絶の空気に断念する。声を掛けたところで、無視されそうな予感しかしなかったからだ。こんなに可愛らしいのに勿体ないと思った。彼女なら普通に笑うだけでも恋に堕ちる男子生徒は多数いる事だろう。彼女がこんなにも人を寄せ付けない感じなのは、その片眼鏡と関係があるのかも知れない。前の学校で何かあったりしたのだろう。あるいはもっと前か。
そんな事を考えたところでどうしょうもない。俺に何が出来る訳でもないのだ。それ以前に、由美の事を何とかしなければならない。そっちの方が、今は大事だ。
「なぁにぃ? そんなにこれが――気になるのぅ?」
彼女はいつの間にか、こちらを振り向いていた。そして片眼鏡を指差し、いたずらっぽい笑みを浮かべる。声音が自己紹介の時とは変わって、ねっとりと甘く、此方を包み込んで離さない。死人の様なその右眼が少しずつ色味を帯びてくる。綺麗な緑がかった瞳に変貌していく。
「あ、ごめん」
反射的に眼を逸らす。ずっと人の顔を見つめるのは流石に失礼だった。それに、このまま見続けてしまうと、自分が取り込まれてしまう。そんな身の危険を感じた。
「ねぇ?」
耳元で声がしてびっくりする。危うく声を上げそうになったが、ギリギリのところで踏ん張った。
「なっ? なに? 冴木さん」
すぐ目の前に居る彼女に、動揺を隠そうとしたが、言葉がうまく出ず狼狽えてしまった。
彼女はいつの間にか、椅子を近付けて側までやって来ていた。
「姫でいいよぅ。みんなそう呼んでるしぃ」
「きみはぁ、早月隼人くんだねぇ?」
いつの間に、俺の名前を知ったのだろうか? それになんだ? 俺になんの用があるっていうんだ?
心の中で様々な疑問が湧き出すが、言葉に成らず口がパクパクするだけだった。
「これからぁ、よろしくねぇ〜。お隣さん」
甘ったるい声音で、そんな事を言いながらひらひらとその手を振って笑った。笑った?!
「何だ、笑えるじゃん」
つい思った事が口をついて出てしまった。どんな反応をされるかとドキドキしたが、さらに別の意味でドキドキさせられる事になった。
「こっちの笑顔の方が隼人くんは好きかな?」
わざわざ笑顔を変化させていく。そして、見透かされたのか、最後に行き着いたその笑顔は、俺の心を捕らえた。
返事に困りどぎまぎしていると、彼女はくすくすと両手で口を隠しながら笑った。
「ねぇ、お昼。屋上に付き合いなさい。そしたら色々と教えてあげる」
そう言うと、またくすくすと笑うのだった。