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【第4章】

好きな男がディルドになった。

意味がわからない。いや、言ってることはわかる。ディルドになった。ただ、それだけ。

ただ、それだけが、文の頭を混乱させた。

ディルドになる。ディルドが喋る(テレパシーのように、脳に直接語りかけてくるよう)。これらは、平凡な日常を歩んできた文にはあまりにも刺激が強すぎた。あまりにもファンタジー。ファンタジーにしては、下品すぎる。

しかし、同時にこうも思った。どうでもいい。

「先輩」

気がつけば文はディルド(となった幸太郎)を抱きしめた。

好きな男。抱きしめたい。その衝動は、これらの不可思議な現象全てを飲み込むには充分すぎた。

ディルド。20CMの長さを誇るそれは、女を喜ばすには充分すぎる代物だと思う。しかし、生命を感じるにはあまりに小さく、無機質すぎた。体温はもちろんなく、シリコン特有のひんやりとした冷たさと、表面は柔らかく、中に芯のような硬さを感じる。

文はディルドの存在こそ知ってはいたが、見たこと、触ることは初めてであった。初めて触るディルドが、好きな男。

「何があったかわかりません。わからないけど、けど、大丈夫。大丈夫です。」

「ごめん。おれ、訳がわからなくて」

幸太郎の声は震えていた。

「訳がわからなくて当然です。けど、大丈夫です。私が、いますから。」

震える幸太郎を強く抱きしめた。

自分の言葉に、文は熱くなった。

ディルドとなった幸太郎は、熱を感じるのだろうか。感じないでほしいと思った。さらに文の体温は上がった。


落ち着きを取り戻す。幸太郎がその状態に至る頃には、すでに世間は夕方になろうとしていた。

人間がディルドとなる不可思議な現象が起きている中、世の中は変わらず時を刻み、日常というものが行われていく。

無常。無情。

もう、二度と普通の生活を送れないのか。どうして自分なのか。どうして姿が変わる。ましてやディルド。

わからないことばかりだった。不安でいっぱいで、小さなこの身が張り裂けそうで、叫びだしたくて。しかし、叫び出せはしない。

幸太郎の身体には、口もなければもちろん声帯などない。どれだけ声を張り上げようと意識したところで、

「声」として響いていないことは文から聞いてわかった。

文が幸太郎を抱えつつ寝返りを打った。文は幸太郎の異変に気付いてから、常に幸太郎を抱き抱えるように、ベッドから動かずにいた。

わずかながらに聞こえる、呼吸音と心臓の音。文の体温。それらは幸太郎の焦りや不安を、時間をかけて溶かしていった。

決して全てが楽天的に昇華させることはできないが、安心を得ることができた。

文に全身を包まれる。不安でいっぱいのこの身だが、ずっとこのままでいられればいいとさえ思ってしまう。


文の腹の中から、低い音が鳴った。空腹の鐘の音。文は昨日の飲み会からは一切呑み食いはしていないはずだった。腹が減るのも無理はない。

「ごめん、腹減ってるよね。食ってきなよ」

「あ、ごめんなさい。幸太郎さんは・・・」

「俺は・・・いいんだ」

「ごめんなさい。ちょっと待っててくださいね」

腹が減らない。

口もないのだから、食べることもなく、腹が減らないのであれば、栄養の接種は必要ないのか。

不安が胸をかすめる。腹が減らないことが、こうも不安を加速させるとは思わなかった。

空腹とは、生きている証なのかもしれない。腹が減れば怒りが湧き、腹が減る故に人は食事をし、食事がうまければ喜ぶ。

それら一切がなくなる。この肉体は、空腹がために得る喜びも、怒りも、全て機会を失ったのか。




キッチンの方から、冷蔵庫の開く音がする。コップに水が注がれる音。冷蔵庫には、麦茶があったのを覚えている。

微かに聞こえる、喉を通過する音。水分を嚥下する音は小気味よく、リズムよく幸太郎の頭へ響く。

再度冷蔵庫を開け、ビニールを力ずくで開ける音が聞こえてきた。幸太郎の位置からはキッチンの様子は見えないが、音を予想するに文は何かを食しているように思う。

嚥下音と共に咀嚼音が組み合わさった。女の咀嚼音。かつて意識して聞くことはなかったその音は、平常時であれば嫌悪感を抱くであろうが、いまこの特異な状況において、幸太郎にとっては気持ちを整えるために大いに役立った。

「ごめんなさい。ちょっと、キッチン周り掃除しますね」

文の言葉に幸太郎はうなずくと、キッチンの方から水道の蛇口をひねる音が聞こえてきた。また同時に、ゴシゴシと何か擦る音も聞こえてくる。絶え間なく聞こえる水の音は、時折何かぶつかったかのように音を跳ねさせていく。しばらくすると、カチャリカチャリと食器の重なる音がする。

水の音。洗剤の泡が膨らむ音。食器の重なる音。

なんでもない日常の音が、今の幸太郎の心を優しく撫でる。自分以外の音が、こうも心を落ち着かせるのか。

孤独を愛すことまで行かずも、孤独を受け入れ、孤独を楽しんでいた幸太郎にとっては、他者の音など必要とすることはなかった。

しかし、こうして他者の音を聞くことで、他者の存在により自らの生存を確かめているように感じていた。

不意に幸太郎の身に猛烈な眠気がやってくる。抗えない。

次に目覚めた時、この非現実的事象がすべて夢であってほしいと幸太郎は願った。











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