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無人島ラジオ

作者: 小萩珈琲

 昨日、相方が死んだけれど、私には悲しむ時間などなかった。

 いつものように夜の十二時を過ぎた頃に、一人明かりのついていない電波塔にのぼって、埃臭い部屋の明かりをつけた。

 配線むき出しの無骨な送信機の電源を入れて、CDラジカセからチェットベイカーの「バット・ノット・フォー・ミー」を流す。煙草を一本咥えて、細かく煙を吸っては吐き出す。相方が残していった巻きたばこの残りである。怪しい浮浪者から買っていた巻きたばこ。怪しいし、体に悪そうだからやめとけと何度も注意した巻きたばこ。すっぱくて少し甘いにおいがする。

 十二時三十分ちょうどでマイクの電源を入れる。軽く咳払いしながら私はイヤホンをつけてマイクに向かって話し出す。

「ハロー、ハロー皆様。すいませんな。今日からワタクシのワンマンです。相方がぽっくりと逝ってしまいましたもんで。冗談と思ってる方もいらっしゃると思いますけれど、本当ですからね。まあ、そんなこといいですわ。じゃあ、今日も皆さんのお悩み相談といきますか」

 


      〇



 荒れたタイルの旧シネマ通りを歩いていると、そのまま芭蕉橋に差しかかった。日に焼けて真っ黒なコンクリート高欄に背中をもたれるようにして、天使ちゃんが空を眺めながら呆けているのが見えた。

「お前なんで、制服着ていないの?」

 僕が声をかけるよりも先に、天使ちゃんのほうが僕に声をかけた。そして、僕がそれに答えるよりも早く「まあ、どうでもいいけど」と早々に興味を失くしてしまったみたいだった。

 海から吹く潮風に紛れて、金木犀の香りがしたのは天使ちゃんの香水か、遅めの秋の訪れの示唆だろうか。とにかく、少し乾燥し始めた空気に染みこむように薫っていた。

「早く学校に行こうよ」

 天使ちゃんは高欄から体を離して、腰のあたりをぽんぽんと叩いて、付着したコンクリートくずを落とした。

「ごめん、今日はいかない」

 僕はそう答えた。できるだけ天使ちゃんの機嫌を損ねないように柔らかい口調で答えたつもりだったんだけれども、天使ちゃんはそんなことあまり興味なさそうに「あ、そう」とだけ答えて、こちらを振り向きもせずに行ってしまった。

 天使ちゃんはいつもこの橋に僕を迎えに来る。そして、僕はいつもそれを断っている。学校なんて行っても意味がないから。意味がないという言葉には少し語弊があるかもしれないけれど、僕にはあまり有意義に学校というシステムを活用できる自信がなかったから。とても残念だけれど。

 旧シネマ通りの両脇にはすでに閉館された映画館が立ち並んでいた。ほとんどの窓は割れて、外壁も崩れている。昔は一世を風靡したであろう映画の広告でさえ名実ともに色あせて、海獣のようにぬらぬらと光る女性の裸体が描かれたピンク映画でさえ、もはや妖艶さも女性らしさも失われていた。

 世界が空っぽになったような秋晴れが広がっていた。シネマ通りを東に渡ると、海岸まで続く坂道がある。そこから潮風が吹きあがってきて、ここら辺の鋼製の建物はすっかり錆びてしまう。寂れていて、さらに錆びれているのである。

南北に延びる高架橋が作る影が、この町を分断している。太陽光で感光したコンクリートが所々剥がれ落ちている。今やだれも使うことのない立ち入り禁止の高架橋。置き去りにされた一台のバックホウが、こののっぺらぼうの上で一人寂しく佇んでいる。

 僕は旧シネマ通りを南に通り抜けて、立ち入り禁止の住宅街に入りこんだ。碁盤上のように正確に四角く区分けされた住宅街で、いくつかの赤いバツ印が扉に大きく書かれた一軒家を横目に、僕はチェットベイカーのメロディーを口ずさんで足取りも軽やかだった。

 その中の青い屋根の一軒家に僕は入った。もちろんこの家の扉にも赤いバツ印が書かれている。家の中は散乱しているし、ところどころ黒い泥の塊がこびりついているので、僕は土足でどしどし進んでいく。

台所に残された割れたマグカップに、かつて住んでいたであろう住人の生活の残り香を感じる。

 僕は書斎のラジカセで録音しておいた深夜ラジオを聴く。カセットを流すと、乾いた布同士を擦り合わせたようなガサガサとした電子音が聞こえた後、しばらくして音が安定しだして「ハロー、ハロー」としゃがれた声が聞こえた。

「ハローハロー、皆さん」

 僕はこの時間が好きだった。例えば、僕が無人島にいて大きな椰子の木陰に座り込んで、延々と続く波の先を何十年も眺めることになったとしても『萩原教授と安藤博士の深夜ラジオ』さえあれば不思議と孤独感も薄くなるような気がした。

「無人島」という表現は言い得て妙である。僕の寂しさを表現するのにまさに「無人島」という表現がぴったりだった。孤島の寂しさの中にも、椰子の木陰の中に居るような心のゆとりが潜んでいて、「僕は孤独だ」なんていかにも陳腐な表現を使わずに済むのがいい。

「このラジオ聞いてる人いるのかな。まあ、いるんでしょうなあ、地味にメールも来てるし」

 僕は革のチェアの背もたれに深く体を静めて、ラジオのボリュームを少し上げた。デスクの上のバカラの灰皿を見て、僕もあと三年もすればここで堂々と煙草を吸いながらラジオを窘めるのだろうと思った。

「なんか暗いメールばかりね。しゃあないか、こんなご時世だし。みんなよく耐えてると思うわ。私の相方がね、まだ京都の亀岡っちゅうところに住んでいた頃はまだ人も多かったし、それなりに地方も機能していたから、学生さんやら会社員さんが沢山いたんですよ。居酒屋なんかもそれなりにあって、苦しいながらも和気あいあいと暮らせていましたわ」



       〇



 私は送信機の電気を落とした。デスクの左側でモニターが煌煌と光を放っている。地方各所のどこかで、何箇所か受信していることはわかっていたけれど、それ以外はほとんど反応がない。メール画面も全く反応がない。画面には興味のないリコメンデーションばかりが淡々と流れている。

「誰か聞いてくれているんなら、助けに来てはくれんだろうか」

 隣で相方がそう呟いたような気がした。

「助けに来るも何も、お前もう死んでるわ」

 私は静かにそう答えた。

 死んでもなお、この廃都から逃げ出そうとしているなんて惨めで仕方がない。彼のその図太さ、私はひそかにあこがれていたのだ。

ついに、二十年近くこの無人島ともいえる廃都から逃げ出すことはできなかったけれども、二人でこのブースで向かい合ってマイクに向かって笑い話をしている時間も、私たちには必要な時間であった。……はずである。

 そもそもいまだにラジオを受信できる機械のほうが世の中には少ないだろうから、聞き手がほとんどいないことは必然である。だからだとは思うけれど、二人でひそひそと垂れ流すラジオは、お互いの秘密話を打ち明ける青春時代を思い出すようで大変不毛であった。皆の心に余裕がない昨今では、不毛であるということは、とにかく素晴らしいことである。誰かにそれが伝わっていればいいと思う。

だから私は、今日も不毛なラジオを懲りずに垂れ流す。



       〇



「孝之たちが東京に行くんだって」

 固いハッサクの皮を細い指でこじ開けている天使ちゃんの金髪が、塩辛い潮風にたなびいている。僕は彼女のひねくれた髪の毛が好きだ。綿あめのようにふわふわとしているし、ウールのように暖かそうだ。

「父親が東京で開業するんだってさ」

「孝之ってだれ」

「医者の息子」

「僕の椅子を壊した奴?」

「それは博之」

「似たような名前だなあ」

「孝之はお前の机を、煙草の吸い殻まみれにした奴」

「煙草吸ってるのかよ。医者の息子のくせに体に良くないなあ。それに彼は成人していたんだっけ」

「私たちと同い年に決まっているじゃん。不良なのよ、いわゆるね」

「でも、煙草に興味がある彼の気持ちは、少し僕も分かるなあ。不本意ではあるけれども理解はできる」

 僕の声も萩原教授や安藤博士のように、多少はかすれた声になれば少しは大人になれるというものだ。声変わり真っ盛りのべとべとした声であるから馬鹿にされたりするのだと思う。僕に必要なのはダンディズムであるに違いない。

 防波堤の上で天使ちゃんの白い足が小気味よくプラプラと揺れている。崩れた防波堤に腰掛けるには二人でちょうどいい。眼下には砕けた消波ブロックが散在していて、そこに天使ちゃんがちうちう吸い終わったハッサクの皮を投げ捨てる。

「それで、天使ちゃんも一緒についていくの?」

 僕は何気なく聞いてみた。

「馬鹿じゃないの」

 呆れたように天使ちゃんは笑うのだった。そんな柄にもない笑顔ではなく、冷めた目つきで行くわけないじゃんと言ってほしかった。天使ちゃんの答えは限りなく「ノー」に近かったけれど、濁された気持ちになって、僕は心のどこかで鬱屈とした。

「学校に来ないでいつも何やってるの?」

 話題を変えるように天使ちゃんが僕に聞いた。

「ラジオを聞いてるんだ。ラジオ知ってる?」

「まあ、存在くらいは……」

 頭の中でラジオというワードを探すように、頭上を見るようなしぐさをして天使ちゃんが答えた。

「立ち入り禁止の住宅街で、勝手に民家に入ってね」

「ふーん。ラジオなんてまだ番組放送してるんだ」

「多分、どっかの電波塔を使って勝手に放送しているんだと思う。『萩原教授と安藤博士の深夜ラジオ』」

「教授と博士?」

「自分達でそう呼称しているんだ」

「ダサいね」

「そうかなあ」

「ダサいというか痛いね」

「でもそんなダサさが染みてこない?」

「全く」

 水平線の向こうにビルの頭がぽつぽつ生えているのが見えた。傾いていたり、てっぺんが崩れていたり、その中には送電塔かもしくは電波塔のように背の高い塔もある。

 天使ちゃんは食べ終えたハッサクの皮を海に向かって放り投げる。大きく腕を振ったわりにはあっけなくその辺に沈むハッサクの皮が水面近くでゆらゆらと揺れた。立ち上がり、「さて、帰るわ」と言いながら腰のあたりを手で払う。そのまま本当に帰ってしまいそうな振舞だったので、僕は慌てて声をかける。

「今日はうちに来ないの?」

「やめとくわ。お前こそ、そろそろ学校来いよ。昼間っから堂々と不法侵入してないでさ」

 そのまま天使ちゃんは帰っていった。真っ白の肌に金色の髪、ワイシャツが潮風に膨らんでぱたぱたと揺れている後ろ姿は本当に天使みたいだった。

 帰っても、家には誰も居ない。昨日茹でておいたトウモロコシをもさもさと貪って、水道水で流し込む。そのまま僕は上半身裸になって、ヤモリのように這いつくばりながら布団の中に潜り込んだ。布団の冷たいところが火照った体に気持ちいい。

 布団の中で、この町が海に飲み込まれるのはいつになるのだろう、僕がこの町から出ていかなければならなくなるのは、いったいいつになるんだろうと考えていた。その時が来れば、ここ一帯は本当に無人島みたいになる。そうなる前にあの家からラジカセを運び出さないといけない。ラジオを聴くときはあの家でとは思っていたのだけれど、その場合は仕方がない。

 僕は夜になってもなかなか寝付けない。朝方まで本を読んだり目をつむってやり過ごしたりしている。日が昇ると、パーカーとジーパンに着替えて芭蕉橋に向かう。そして天使ちゃんに会う。それが日課だった。

「お前、今日も学校行かないの?」

 僕の服装を見た天使ちゃんがため息をつく。

「そもそも今学校って何人くらいいるのさ」

「クラスの三分の一くらいは来てるよ」

「三分の一も行ってるのか。みんな暇なんだなあ。ほかの人たちは全く来ていないんだね」

「うん。お前と同じで全く来ていないね。そもそも、まだこの町にいるのかどうかも不明なんだわ」

「じゃあ、なおのこと僕はいかなくていいね」

「なんでそうなるのよ」

「話し相手がいないのはつまらないじゃないか」

「お前に友達なんてそもそもいないじゃない」

「あーあ。そういうこと言っちゃうんだ。なかなか刺さったよ、今のは」

「なんとも思ってないくせに」

「学校に行ったら、天使ちゃんが僕に話しかけてくれる? いじめられたら助けてくれる?」

「いや、それは無理。登下校を一緒にしてあげるくらいならばいいよ」

「じゃあ、行かない。今日も録り溜めたラジオ聞きに行く」

「そんなに面白いの? そのラジオ」

「まあ、学校よりかは退屈しないかな。先週から萩原教授一人になっちゃったけどね」

「なんで?」

「わかんない。体調不良かなあ」

 しばらくそんな他愛もない話をしてから、天使ちゃんは颯爽と学校に向かった。僕は学校とは反対方向の住宅街へと向かっていった。話している間はわりかし楽しそうなのに、去り際はいつもあっけない。



       〇



 配電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされているけれど、今更整理整頓をする気にもなれない。ほとんど相方が散らかした形跡の名残だから、私が手を付けるのも何か癪だ。

「メールが来ている」

 珍しく本当にメールが来ていたものだから、普通に読み上げる前に驚きの声が漏れた。

「『友達が何も言わずにある日どこかに消えてしまいました。先生に聞いたところ引っ越してしまったようです。僕は互いに信頼している友達だと思っていたからショックが大きいです』だって。うわーそりゃあショックだね」

 久しぶりにシビれる内容のメールだった。こういうのは大好きだ。さらに言えば、この友人関係が男女の関係であれば、なおのこと大好物である。

「まあ、同じようなことをね、大なり小なりしたりされたりしたこと、私もあるんだけれど。だから、多少気持ちはわかりますよ」

 まずはどういう状況であったのかを、なるべく想像しながら私はコーヒーを口に含んだ。想像すればするほど意図せず口角が上がる。

「『先生に聞いた』ってことは学生ってことだよね。へー、田舎のほうの学生さんってことかな。で、その子は東京に避難してしまったと。そんな感じかな。私の勝手な想像で言っているのだけれど」

 あながち間違ってはない推理だと自分でも思う。

「『互いに信頼』って書いてあるけれど、それって難しいよね。だって相手が本当に自分のことを信頼しているかどうかなんてわからないもんでさ。信頼ってのは結局一人称だから。『互いに信頼』って言葉自体が矛盾しているような。いや、この子を責めているわけではないんだよ、本当に」

 ブースにはいつものように「バット・ノット・フォー・ミー」が皮肉のように流れている。

「なぜ何も言わなかったかってのはさ、もう永遠に謎なわけじゃん。であれば、自分の都合のいいように解釈してしまえばいいんじゃないかね」

 向かいに座っている今は亡き相方ならば、こんな雰囲気のことをつらつら語るだろうと思う。

「例えば、大変突発的な引っ越しであったとか、伝えるのも辛いほど苦渋の決断であったとか」

 そう付け加えてのんきに煙草に火をつけるのだろう。自分が好きでラジオを放送しようと決めたくせに、いつもメールの返事は適当なのだ。

「何も言わずに行くほうも結構辛いものなのよ。少なからず罪悪感はあると思うね。で、君がその子を『裏切った人』とするか『遠くの友達』とするかで、この先の君の人生の有意義さが決まってくると思うね。しゃあないじゃないか、もう遠くに行ってしまったんだから」



       〇



 その日、天使ちゃんは芭蕉橋の上に居なかった。僕は制服姿で橋の上に立ち呆けていた。

 しばらく待っていても天使ちゃんは一向に現れる気配はなく、明らかに登校時間を過ぎても橋の上は静かだった。

 学校行こうか、せっかく制服も着たことだし。

 自分でも驚くほど学校に行くことに抵抗がなかった。崩れた外壁の旧ビル街を通って、ほのかに生活の気配があるアーケードを通ると、秋の乾燥した風がツンと薫る。

 すでに授業が始まっているためか、学校は息をしていない生物のように静かで異様だ。下駄箱にはほぼ新品の僕の上履きがあった。靴の中を一応確認してから、のそのそと履き替えた。

 「新木春子」と書かれた下駄箱を見つけた。天使ちゃんの下駄箱だ。何の気なしに僕は中を見た。決して変態的趣向の行いではないけれども、ごく自然の行為として僕は天使ちゃんの下駄箱を覗いた。

 天使ちゃんの上履きがそこにあった。つまり今日、学校には来ていないということだ。僕はすっかり萎えてしまった。

 僕は上履きから外靴に履き替えることも忘れて、そのまま学校を出て行った。その時、なんとなく「もう二度とここに来ることは無いんだろうな」と直感した。

 なんとなく住宅街のほうに行く気にはなれなかった。帰路で制服のまま僕はなんとなく図書館のほうに歩いてみたり、駅のほうに歩いてみたり、さらには若者が集まりそうな商業施設の近くまで来てみたりした。どこも人は少なかったけれど、なんとなくやはり僕の肌には合わない気がした。道中ではたびたび若い女性の笑い声が聞こえて、その度に振り向いてみたけれど、天使ちゃんではなかった。

 秋とはいえ、散策を何時間も続けると汗もかくし、足もくたくたになってくる。日中にこんなに動き回ったのは久しぶりであったから、僕は想定外の自分の体力のなさを嘆くしかなかった。

 天使ちゃんはどこか遠くへ行ってしまったのかもしれない。なんとなくそんな気がした。

振り返ってみれば僕と天使ちゃんは固い絆で結ばれていたわけでもないし、将来の結婚を約束したわけでもない。悪戯で危うい一線を越えかけたことはあるけれども、僕は天使ちゃんを親友や恋人というよりは相方として捉えていた。

 僕らには何か目に見えない信頼関係がある。

 漠然とそんな気がしていたのだ。でも、信頼関係なんてお互いに確かめようもないから、それが僕の独りよがりだった可能性も十分にある。むしろ、その曖昧さに僕自身甘えていたところも大いにあるのだ。

 おとなしく僕の家のほうに向かう。これ以上、天使ちゃんのことを探しても無意味だ。

 海岸沿いをうつむきながら、足早に歩いてゆく。シャツが汗と潮風でねっとりと肌に張り付いてどうも気が晴れない。

 旧シネマ通りのピンクシネマの看板が、必死に僕を誘惑する。ボロボロの舗装で何度か躓く度に、普段は何ともないことなのに苛苛した。日が傾いて、南北に延びる高架橋の作る影が、シネマ通りを丸ごと飲み込んでいる。

 萩原教授のラジオにこの気持ちをメールしてみるのはどうだろうか。と、僕はふと思った。誰でもいいからこの内なる感情を、誰かと共有したいと思ったからだった。

 芭蕉橋に差し掛かる。

「お前、なんで制服着ているの?」

 芭蕉橋には天使ちゃんがいた。

 コンクリート高欄にもたれかかって立っている。大きなスーツケースをもって、見たこともない濃い藍色のワンピースを着ている。天使ちゃんは少し汗をかいていて、夕日のせいかもしれないけれど、頬もどことなく赤く染まって見えた。

「君こそどこにいたんだよ」

 僕はそう言った。自分でも驚くほど語尾が強くなっていた。

「何、もしかして私を探してたわけ」

 天使ちゃんは怪訝そうな顔つきでそう言った。不機嫌だというよりは、僕が苛苛しているのが不思議でならない、といった様子だった。

「探してたともさ」

「そんな汗だくになっちゃってさ。みっともないよ。私は別にその辺で買い物してただけだよ」

 僕は天使ちゃんの傍らに置いてあるスーツケースを見やった。

「その辺で買い物ね」

「そ、買い物。お前は? 珍しく制服なんか着ちゃって、久しぶりの学校は楽しかった?」

「まあ、楽しかったともさ。意外と心穏やかに過ごせたね」

「心穏やかね」

 天使ちゃんの視線が僕の足元を見た。その時になって自分が上履きのまま帰ってしまっていることに気が付いた。二度と学校には行かないと思ったけれど、外履きを取りには戻らないといけないことは確かである。

「東京に行ってしまったのかと思ったよ」

「いかないって言ったでしょ」

「そうだけど」

「ぶつぶつ言うな」

「でも、急にいなくなるから」

「いつでも私がいると思うなよ、ヘタレ」

「いつでもいてくれないと困るよ!」

 こんなに言い合いをしたのは初めてだった。

「もういいでしょ。帰ろうよ」

 コンクリート高欄から背中を離して、腰のあたりを手で払った。傍らのスーツケースを手に取って、天使ちゃんは僕の家のほうへと歩いて行った。

「明日は一緒に学校行ってあげる」

「僕はもう行かないよ」

 天使ちゃんから金木犀の香りがした。



       〇



 私は一度、相方には何も言わずに町を出ようとした過去を思い出していた。私も相方も親はいなくて、ずっと一人だった。そういう子たちも町に少なくはなかったのだ。

東京には永遠に行けないものだと思っていたけれど、同級生の男の子のご両親が私を養子にしてくれると申し出てくれた。その子の父は医者をしていて、東京で開業しようとしているところに誘ってくれたのであった。

 あの日、私が東京に出て行っていたら、私はこんなところにはいないだろう。煙草なんて吸わなかっただろうし、ほとんど人のいない廃都で、無人島のようにほとんど海に埋もれた鉄塔の上で毎晩需要のないラジオを垂れ流すこともなかっただろうと思う。

 私のことを天使ちゃんと呼んでいた相方は、あの日少し泣いていた。あの悲しそうな真っ赤な顔を思い出すと今でも笑ってしまう。

「ハローハロー、皆様。今日も聞いてくれている人はありがとう。そういえばこの『ハローハロー』っていう始め方、昔相方が聞いていたラジオ番組の冒頭をそのまま真似しているんだよね。知っているかな、『萩原教授と安藤博士の深夜ラジオ』」

 私は遠くの故郷を思い出しながらマイクに向かって話し始めた。今では海に沈んでしまった芭蕉橋にはまだきっと金木犀の香りが残っている。

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