6 緊急事態とお泊り会
「……それは?」
宰相副官の視線にうながされてアキは自分の手元を見やれば、そこには食べかけのままのトマトがにぎられていた。
「……今のうちに食べてしまいなさい」
「あ、すみません」
トマトを手にしたままのアキに、副官は訝しげな顔を向ける。宰相であるコンラスのいない今、ひとまずアキは宰相副官に指示を仰ぎに行ったのだった。ヨアンが言っていたように、丁度この中央棟への報告がいったばかりのようで、緊急召集をかけている間その場で待たされていた。緊急といっても、今回は事件の規模も小さく、被害も今の所でていないということで、兵団長のみが呼び出されていた。
「失礼」
トマトを口に押し込むアキの後ろで、足早に入ってきたのはツァレトフ団長だった。
「では始めましょう。ツァレトフ殿、報告をお願いします」
団長の報告は概ね、中央棟へ先だっていったものとあまり変わりはなかった。アキは、先ほどメモしていたものとすり合わせていく。
「ツァレトフ殿は引き続き、現場から何か報告があり次第こちらに伝達をお願いします」
副官は、落ち着いた様子でそう言うと、てきぱきと指示を出して行く。
「モリナー殿、宰相に報告をお願いしますね」
「はい」
心得たとばかりに頷くも、アキは内心気が重かった。
部屋を出たアキは、報告書を手に廊下をとぼとぼと歩く。向かう先は、王室図書館の近くにある一角だった。王宮の左翼に位置するそこは、第二兵団の棟である。
第二兵団は主に魔術全般を管轄とする機関である。この世界の魔法は全て、魔法陣と詠唱の組み合わせによって発動される。王都に張り巡らされた結界も彼らによって施される。彼らが請け負うものは防御や攻撃魔術だけでなく、転送術や医療術といったものにまで及ぶ。
規模の大きい第一兵団に比べ、第二兵団は少数精鋭であるため、棟も比較的こじんまりとしている。一室の扉を叩き、中へ入るとそこには、眼鏡をかけた神経質そうな男がいた。
「あぁ、あなたですか。なんですこの忙しいときに」
アキの顔を見るなり非難がましい目を向けるこの男は、第二兵団所属の一級魔術師である。以前、あまりのモテなさ加減に呪われているのでは、と訪ねてきたアキを門前払いした男だった。白髪交じりの短い髪に、縁なしの眼鏡をかけた小柄な男で、机で何やら書き留めている姿はまるで学校の教師のようにも見える。現場におもむくよりも机の上で作業をしている事が多く、アキがここに来る時は大抵彼がいるので何となく気まずい。
「リーアン様がいらっしゃればこんな事件など……」
独り言のように呟かれた人物はアキも知っている名だった。かつての第二兵団魔術師長で、多くの人に慕われたこの国の英雄だ。コンラスによればだいぶ高齢でずいぶん前に亡くなられているとのことだった。
「すみません。出張中の宰相に報告をしたいのですが」
彼はクイッと眼鏡を上に押しやると、ため息をついて立ち上がった。
「場所は、オレリーでしたか」
「はい」
男はコンラスが視察に出向いている地区名を確認すると、机のすぐ横に向かった。そこは4本のポールが地面に四角く置かれ、その内側には直系1m程の魔法陣が描かれている。複数の術式の組み合わせである魔法陣には、複雑な呪文が細かく書き込まれていた。
「そこに置いてください」
彼女が手にした報告書を魔法陣の内側に置くのを確認すると、男は転送術の詠唱をはじめた。魔術言語は独特な古めかしい言い回しをするため、あらゆる言葉が理解できるアキでも念仏のような何かにしか聞こえない。彼女は呪文を聞くたびに自分の学生時代に散々な点数だった古文や漢文の授業を思い出してしまい苦い顔になる。
やがて円が発した淡く青い光に報告書が包まれていくと、フッと消えた。同時に光も消える。コンラスのいる視察地にも同じ魔法陣が設置されているので、そこに転送されたのだ。ちなみに報告書の紙にも特殊な術が施されているので、通常の紙では転送することはできない。声を伝達することも可能であり、さながら電話とFAXのようでなかなか便利である。
ひとまず今日は帰宅して自宅待機との指示が副官から出ていたので、ひと仕事終えたアキは宿舎へと向かっていた。周囲は慌ただしく人が行き交っている。
「アキちゃん!」
喧騒の中でふと聞き覚えのある声に呼ばれて振り向けば、そこには女中頭のおばちゃんがいた。
「お仕事あがりに悪いんだけどね、折り入って相談があるのよ」
そういうと彼女は申し訳無さそうに眉根を寄せた。
「どうかしました?」
「それがねぇ、何人かのお嬢さん方が帰れなくなっちゃってね」
聞けば、今回の騒ぎで市街地も多少混乱しているらしく、行儀見習いに来ているお嬢様たちの一部の家では迎えが出せなくなってしまったそうだ。
「ちょうど明日はお休みだし、このまま城内で一晩預かっていたほうが安全かと思うのよ」
「確かにそうですね」
だが、残念ながらこの城にはまだ女子寮がないのだ。さてどうしようかとアキが思案すると、おばちゃんがおもむろに口を開いた。
「家族用の宿舎の方にも何人かお願いしたんだけどね、アキちゃんのところにも泊めてもらえないかしら」
それからアキは急いで家に帰ると大急ぎで部屋を片付けはじめた。洗濯物干し専用と化している一部屋に入るなり、紐に吊るされた下着やら何やらを引っ掴んで戸棚に押し込む。端に寄せて無用の長物と化していたベッドを引きずり出してシーツを敷き、何とか客室の体裁を整えていく。いつもトリヤーナが使う客室にもシングルベッドがあるし、あとは自分が使っているダブルベッドもシーツを取り替えて使ってもらえば4人まで寝れるだろう。アキ自身は居間のソファで寝ればいい。
「あの、皆さんのご自宅に比べるとすっごい汚いところですからね、非常事態ですのでどうか我慢してくださいね」
使用人の休憩室で待機していたお嬢様たちを迎えに行くと、アキは言い訳がましく一気にまくし立てた。あぁ、風呂とかトイレとかの掃除を忘れていた、と今更思い出すももう遅い。
「あぁアキ様、どうかお気になさらないでください」
「そうですわ。こんな時に贅沢など言ってられません」
お嬢様方はお育ちが良いので、表立って不満を露にする者はいなかった。ありがたいことに城内の食堂が気を利かせてくれて、週末の在庫整理もかねて食事を出してくれたので、お腹が満たされていたことも関係あるだろう。空腹は人を攻撃的にするのだ。
「私は女学校で寮に入っておりましたので、慣れておりますのよ」
この王都で唯一の女学校といえば超お嬢様学校で知られている私立ヴェルフェラン女学校しかない。そんな一般市民にとっては雲上の学生寮と、自分の住んでるごく平均的な宿舎を比べないでほしいと思いつつ、アキはお嬢様たちを城内の一角にある家へと案内していった。
まだ日が長いこの時期は、薄っすらと外が明るい。窓の外からぼんやりとした光が柔らかく入ってくる。
「それで、皆様どの殿方が素敵だと思います?」
宿舎では何故か、非日常に興奮して寝付けなくなったお嬢様達による恋バナ大会が行われていた。外はまだ緊急事態だし一応自宅待機の申し付けがあった身なので、あまり盛り上がるのもどうかと思いながらも、アキはお開きを言い出せないまま何故か参加させられていた。
「私は第一兵団のキャドック分隊長様が美しいと思いますの」
「見事な金髪をお持ちですわよね」
「そう! 凛々しい軍服姿に白い手袋をはめていらっしゃるのを見るとため息が出てしまいますわ」
「でしたら私はオルファン分隊長様も。あぁ、あの氷のような美しい瞳で見つめられたい」
聞き覚えのある名前にぎくりとするも、アキは口をつぐむ。あの瞳を真正面からとらえるなんて猛者ではないか。
「私はもう少しがっしりとした殿方が好みですわ。副団長様のような体型が理想ですの」
「肩は広いのに腰がしまっていらっしゃって……あぁ一度でいいからあの体に抱きしめられたい……!」
こらこら、淑女たるものはしたないですよ、とアキが心の中でたしなめる。
「私は恐れながら陛下が……耳と鼻の形が大変美しくて」
「まぁ分かりますわ!」
「事務官のところにいらっしゃるお若い眼鏡の方も。あの男らしい手で眼鏡を持ち上げる仕草を見ると……もう」
若干話がマニアックな方向へと進んでいる気がするが、お嬢様方が楽しそうで何よりである。アキが冷めた紅茶を淹れ直そうと席をそっと立つと、手入れの行き届いた艷やかな栗色の髪を持つ令嬢がめざとく声をかけてきた。
「アキ様はどんな殿方がお好みですの?」
それまで聞き役に徹していたのに、急に話を振られて言葉につまる。一方のご令嬢はその好奇心に満ちた目をキラキラと輝かせた。
「え」
自分の好みなんてこれまで考えたこともなかったような気がする、とアキはふと考えてみるも、四人の目が一斉にこちらに向いてきてじっと見つめてくるので怖い。
「……そうですね。真面目で優しい方でしょうか」
我ながら面白みのない返答だと思って答えるアキに、亜麻色の髪の令嬢がすかさず口をはさんできた。
「んもう、そういったことを聞いてるんじゃありませんの!」
「そうですわ、今お話に出ていた殿方だったら何方がよろしいかしら?」
これは退路を断たれている、とアキは判断するもへたな事は言えない。頭の中で誰を選べば正解なんだと頭がぐるぐるしてくる。何故かあの鋭い目でこちらを睨む彼が浮かんできて、もしや顔や体型だけみれば自分の好みだったのか? と唐突な答えに行き当たるも口にするには憚られる。
「……えっと 私はツァレトフ団長がいいかな?」
そう答えるアキに、一同は落胆の表情を浮かべると、また各々の好みの話に花を咲かせるのだった。