5 ここで会ったが百年目
成人の儀も終わった数日後、アキはいつものように机の上で書類と格闘していた。
あの日は結局、陛下に挨拶をした後、上司であるコンラスの挨拶が終わった後はひたすら壁の花に徹し、若い男女が会話やダンスを楽しんでいるのを尻目に、頃合いを見て抜け出してきたのだった。
当たり前だが、何も起こるはずはなく、一生懸命準備をしてくれたアナには悪いが無駄足を踏んだとしか思えない。
書類の確認が一段落し、まとめた紙の束を机に軽く打ちつけまとめていると、ぱさりと乾いた音がした。紙の隙間に一通の封筒が紛れ込んでいたようだ。
なんだこれは、と足元に落ちたそれを手にした瞬間、彼女は少しだけ憂鬱な気持ちになる。例の見合いの時にコンラスが叩きつけてきた身上書だった。
もうお断りしたのだから、こういったものは返さなければいけないはずだ。いずれ自分が相手に出したものも返却されるのだろうと思うと、また気が重くなる。
コンラスに渡すべきか、それとも城内便で先方まで送るべきか。あいにくコンラスは出張中だった。城内便は主に、公的な仕事で使用されるものなので気がとがめる。というよりも、万が一中身を見られたらと思うと怖くて使いたくない。
こうなったら直接、団長に渡すのが一番だろうか。コンラスからはお断りの件も伝わっているだろうし、先日の見合いの席でも気さくで話しやすかった彼なら、こちらの言わんとすることも理解して受けとってくれる気がする。そう思ったアキは終業後、溜息をつきながらのろのろと自分の席を離れた。
数分後、第一兵団の詰所にたたずむアキは、どうしてこうも自分は間が悪いのだろうか、と焦りながら目を宙に彷徨わせていた。
若い兵士に取次ぎを頼んでいる最中、ガチャリと戸を開けて入ってきたのは、今まさに手にしている封筒の中身を書いたであろう本人だった。
少し考えれば分かることなのに、のこのこと敵陣にきて鉢合わせする可能性を全く考慮していなかった浅はかな自分を呪いたくなる。相手も驚いたのだろう。振り向いたアキを見ると、あまり豊かとは言えない表情を幾分崩し、目をわずかに見開く。
いつも厳しい顔しか見ていなかったアキは、そんな顔もするのかと、その表情の変化に内心驚いていた。
まじまじと己の顔を見つめる視線に気が付いたのか、イゼルはふいに顔をそらした。アキは少しだけ、胸の奥がちくりと痛むのを無視しようと視線を目の前の兵士に戻した。
「あ、オルファン分隊長。団長はどこにいらっしゃいますか」
何も事情を知らない若い兵士が声をかけると、イゼルの表情はいつもの険しいものにスッと戻った。
「こちらには戻っていないが何かあったのか」
「えぇ、こちらの秘書官殿が御用があるそうで」
なんだか、扉の方からものすごい重圧感を感じる。おまけにどうしてだか、その重圧感を放つ存在がこちらに近寄ってくる気配がするのだ。
ふと足元に目を落とすと、やけに泥のついたブーツの爪先が見えた。
恐る恐る顔を上げると、あの底の見えない氷のような瞳が、こちらを見下ろしていた。
その距離は不自然なほど近く、逃げ場を失ったアキは、耐えきれずに口を開く。
「あ、の」
「よろしければ団長への伝言は私が伺いましょう。それと少しお話したいことがあるのですが、お時間を頂戴しても?」
凛とした硬質な声音がやけに辺りに響く。
十中八九、あの日のことについてだろうが、まさか直談判に来るとは思わなかった。そうなる前にこちらから先手を打ったのだが、もしかして先方にまだ話が伝わっていないのだろうか。本人に直接言うのはなんだか気まずいが、この際仕方ない、とアキは腹をくくった。
「はい……」
「ここは出入りが多いので、兵舎に参りましょう」
目の前の若い兵士が、興味津々といった様子でこちらを伺っているのがちらりと見え、アキは心の中で弁解したくてたまらない気持ちになった。最悪だ。何のために城内便を使わずに手渡しに出向いたのか分からなくなってきた。
「ヨアン、兵舎にいるから何かあったら連絡してくれ。それとこれを。採れすぎたんだが皆で分けてくれ」
そう言って、イゼルは手にした袋を男に渡す。
紙袋は詰め込まれたトマトやきゅうりでいびつな形に膨らんでおり、ヨアンは慎重に受け取ると中を覗いて顔を輝かせた。
「いつもありがとうございます!」
詰め所を出て隣接の兵舎へと向う途中、アキは目の前にある大きな背を見上げた。
細面の顔も相まって、どちらかといえば細身にも見えるのに、ぴたりと身体に合った制服は皺一つなく、張りつめたその下にある逞しい体躯を思わせる。
あんなに避けていたのに、こうして一緒に歩いているのはなんだか不思議な感じがした。残念ながらコミュニケーションは全くとれていないが、共に過ごす時間としてはおそらく最長記録を更新しただろう。
妙な感慨にふけりながらふと廊下の外に目を向けると、中庭で自主的にトレーニングをしている兵士達がちらほらと見えた。
こちらに気づかなければいいのだけど、と思っていると、打ち合いをしていた兵士の手から、跳ね飛ばされた剣が宙に舞うのが見えた。その軌道を追うように視線を横にずらした途端、アキは思わずその光景に釘付けになる。
(なぜこんなところに畑が?)
殺風景な中庭に、突如そこだけ牧歌的な光景が広がっている。しかも畑の中に落ちるかと思われた剣は、なぜか見えない壁にでも弾き返されたかのように空中でワンバウンドして畑の外へと落ちた。
今のは一体なんだったのだと思いつつも、一瞬のことだったので目の錯覚だったのかもしれない、とアキは気を取り直し、改めて畑に目を向ける。
はちきれんばかりに熟れたトマトの赤色が、緑の葉の間で鮮やかな対比を為している。奥には支柱に巻き付く蔓系の野菜が、黄色い花を咲かせていた。隣りには背丈の高い茎と葉が見えるが、あれはトウモロコシだろうか。ていうか収穫しないのか。すぐ側で筋トレしている兵士の目には入っていないのだろうか。いらないなら自分で穫りに行くから是非もらいたい。あぁ今日の夕飯は何にしよう。
「あの日のことですが」
突然の沈黙を破る声に、すっかり思考を飛ばしていたアキは慌てて前を向く。現実逃避をしている場合ではなかった。
「あ、えっと、あの日のことですよね。ちゃんと、こちらからお断りしましたから」
おずおずと切り出せば、イゼルは眉をひそめる。
「……断った、とはどういうことでしょうか」
「お見合いは、上の方の一存で行われたことだと理解しております。あなたの御意志ではないことも、そういった事情から動きづらい状況であることも承知です」
「……それは」
言いよどむイゼルに、アキは皆まで言わなくていい、とばかりに続ける。
「ですから、こちらからお断りさせていただきました。これでもうお手を煩わせることもないかと……こちらも、お返しいたします。本当はツァレトフ団長にお渡ししようと思ってこちらまで伺ったんです」
手にした封筒を差し出して顔をあげると、イゼルの様子がおかしいことに気が付く。みるみるうちに顔が青ざめていき、悲壮な表情にゆがめられていく。
今日はずいぶんと表情が豊かだが、もしや急に身体の調子でも悪くなったのではないだろうか。
「あの、大丈夫ですか?」
「分隊長! オルファン分隊長!」
尋常ではない様子に思わず声をかけるのと、彼を呼ぶ声が重なる。後ろから全速力でかけてくるのは、先ほど詰め所でアキの対応をしたヨアンであった。
「非番のところ申し訳ありませんがすぐに詰め所まで戻ってください。ルーウェン副団長がお呼びです」
その言葉に、イゼルが眉を顰める。ヨアンは気遣うような視線で目の前の二人を見やるが、アキはこれ幸いと、「それでは私はこれで失礼します」と会釈をし、用は済んだとばかりにそそくさと帰ろうとした。
「分かった。すぐに行く」
しかしイゼルは、ヨアンに先に行って伝えるよう指示すると、帰る気満々だったアキの手をいきなりつかみ、大股で逆方向に歩き始めた。半ば小走りになった彼女は、戸惑いながら問いかける。
「えっ あの、はやく行った方が」
ていうかなんで手を掴まれているのだろうか、と混乱しながら必死についていく。
「誠に申し訳ありませんが、私の自室でお待ちいただけますでしょうか。すぐに戻りますので」
「え、えぇ?」
自室? 何故に自室? 有無を言わせぬ勢いのイゼルに気圧されて、アキはなすすべもなく引きずられて行く。
兵舎の中の構造はよく分からないが、ホールのような大広間を抜けた先の廊下には、同じような間隔で扉が並び、恐らくこれが兵士達の宿舎なのだと思われる。
時折、非番の兵士がこちらを珍しいものでも見るように顔を向けるので、アキは思わず顔を伏せた。
イゼルは、その少し奥まった所に立つと、目の前の戸を開けて中に入るように促した。
「汚い所ですが」
その言葉とは裏腹に、部屋の中は綺麗に整頓されていた。ベッドカバーはまるでホテルのベッドメイキングのように皺一つなく掛けられている。床には紙くずの一つも落ちておらず、その持ち主の容姿と同じく、一分の隙も乱れもない。お前は本当にこの部屋を汚いと思っているのか、と小一時間ほど問いつめたくなる。
「大したものは何もないのですが……」
「いえ、おかまいなく」
イゼルは、一つしか無い椅子をアキに勧めると、奥の方で何やらごそごそと探し出してきて、大真面目な顔で何かを手渡してきた。
「穫れたばかりですので。お口に合うか分かりませんが、これでも食べて待っていてください」
ぽん、と咄嗟に開いた両手に押し付けられたのは、真っ赤に熟れたトマト。狐につままれた顔のアキを部屋に残し、イゼルは来た時と同じように大股で戸の外へと出て行った。
親しくもない男女、それもほぼ他人に等しい間柄で、相手の自室に入るというのは普通のことだろうか。ふと冷静になったアキは、頭の中で自問自答をし始める。
相手は待っていろ、と言っていたが、このまま馬鹿正直に待っていていいものだろうか。日の長い時季とはいえ外は薄暗くなりはじめている。
メモ書きでも残してひとまず撤退した方がいいような気がする。気が利いてるのかは不明だが、もらったトマトは美味しそうなので遠慮なく頂いておこう、と思って立ち上がると、戸の向こうから人の駆ける音と、ざわめきが聞こえだす。
再び、アキは自分の間の悪さを呪いたくなった。この状況でイゼルの部屋から堂々と出て行く勇気がアキにあるはずも無い。というか部屋に押し込まれる前にちゃんと断るべきだったのだ。
うろうろと、まるで檻の中の動物のように部屋を歩き回るアキだが、どうにも外の様子がおかしい事に気付く。やたら騒がしいのだ。男所帯の兵舎ではこれが常なのだろうか、と思っていると、突然、戸を叩く音が響き渡る。アキは盛大に肩を揺らし、そのまま凍り付く。
「イゼル?いるか?」
明らかに、この部屋の持ち主を呼ぶ声に、留守です!と口に出すこともできずに心の中で叫びながら、意味も無くアキは息をこらす。
ぴくりとも身体を動かすことが出来ずに、冷や汗が吹き出るのを感じながら戸のノブをひたすら見つめる。
早く立ち去ってくれ、という願いも空しく、がちゃりという音と共にあっけなく扉は開いた。何故、鍵を閉めなかったのだ。
「あ」
「う」
両者の目が合い、驚きとも呻きともつかない声が漏れる。
黒の制服を身にまとったその姿から、男が第二兵団所属の魔術師であることが分かる。
肩につく少し長めの黒髪に焦げ茶の瞳の顔は甘く、やや細身の身体と相まってさながら優男といった感じだ。
「……失礼。オルファン分隊長はどちらに」
男は一瞬だけ、その取り澄ました顔を驚きの色に変えたが、すぐに冷静さを取り戻して問う。
しかしアキはそれどころではない。手にしたトマトを慌てて後ろに隠し持ち、弁解するように口を開けたり閉じたりしていると、彼の背後から別の声がかかる。
「分隊長なら先に行ったぞ!」
やや遠くの方から響くその声に男は顔を向け、再びこちらに向き直ると、アキを一瞥して軽く礼をとり、素早い動作で戸を閉めて行ってしまった。
再び部屋に取り残されたアキは、しばし呆然とその場に立ちすくむ。何故、何も言わなかったのだ。何かうまい弁解の方法もあったろうに、一言も発することができなかった。絶対に何か誤解をされている。
扉の向こうのざわめきは一層大きくなり、兵士達の忙しない靴音が聞こえてくる。明らかに何かあったらしいが、アキは手にしたトマトを食べるべきかどうか迷っていた。
午後は昼以降何も食べていなかったので、胃は空腹を訴えている。この奇妙な状況で悠長にトマトなぞかじっていていいものなのだろうかという気もするが、よく熟れたトマトは瑞々しくて、とても美味しそうだった。早々に思考を放棄したアキは、本能のおもむくままに、トマトにかじりついた。
再び戸を叩く音が響く。アキは思わず手にしたトマトを落としそうになるが、寸での所でこらえる。今度こそ同じ過ちは繰り返すまいと、既に扉に鍵はかけてあった。食べかけのトマトを手に、今度は何事かと身がまえて、じっと扉を見つめる。
「秘書官殿、モリナー秘書官殿!」
今度は名指しである。さっきの第二兵団の男が不審に思って誰か寄越したのかもしれない。自分は何も悪くないのに、どうしてこんなに焦らなきゃならないのだと、アキはどこかで憤りを感じつつ、なおも沈黙を保ち続ける。
「そこにいらっしゃるんですよね? オルファン分隊長が戻って来れなくなったんで、俺がお帰しするよう頼まれました」
もしかしてこの声は、先ほど取り次ぎに応じてくれた若い兵士だろうか、とアキは思い出す。そろそろと扉に近寄って、おぼつかない手で鍵をあけてやった。
「あの、お取り込み中すみません。緊急事態が発生しまして」
扉を開けるなり、ヨアンは、アキの手にしたトマトをちらりと見つつ言う。別に取り込み中でもなんでもないが、せめてトマトを食べ終えてから迎えにきて欲しかった、と心の隅で思いながら、アキは緊急事態という言葉に眉をひそめた。彼の、まだ幼さの残る顔に緊張が見て取れた。
「何かあったのですか」
「はい。王都の検問所付近で爆破が起きたそうです」
幾分、声を落としてそう言うと、目を見開くアキに、被害の状況はまだ確認中なので詳細は不明なのですが、と付け加えた。
「オルファン分隊長は現在、先遣隊を率いて現地に向かっています」
我に返ったアキは、食べかけのトマトを机に置くと、咄嗟に、ポケットにいつも持ち歩いているペンと手帳を引っぱりだして素早く書き留める。
「場所はどこです」
「西城門から南へ数メートルの所だそうです。夕刻の半ば頃と聞いています。原因は不明。被害の規模は正確には分かりませんが、今現在では怪我人、死者の報告は受けていません。中央棟への報告も今行っているかと」
「ありがとうございます。私もすぐ戻らないと」
「今日は城外には出ないで下さいね」
「分かりました。皆さんもお気をつけて」
兵舎を出ると、二人は軽く挨拶をかわし、それぞれ別の方向へと駆けて行った。