2 彼と彼女の失敗
ずれ込んだ会議が終わり、そのままなだれ込むかのように見合いの席へと連行されたアキは、街中のちょっと高級なレストランの個室の扉を開けて席につくと激しく後悔した。
「初めまして。王立第一兵団所属、第二分隊長のイゼル・オルファンと申します」
「遅れて申し訳ありません。宰相秘書官のアキ・モリナと申します」
目の前で、まるで抜き身の剣のように一寸の乱れも隙も無く立つ青年は、金というよりは銀に近い色素の薄い短い髪に、切れ長のアイスグレーの瞳を持つ大柄な美丈夫で、そして怒っていた。
(何か目つきがものすごく怖い。これは絶対怒ってる。遅れたことにも怒ってるし、そもそもこの見合いの席に対しても怒っているに違いない)
兵団が普段に着ている紺地の軍服にブーツという組み合わせのシンプルな制服は、あまり彼らと関わる機会の無いアキでも見知ったものだったが、恐ろしいほど彼によく似合っている。かたや着替える暇もなかったアキは、いつものズボンにシャツというあまりにも場違いな格好だった。
今すぐこの場から立ち去りたい、と猛烈に恥じ入るアキは引きつりそうになる笑みをなんとかして顔に貼付けて席につく。彼は依然、鋭い目つきでこちらを睨んでいる。
(うん。やっぱりこのお見合いは私から断ろう)
見合いはこれにて終了と開始早々に見切りをつけるアキをよそに、見合いは始まったばかりと彼の上司であるエデュアル・ツァレトフが口火を切った。
「彼は若くして分隊長に任命され、今後の活躍にも期待しておりましてな。先日の北市街地で起きた爆破事件でも精鋭部隊の一人として現地に入り―」
王都は東西南北に施された強固な結界によって守られていた。先日、その要でもある北城門の付近で突然家屋が爆破した。一時は騒然となったが、廃屋だったため辺りに人はおらず、被害も建物が半壊しただけでようやく落ち着いてきた。
(あの日から数日はめずらしく残業が続いて大変だった)
今から三十年前のこと、この世界を二分する戦争が起きた。当初は辺境にある未開の土地の所有をめぐっての争いだったのだが、次第に周囲を巻き込んだ大戦となったのだ。その際、弱小国であったヴェルフェランは、並みいる大国が参戦するなか中立を保っていた。と言えば聞こえがいいが、ようは蚊帳の外だった。
大陸最大の北と南にはしる二つの山脈の狭間にあるヴェルフェランは古語で「山だらけの土地」を意味する。その名の通り、山岳地帯が多く天然の要塞であるこの国の地区名全てが山に関係する語句でできているとも言われているほどの山深い土地である。ちなみに王都ブレヒンゲルは「高い丘」を意味する。
戦中は多くの難民がヴェルフェランに押し寄せた。終戦後、難民達は自国に帰るものもいたが、なかには自国が存在しなくなっているものもいた。先日の事件は、難民の一部の過激派によるものだとか、隣国のスパイの仕業だとか、突飛な噂も出ていた。
当時、ヴェルフェランは医療団を派遣して数多くの人命を救ったので感謝こそすれ恨まれるようなことはないはずだった。今でもその功績は国内外で語り継がれている。
先日の爆破事件もただの事故の説が濃厚だが、今までがあまりにも平和過ぎたためか、ゴシップに飢えた一部の者が、有る事無い事騒ぎ立てているのだ。
基本、この国はいたって平和でのんびりとしている。おかげでアキも、日中は秘書官として多忙な日々を過ごしながらも、大抵の勤務時間は9時から5時までと、日本にいた時では考えられないような優雅な生活を送っている。
「こいつは秘書官としてはまだまだひよっこですがね、地味ながら結構できるやつなんですよ。根性だけは私も認めてます」
なんだかお互いの部下自慢になってきたが、その褒め方はどうなんだろう、とアキは疑問を感じる。結婚を意識させるようなものが、なにかこう、もっと他にあるだろう、と考えるのだが、自分と結婚した際のメリットが一切浮かんでこない。
ちらり、と正面に座る美丈夫を覗き見ると、あからさまに視線を逸された。コンラスの話も聞いているのかどうか定かではないような、心ここにあらずといった表情だ。早くこの場から立ち去りたくて仕方がないのだろう。でも私だって同じ気持ちだ。先ほどの会議の議事録をはやくまとめてしまいたいのだ。
なんだか居心地が悪くなり、アキはテーブルの上に目を落とす。運ばれてきたスープがそろそろ冷めそうだ。誰も手をつけようとしないのだが、これは飲んでもよいのだろうか。
給仕の人がきのこのクリームスープと言っていたのを聞き逃さなかったアキは、スプーンに手を伸ばそうと、膝に置いた手をおずおずと動かしたその瞬間、急にツァレトフが話を振ってきた。
「モリナー殿のご趣味は?」
発音だけ聞けば立派なこの世界の住人であるが、彼女の本名は森名秋。どこからどうみても生粋の日本人である。最初は違和感があったものの、今ではこの異国風の呼び方にも慣れたものである。
ツァレトフの決まり文句に、まるで様式美だな、と思いながら、アキは名残惜しげにスープから視線を上にあげる。彼は軍人らしいがっしりとした体に立派なひげを蓄えたナイスミドルで、穏やかな微笑みをその顔に浮かべていた。
「趣味、ですか……えっと」
アキの頭の中を色々な言葉が飛び交うが、果たして何を言えば正解なのだろうか、としばし考え込む。
「読書とか、ですかね」
嘘は言っていない。資料作成のために各国のあらゆる本を読んでいる。幸い、アキは調べものをするのが好きな性質で、前職にいたときから企画書を作成するために様々な資料を読み漁っていた。
それにしてもつまらない返しだな、と思う。もっとパッとした、相手がうなるような趣味があればよかったのに。
「あ、あとは食べることですね」
今度は自信満々に満面の笑みでそう言うと、コンラスが横から軽く蹴りを入れてきた。もちろんテーブルの下なので先方には見えていない。
「おぉ、これは申し訳ありませんでした。せっかくのスープが冷めてしまいます。どうぞ、召しあがってください」
ツァレトフは少し焦ったようにそう言って、自らもスプーンを手にした。
「ここは王立品評会でも毎年三ツ星を獲得しているレストランなんです」
いそいそとスプーンを口に運ぶアキが「おいしい」と口にすれば、エデュアルは、まるで食べ盛りの子どもでも見るような慈愛のこもった微笑みで、「おかわりもできますよ」と言った。
「食べ歩きがお好きなんですね」
「あ、いえ、そういうわけではないのですが」
別にアキは、グルメではない。ただ純粋に食べることが好きなだけなのだ。昼食は城内や街中の食堂ですませるが、いつも宿舎に帰ると、一人でこつこつと夕飯の支度をする。
さして凝ったものを作るわけではないが、それは彼女にとって、とても大切な時間だった。仕事から切り離された、自分のためだけの時間だ。それは仕事が忙しいときほど、切実になる。完成した夕飯が美味しければ幸せで、すべてがリセットされ、生きている喜びを感じる。たとえ味がいまいちだったとしても、食べるのは自分なのだから誰にも文句は言われない。
もしかしたらこの一連の作業は趣味といっていいのかもしれないが、料理が趣味ですなんて言うにはあまりにもおこがましい腕前なので口をつぐんだ。
「そういえば、オルファンさんのご趣味は」
相手が聞いてきたのだからこちらも質問するのが礼儀だろう、とさして気に留めずに口にする。目を合わせようとしない目の前の男は、一瞬だけアキの顔を見て、またすぐに視線をそらした。
「……特にありません」
取り付く島がないとはまさにこのことだろう。これでは話が広がらないではないか、とアキは思ったが、むしろそれが相手の狙いなのかもしれない。
「いやぁ、これは仕事一徹でしてね、何かやってみろと私も散々言ったのですが」
ツァレトフが渋い顔でフォローするが、男は我関せずといった様子で静かにスープを口にした。
それから和やかに時間は過ぎ、主にコンラスとツァレトフとアキの三者で当たり障り無く談笑していたのだが、デザートにナシのタルトを食べつつ、食後のコーヒーを飲んでいたところ、ツァレトフが少し恥ずかしげに話しだした。
「実は私も食べることが趣味でしてね」
髭面のがたいの良い紳士が、実に幸せそうな顔でタルトを食べている姿に、思わずアキはときめきそうになる。
「恥ずかしながら、甘いものに目がないのですよ」
「私もです!」
幾分食い気味に同意するアキに、隣りに座るコンラスがあからさまにため息をつく。
「おい……」
「でしたら、中央通りを東に一本入ったところにあるスミレ亭のレモンパイはご存知で」
「あ、あそこは大好きです! 少し固めのプディングも滑らかで食べごたえがあって美味しいんですよ」
ひとしきり食の話題に花が咲いたところで、ふとコンラスが改まった顔で切り出した。
「そろそろ私たちは退出するか」
「そうですな。この後は二人で……」
お若い二人、と言わなかったのはわざとなのか。どこまでも様式美に事を進めたいらしい両上司は、おもむろに席をたとうとした。ちょっと待って置いていかないで、むしろ私はツァレトフさんとお話しがしたい、とアキがすがる目を向けるよりも早く、それまでほぼ一言も発さなかったイゼルががたりと音をたてて立ち上がるなり口を開いた。
「申し訳ありません。私はこれから警らがありますので」
失礼、とやたら綺麗な姿勢で颯爽と出て行くのをぽかんと見送ると、彼の上司が慌てて「え、そうだったか?」ともごもご呟きながら、こちらにぺこぺこ頭をさげて出て行った。
あっけにとられて何も言えずにいるアキの肩を、コンラスが、ぽん、と叩く。
「まぁ、その、気を落とすなよ」
先方の事情を察して心構えをしていたものの、アキだって傷つかないわけではない。何もそこまで頑なな態度をとらなくてもいいじゃないか、と思うのだ。たとえ本意じゃないにせよ、せめてその場だけでも、皆が楽しく過ごせるように取り繕うのが社会人てもんじゃないのか、と急にふつふつと怒りがこみ上げてくる。それとも、やはり自分が今までそういった恋愛の煩わしさから逃げてきた罰なのだろうか。
午後は無心になろうと思ったが、どうしても仕事にならなかった。頭の隅を、アイスグレーの冷たい目がちらついて、いらいらすると同時に、わけもなく泣きたくなってくる。
「おい、しっかりしろよ」
おまけに上司がアキの頭をくしゃりと撫でるものだから、一瞬涙腺が決壊しそうになる。しかしここでだけは泣きたくなかった。
自分は今仕事中なのだから、私情を持ち込むべきではないのだ。それに、あまりにも惨めではないか。静かに息を吸い込み、慎重に吐いて心を落ち着かせようと必死になる。今は何も考えるな、と呪文のように唱えた。
待ちに待った終業の鐘が鳴り、アキにしては珍しく早い時間に席をたとうとすると、上司が気遣わしげな表情で「うちに来るか。アナも会いたがってたし」と切り出してきた。アナに会って見合いの席の鬱憤をはらすべく愚痴るのも悪くないが、今日は一人になりたかった。コンラスの申し出を丁重に断ると、飛び出す勢いで執務室を出た。
こういう時こそ、好きなものを、好きなだけ食べよう。アキは、食材を買いに行くのも好きだった。色とりどりの品物が並ぶ市場に行くと、まるで宝探しでもしているかのようにわくわくするのだ。
季節は夏も終わりに近づく頃。色とりどりの夏野菜を堪能すべくすでに心は浮上し、今日の夕飯のことで頭を一杯にしながら、街へと下っていった。