2話 バッドエンド寸前の走馬灯
盲目の者は失った視覚の代わりに優れた聴覚を持つという。受け取る情報量が減ったことで他の感覚が鋭敏になるのである。
とはいえ聴覚を失ったからといって俺の知覚が鋭くなることはなかった。だが音のない静かな世界は俺の集中力を加速させ、そして死のイメージすら生温いほどの恐怖は走馬灯を見せるかの如く過去の記憶を想起させたのだった。
*
人間社会にはケダモノにすら値しない虫けら同然の者達が存在する。獣には愛情が存在するが虫には心がない。俺はそんな虫ケラどもが許せなかった。奴らは私欲のために他人を犠牲にし、そのことに躊躇いはない。他人の痛みを想像できない思考の浅さ、醜さだけの自己愛。そういう奴らは必ず罪を犯す。だから俺は善と悪に線引きをつけ、虫ケラどもに罪を贖わせていた。それがこの世界に来る前の俺の生き方だった。
俺が初めてこの世界でまともに会話をしたのはマルタだった。しかしマルタとのコミュニケーションは困難なものだった。彼女は初め俺のことを恐れているようだったし、なによりこの世界の言語は俺にとって完璧に未知のものだったからだ。
それでも言語学習は得意分野であった為、一ヶ月でほとんどの意思疎通が出来るようになっていた。そして俺はマルタから多くを学んだ。マルタは宗教家であるにも関わらず錬金術を一番の趣味にしている変なヤツだったからこの世界について理論的に教えることができた。
マルタの授業の中で一番面白く重点的に学んだのは魔法についてだった。当時、異世界人である俺には魔力がまったくなかったが、≪神の右腕≫のおかげで学んだ限りの全ての魔法を習得することができた。そう、確か俺がマルタから最初に学んだのは≪自爆魔法≫についてだった──。
「魔族との戦闘に加わる人たちは≪自爆魔法≫を最初に学びます。≪自爆魔法≫は魔力消費が最も低く簡単で、また最も効率よく魔族にダメージを与えられる魔法だからです」
≪自爆魔法≫について語るマルタの表情は固く、あくまでも義務として教えているという意思が伝わってくるようだった。
「でも……、私はこの魔法をあなたに教えたくない……」
感情に振り回され正常な判断を下せなくなる人間は厄介だ。早くも俺は教師役の変更を考えた。
だが結局マルタは最後まで俺の教師役だった。俺を召喚した国の王が魔族に殺されて死に、旅の出立の日が早まったせいで代わりの人間が見つけられなかった為だ。その後、マルタとの関係は旅の間も続くことになる。
*
……不意に頭をよぎった記憶の中に使えるモノがあった。そうだ。≪自爆魔法≫だ。今の俺にはこの世界に来たばかりの頃とは違って僅かだが自前の魔力がある。この世界に適応し蓄積された魔力はおよそ最下級魔法一回分の量がある筈だ。それだけあれば≪自爆魔法≫は発動できる。なんせ魔力消費が最も低い魔法なのだ。
もちろん≪自爆魔法≫はその名の通り自分の命を代償にする魔法だ。発動すれば俺は死ぬ。だがここで何もしないよりはマシだ。少しでも悪の終わりにつながるならばこの命を喜んで捧げよう。それに……死ねば懐かしい人達に会える。故郷に残した茜色の思い出。あの二人に……。
やることが決まれば実行は容易い。
体を薄く巡る魔力を一点に集めた。失敗は許されない。荒い息を整えると最期の魔法を発動させようと術式を起動し……。
発動の直前で俺はなぜか魔力を霧散させた。
……なぜだ?
発動を止めた理由など何もない。むしろ今≪自爆魔法≫を発動しなければ俺は無駄死になってしまう。それだけは避けるべきだと分かっている。ならこれは一時の気の迷い?それとも何か心残りでもあるのか?
その時、戸惑う俺の体を引っ張る弱い力があった。背後をちらりと見る。俺の体を引っ張っていたのはゲレオンが担いでいた魔族の少女だった。魔王の攻撃を食らわなかったのだろう、無傷のそいつがいつの間にかそばまで来ていて、俺に向かいパクパクと口の開閉を繰り返している。
なんだ?最後になると思って俺に恨み言でも吐き捨てているのか?……そんな高等なことは魔族には出来ないか。魔族の声はただの鳴き声でしかなく感情も存在しない。奴らには虫同然の知性しかないのだから……。
──ならこの子に危害を加えられそうになって「殺す」と叫んだ魔王は?
あぁ、なぜか不思議と笑いがこみ上げてくる。
きっと頭がどうかしているのだろう。気の迷いという自覚があるのに俺は非効率なことをしようとしていた。この子の声と向き合うことが世界をより良くすることに繋がりはしないと分かっている。だがどうしたことか、それでも俺はこの子の声と向き合わなければいけないと思ってしまったのだ。
俺の魔力で使える魔法は後一つ。俺は残された僅かな魔力で≪下級回復魔法≫を発動させると破れた鼓膜の治癒に使い……。
「死なないで……」
その声が耳に届いた。
今更こんな言葉を聴かせて俺にどうしろと言うんだ?本当にこの世界はどうかしている……。
魔族とは知性を持たず対話不可能な敵性存在の筈だ。魔族の少女の言葉はそんな当たり前の常識を打ち砕くもので、
「人族の戦士よ。我の声が聞こえているか?」
「死んでしまいたいほどに聞こえている」
やはり聞き違いじゃない。
追い討ちをかけるように魔王からも意味を持つ言葉が投げかけられる。不思議と魔王への恐怖は薄らいでいた。
「ふむ、そうか。どうやら≪呪い≫の効果が破られているようだな」
≪呪い≫だと?
「どういうことだ?」
「すべての人族は産まれて間も無く我らとの意思疎通を阻害する≪呪い≫がかけられている。こめられた属性は反転、ノイズ、憎悪と恐怖、その他にも幾つか。強力でかなり複雑な術式を用いた呪いだ。それが何者による思惑かは知らぬがな。貴様にかけられた呪いは脆弱だった為に我の魔力で消し飛ばすことが出来たようだ」
知らないうちに呪いをかけられていた……?心当たりはない。ないが……召喚された時に教会の人間から小細工をされていたとしても不思議ではない。
俺は騙されていたということか。
いや、しかし俺は魔族が街を破壊したところをこの目で見た。対話が可能だとしても魔族が敵でない理由にはならない。これは戦争だ。
「だからなんだ?俺たち人類は魔族との戦いをどちらかが絶滅するまでの戦争だと捉えている。後戻りなんて出来ない」
「そうか」
「俺も殺すといい。だがいずれ俺よりも強い勇者がお前を殺しに来るだろう。その時まで怯えて暮らすんだな」
「我らに敵意はない」
なに?
「そんなことよりも興味が湧いた。貴様が異世界の勇者か」
「……」
魔王の黄金の瞳は好奇心で輝いている。そこに邪気は感じられなかった。
「そう警戒するな。重ねて言うが我らに人族への敵意はない」
「……」
「話をしないか?異世界の人間ならば貴様も興味があるだろう。戦争の発端や魔力のルーツ、魔族と人族がなぜ争うのか……。興味を持たない筈が無い。貴様は神に選ばれし正義を宿した勇者なのだからな」
「……聞かせろ」
「ああ。良いだろう」
そして魔王は俺へ一方的に語り聞かせた。
仲間たちの遺体の横で殺戮者である魔王と語らうとはまさしく常識を投げ捨てたような異常な状況。しかし俺は何も言わずに耳を傾けた。