35話 同一人物は体が変わっても、同一人物なのである
都市や街並というものは人間の生み出す造形物の中で最も変化が遅い。だが遅い分、一度変化すればもう数日後には誰もが以前のその姿を忘れてしまうあっけないものでもある。
俺なんて翌日には取り壊された建物のかつての姿を思い出せなくなるのだ。それだけ自分にとっては街の変化などどうでもいいことで、時には変化そのものに気が付かないことだってある。
紫藤広樹の高校生としての記憶より随分と視線が低くなった故郷(町)の風景をぼんやりと眺めながら一直線の道路の歩道を歩く。駅前のコンビニや、十字路の家電量販店、左手の道路沿いに並んでいた3つのヘアサロン。俺の記憶の中とは違い、いずれも“まだ”影も形もない。
あっ、実物見てようやく思い出した。俺がよく高校時代に使ってたサロンって前はケーキ屋さんだったわ。そうだそうだ、中学に上がってからはカッコつけて甘いものを我慢するようになって、いつも前を通るあのケーキ屋さんのケーキがやけに美味しそうに見えてたっけ。男子ってホント馬鹿だよな。美味いんだから意地張らずに食えばいいのにね。
うん、5年後にはあの店なくなってるんだしどうせなら帰りに買って帰ろう。今は俺、外見は女の子なんだし。甘いものを我慢してまで守るべき男子のプライドなんてねぇんだからよ。
さて、カッコつけたがりでケーキを楽しめなかった哀れで愚かな紫藤広樹くんだ。
元の俺が中高通っていた青嵐学院へ行く電車の駅もさっき降りたものと同じなので、この世界の紫藤広樹くん12歳が愛莉珠を待ち切れずに駅前でスタンバってる可能性も無きにしも非ずではあった。まあ流石にこの程度の分別は付いているのだろう。杞憂で済んでよかったわ。
……だが俺は騙されない。
ヤツが駅前に来なかったのは単純に大勢の人前で名も知らぬ女の子を待ち続けている恥ずかしい自分の姿を見られたくなかっただけなのだ。どうせならカッコつけてる自分の姿を他人に見られない2人っきりの神社裏の方が居心地がいい。
かつての俺も愛莉珠とのデートの時は人気の少ないところの方が色々と大胆になれたりしたのだ。ひそかに人前でこの超絶美少女にキスして周囲の男共にドヤ顔したい夢を見てたりもしてたがな!
んなこと恥ずかし過ぎて出来るかよ!
そもそも中二病が恥ずかしいのは他人のカッコいい行動とかを真似して失敗してしまうからではなく、自分のやっていることが傍から見たら恥ずかしいことなのだという自覚があり、その躊躇いガチな腰の引けている姿勢そのものが恥なのだ。どうせカッコつけたいなら堂々とやったほうが周囲もその空気に呑まれて、カッコよく見えてくれたりするし。自信なさげにカッコつけるのが一番ダサい。
どうやら意外とこの世界の俺くんはそこんとこは弁えてるみたいだ。元の俺はどうだったか……
神社の境内に差し掛かると、あたりは既に暗くなっていた。日が水平線に半分ほど沈んでいる。手首の裏を向いているフェミニンなパステルピンクの腕時計を確認したら、時刻は18時38分だった。ちょうど昨日ヤツと出会った時と同じような時刻だ。
季節は5月頭の初夏。まだ蚊が大量発生していない笹林は、風が吹くたびにサワサワと心地よい音を立てるリラックス空間だ。もうしばらくすると切った笹の節に溜まった水からボウフラが羽化して最悪の環境になる。そうなる前でホントよかったぜ。
そぉーっと物陰から神社裏を確認してみると────いた。
悪名高い中二病末期患者、紫藤広樹くん現在中学一年生12歳である。
しきりに闇の中で光るスマホ画面を確認しながらキョロキョロと周囲に忙しなく首を向けている。
あ、人が来た。
すると俺と同じタイミングでそれに気付いたヤツは、何故かササッとスマホを隠して神社の回廊の高欄(あの木の手すりの事ね)に寄りかかった。寒いだろうにブレザーを脱いでズボンのポケットに突っ込んだ手と胴のスキマに引っ提げて、やってきた通行人とはこれまた何故か逆の境内の出入り口の方へ首を向けている。そしてある程度通行人が近づいたその瞬間────
「よゅっ、よ、よう!早かったな、俺も今来たと……こ……」
────と竜頭蛇尾の勢いで振り向き様に声をかけた。
突然声をかけられた通行人の女性は“は?”と訝しだような声を発し、まるで何ごとも無かったかのようにすぐさまスマホを取り出して自分の世界に閉じこもるように画面をガン見し始めた紫藤広樹くん12歳の切り替えの早さに驚いたのか、ヤツを二度見したあと首をひねってその場を後にした。
紫藤広樹くん12歳はその女性の後ろ姿が見えなくなった辺りで再度スマホを閉まってまた忙しなく境内をウロウロしながら頭を右手で掻き毟っている。
あれは多分恥ずかしさを誤魔化そうとしてるのだろう。
……うん、なんかもう見てる方が辛いからさっさと会いに行ってやろう。
俺は、自分の迅速な行動次第では避けられたであろうさっきの恥ずかしい人違いの事故のことを、そっと頭の中から追い出した。そして半分うんざり、半分緊張しながら作法教育の鷹司先生に習った上品な姿勢をなるべく心がけながらヤツに向かって歩き出す。ヤツが恥ずかしさで身悶えしているのが落ち着いてから声をかけるのがベストなのだろうが、さっきの公開羞恥事件を目の前で見せられて気が滅入ってしまったのでそのあたりが随分ずさんになってしまった。
しばらくヤツに向かって歩くと、気付かれた。遠目だったが挨拶のために一礼し、頭を上げたら何故かあのアホが俺とは別の方角を向いていた。前に俺も見ていたあの通行人への対応の逆方向バージョンだ。
……おい、またさっきの“近づくまで特に意識してませんでした”アピールするつもりなのかよ。
今すぐヤツをぶん殴ってこの背中のぞわぞわを取り除きたいのだが、そんなコトをしたら俺の計画が全てパーになる。何とか自制して笑顔を貼り付けながら適切な歩行速度でヤツの近くまで進む。
はん!そっちがその気なら俺だって“貴方のことなんて何とも思ってませんよ”アピールで行ってやるぜ!恋をしてじれじれ苦しむのはお前だ。俺ではない!
「こんばんは」
「ッ、ん、ん?お、おうっ!おっ、おお前っか、か?」
噛み噛み過ぎぃ!
もう会話開始2秒で逃げ出したくなってきたんだけど……
「はい。先日は危ないところをお助けくださり、誠にありがとうございます」
俺は機械的に礼を言い、ヤツの痴態を可能な限り意識しないようにした。
「ひゃ、ひゃっ、びゅぇっ、別にっ!?たっ、た大したことしゅいてにぇえし?ッねぇし?」
「……ふふっ、謙虚な方なのですね」
「ッひゅほっ!?」
……なんだよ“ひゅほっ!”って。それ人間があげる声じゃねぇだろ……
ゴリゴリ削られていく精神を何とかかき集めてニッコリ微笑む。噛みまくりなヤツの日本語はもう独特な方言かなにかだと思って、俺の理性の安定化を試みよう。マトモな神経でこんなの耐えられる訳がない。
「びゅえっ、べっ、別に謙虚とかじゃにぇえし!とっ、当然だし!?しょっ、しょんなんでカッコつけるヤツって、だっダセぇよにゃ!?はっ、ははっ、あははは!」
「そうですか。ところで、遅れてしまいましたが自己紹介を────」
「ッッ!アっ、アリス!アリスってんだろ、お前!」
「────え、あ、はい」
……なんだ、ちゃんとみっちゃんから事前情報貰ってるのか。
ふん、何だかんだで親友の恋路に協力しようとしてくれてるのかよ。アイツ……
「や、やっ!ほっ、ほら!“アリス”だなんて、お、お前にぴったりな名前だと思ってな!べっ、別に最初から知ってた訳じゃねぇけど!?」
……は?
「なっ、なぁ~んかそんな名前っぽいなーって、こう、俺の“魂”が感じた?ってか?」
………………は?
「あ、当たってたか?お前の名前」
……こいつさっきから何言ってんの?
「……初めまして。私は姫宮愛莉珠と申します。お助けいただいた礼もせず、ご挨拶まで遅れてしまい、大変申し訳ございません」
……うん。数十秒くらい意識が飛んでて何言ってたのかさっぱりわからないな!
俺は全てをスルーし何も無かったことにして、話を再開させた。
「え……っ。あ……あ、はい。俺は……紫藤広樹、です……」
ヤツが何故か途端に冷静になって恥ずかしそうに会話に合流してきたが、その理由を俺は一切考えないことにした。
さっきまでのお前はナニカに取り付かれてたんだ。そういうことにしておけ、な?
「はい。実は私、紫藤くんのご近所にお住まいの小西美奈さんのクラスメイトでして、彼女から貴方のお名前を伺いました」
「そ……う、ですか……」
「先日は小西さんと一緒にピアノを弾かないかとお母様の紫藤先生にお誘いを受けまして、先生の教室にお邪魔しておりました。こうしてお会い出来たことを大変光栄に思っております」
「や……あ、ああ。こちら……こそ……」
「遅れてしまいましたが、ぜひ何かお礼をと思いまして。つまらないものですが、せめてもの気持ちに」
俺は皮の学生鞄から贈り物の手作りクッキーを取り出した。みっちゃんからコイツが以前俺が学校の1年4組のクラスメイトにばら撒いたクッキーの話を聞いて、アホみたいに興味を示していたという情報を入手していたのだ。
ふふふ、渡す相手はかつての俺。
好みとかは多少変化してるだろうけど、この頃は表では男子っぽく甘いものに対して過剰な拒否反応を演じてたがその影で我慢出来ずにコソコソ食べてたぐらいの甘党だったはずだ。以前クラスの連中にばら撒いたヤツよりは甘めに作ってある、完全に紫藤広樹くん専用のクッキーである。
……まあ、実は1から作る時間が無かったので、依然より暇な時にコツコツ練習してた試作品でまだ冷凍庫で眠っていた残りものを流用したのだ。一応は満足している出来栄えだが、所詮は試作。作るときにあまり心を込められなかったのが残念ではある。
せめて渡す時くらいは心を込めてやろう。
俺はヤツの目の前まで近付き、無地の白くて上等な紙袋からクッキー袋を取り出して、本人の手を包み込むように自分の両手で手渡した。コンビニで可愛い子にやってもらいたい、あの“お釣り手渡し”である。
ヤツの顔をあざとくなり過ぎない最高のバランスの上目遣いで見上げると、見事な紅玉がそこにあった。
うむ。十分こちらの真心は伝わってくれたみたいだな!
「ごめんなさい、お口に合うかはわかりませんが……」
「あ……う、あ、い、いや!そ、そんなことはないと思う、思います!みっちゃ────あ、いや、こ、小西もおま、き、君のクッキーは美味いって言ってたし……!」
「“みっちゃん”……」
「ッあ、い、いや、その……」
ああ……
やっぱお前のその声でそう呼ぶのがホントの“みっちゃん”だよな……
俺は目の前にいる過去の自分が、自分の記憶どおりにアイツのことを変わらずにそう呼んでいることに、何故かヘンに感動してしまった。
姿かたちも名前までも変わり、みっちゃんに崇拝されてる愛莉珠と、嫌われ者の紫藤広樹。全くの別人なのに同じ人間の記憶と意識を持つ、過去と未来の同一人物。その事実が────共通の友達を通して確認出来たことが、何故かとても……とても嬉しかった。
まあでも、まだ声変わり前で女みたいな声だけど、やっぱりお前の“みっちゃん”が俺には一番しっくりくるわ。
流石はオリジナル。
俺は思わず笑い声を漏らしていた。
「ふふっ、“みっちゃん”ですか……」
「やっ……ま、まあ、ガキのころからの知り合いっつうか……」
「存じております。実は私も彼女のことをそう呼ばせていただいているのです」
「えっ、アリ────ひ、姫宮が?」
「はい。おそろいですねっ、ふふっ」
「────ッッ!!」
何故かは知らん。
ただ、この世界の俺と、今の愛莉珠になっちまった俺の両方が、アイツのことを同じように“みっちゃん”と呼んでいるこの奇妙な事実が可笑しかった。
全く、我ながら不思議な体験をしているものだ。
さて、そろそろみっちゃんとの約束の20分が経つ。
それに俺の現在位置はパパンのスマホに伝わっているのだ。これ以上夜間に家の外でウロウロしていたら心配かけてしまう。
ここで撤収するか。
「っと、ああ、大変申し訳ございません。そろそろ家に戻らなくては父を心配させてしまいます」
「────ッあ」
まあパパンが一々俺の場所をスマホで確認してるとは思えないけど。念のためな。
「バタバタしてしまってごめんなさい。名残惜しいですが、私はこれで失礼致します」
「ッあ……あ、えと」
「それでは紫藤くん。重ね重ね、危ない所を助けてくださり誠にありがとうございました。また機会がございましたら、ぜひお会いしたいです」
「あ、お、おう……アリ────姫宮も、その、ま、またな……?」
……なんかお前に“姫宮”って呼ばれるの、あんま気に入らねぇな。
いや、声はほぼ別人の子供ボイスなんだけど……
「ふふっ、紫藤くんもみっちゃんのように“アリスちゃん”と呼んでくださっても構いませんよ?ヒ・ロ・く・ん」
「────ッッ!!は、はぁっ!?」
あっ、やっべやらかした。
ちょ、ちょっとまって……?
お、俺……
思いっきり調子乗っちまったぁぁあああ!
完全にやらかしたぁあああああ!!
「ッ、な、何でもありませんっ!そ、それでは、し、失礼致しますっ!」
「っあっ、ちょ!」
俺は以前パパンにほっぺたちゅーしてしまった時のように猛ダッシュしたい気持ちを全力で押さえ込んで、可能な限り上品に早足で神社を走り去った。後ろから静止の声が聞こえた気がしたがそんなものに構ってられる程俺の精神は図太くない。
なぁにが“ヒ・ロ・く・ん”だよ!キモい!キモ過ぎる!その呼び方が許されるのは百歩譲って幼馴染系ヒロインだけだろ!俺はメインヒロインなんだよ!!
死ね!俺!一旦死ねよ!死んでその公開羞恥癖直して来やがれこんちくしょおおおおおお!
散々あっちを貶しといて少し気が緩んだらこのザマだよちくしょおおおお!!
うわああああああん!!
なんとか駅までたどり着いた姫宮愛莉珠(俺inside)。
どうやら黒歴史製造癖は、精神年齢17歳になった今も────全く抜けてないようでしゅ……
馬鹿かよ俺……