31話 黒歴史さんの攻略は難しいです
パパンと2人仲良く洗面台に並んで手を洗った俺はとぼとぼとリビング奥のアイランドキッチンまで歩く。精神科医の長井先生のメンタルクリニックに行った時は俺をマンションまで送り届けた足でそのまま仕事に行かれてしまったので、2人で食事をするのは久々だ。腕によりをかけて美味しい物を作ってあげたいのだが……
気分がどん底なので全くテンションが上がらない……
おまけに俺の気持ちに気付いてしまったのか、パパンが無言で俺の頭を撫でてくれるのがまた惨めでしょうがない。
鼻の奥がツーンとして……我慢出来ずに手触りの良いスーツに包まれたパパンの胸に顔を埋めてしまった。
「…………おいで、愛莉珠」
心臓が震える低くて優しい声で、パパンが胸元に歓迎するように両腕を開く。
「……ッ」
“甘えていい”、そう言われているのだろうか。
羞恥でカッと顔が熱を持つ。それでもすさんだ心は慰めを、人の愛情を、どうしようもなく求めてしまう。
結局ボロボロな自分の心に負けたのか、それとも愛莉珠の幼い体か人格に引っ張られたのかはわからないが、俺は躊躇いながら父親の大きな胸元に体を預け、背中に腕を回してしまった。がっしりとした逞しい体だった。
スーツからはふんわりと葉巻の良い香りが漂っている。パパンって葉巻吸うのかな。少しツンとする、それでいてふわっと落ち着く心地よさを感じる匂いだ。頭を埋めているとまるでパパンの体温に燻されているような気分になって気持ちいい。
いつまでも抱きついていたい自分の幼稚な心を振り払おうとしたところで、パパンが開いていた腕を閉じて俺をその温かい胸の中に閉じ込めてしまった。
「おっ、お父さん……!?」
「しばらくそうしていなさい、愛莉珠。誰も見てなど居ないのだから、好きなだけ甘えればいい」
「ぁぅ……」
胸がキュゥゥゥゥ……っとする。つむじにパパンの吐息を感じて痺れるような感覚が身体中を巡った。胸元の、腕の、背中の熱に溺れそうになり、恥ずかしさから顔が爆発しそうだ。
包み込まれるようなパパンの匂いの中で、俺はかつての自分の母親のことを考えていた。生きてきた17年間の間、紫藤家はずっと両親と俺の3人家族だった。子供は俺の一人っ子。自覚は無いものの、俺は兄弟がいる家庭の子より親の愛情を多く受けてきたのだろう。
だが姫宮愛莉珠としてババァに抱きしめられた時に感じたあのぎこちなさに、俺は自分がもうあの人の子ではないことを突きつけられた。俺の正体を明かせない以上、その事実は覆らない。
今、俺を抱きしめてくれているパパンに、あのようなぎこちなさはない。少しの戸惑いなら感じる。おそらく、長年放置していた娘との距離観を掴みきれていないのだろう。
それでも構わない。俺なんて調子に乗ってほっぺたちゅ~までやらかしてしまったのだ。距離観なんてその場の気分でいいのだ。パパンの抱擁にはそんな遠慮など無関係なほどいっぱいの、娘を大切に想う────愛情がある。
歪な精神を持つ不気味な娘は今、その贅沢な愛情に浸りながら自分の幸福をかみ締めた。
まあ……どうせ抱きしめてもらったままの方が逆にこの茹蛸みたいな情けない顔を見られずに済むか……
これ以上かく恥もないだろう、と俺はパパンの厚意を甘んじて受け取った。
もうしばらく、お邪魔します………
***
あの後父娘でわいわいとイタリアンのおつまみを色々作って夕食を食べたり、交互に風呂に入った後に2人で映画を観ながら寛いだりと、今日1日の精神的疲労感を吹っ飛ばすほどの楽しい夜を過ごせた。どうやら俺はパパンと観ていたアメリの途中でソファーに座ったまま寝てしまったようで、翌朝気が付いたら一人で自分のベッドの中にいた。
ドアを開けて廊下を歩きリビングまで顔を出すと、少しだけ冷めたお味噌汁と紅鮭がキッチンのガスコンロの上に乗っていた。テーブルの上に立てかけてある俺の家事用メモ書きタブレット端末にはメッセージが入っていた。
『私は一足先に出社する』
『愛莉珠は遅刻しない程度にゆっくりしていなさい』
相変わらす素っ気無いが、少しだけ愛情を感じるようになったパパンの2文のメッセージ。何か拘りでもあるのかな?
折角帰って来たんだから一緒に寝たかった、なんてしょんぼりしてしまうのは俺がもう自分のことを息子ではなく娘だと考えてしまっているからだろう。息子なら恥ずかしくても12歳児の娘なら父親と一緒に寝ても許される!そんな気がする!
まあ、あんなにセンチメンタルな気分になるのはもう昨日で十分だ。おおっ、このお味噌汁凄い美味しい。このお味噌汁を出せるパパンに“私のためにいつも味噌汁を作ってくれ”って言わせられる女子力を持つ女は果たしてママン以後に現れるのだろうか。居ないだろうな。
そもそもママンも実際にそれだけ優れた女子力を持ってたのかは知らないけど。
────
さて、嫌だ。嫌だけど……もう一度、昨日の出来事を振り返って今後の行動指針を決めなくては。
まず最重要である中1の紫藤広樹という痴態、奇行、黒歴史製造機に関してだ。
もう思い出すだけで背中が痒くなる。今後自分がどのような行動を取ろうとも、あの公然わいせつ物を真っ先に何とかしないと話にならない。こっちが頑張ってメインヒロインを演じても向こうがヒーローを演じてくれなければ、周囲には俺の努力がただのイタい女の迷走としか写らないのである。
それだけは断固として避けなくては。
今までの努力が報われない。
では実際にどうするか。これが非常に難しい問題なのだ。
俺が直接注意すると角が立ちすぎて中二病患者は酷く傷ついてしまうし、以後気まずくなってギスギスした恋愛になりかねない。それでは理想の恋人とは程遠い。
では俺ではなく第三者の手で間接的にヤツに注意してもらう方法ならどうだ?
こちらは共通の知人────まあ、みっちゃんだな。みっちゃんに注意してもらうことだ。
だがこれも問題が多い。
今回アイツの家に遊びに行って確信したが、みっちゃんの中1の紫藤広樹に対する印象は最悪レベルだった。何気にショックだったけど、それはさておき。
元の世界ではここまで嫌われていた自覚はなかったし、もし当時の俺がただバカで無自覚だった訳じゃなかったのなら……みっちゃんのこの変化の原因は多分、大人びた愛莉珠の存在なのだと思う。
みっちゃんは愛莉珠のことをかなり神聖視しているが、同時に何故か庇護対象としても見ている節がある。昨日の“アリスちゃんは無防備”発言もそうだ。アイツの中で俺はかなり危なっかしい女の子として認識されているらしい。
近所の幼馴染の紫藤広樹に対して元の世界よりも辛辣なのは、ヤツが神聖なアリスちゃんに下種な興味を抱いていることに気付いているからかもしれない。
まあ、あの奇行で気付くなと言う方が無理な話なんだけどね。
つまりみっちゃんのヤツに対する高感度を上げないと、好意的に注意してくれることなんて夢のまた夢だってことだ。
……つかそもそも”好意的に黒歴史製造行為を注意する”ってどうやってやるんだよ。みっちゃんがやんわり“恥ずかしいから止めなよ”、ってヤツに言うのか?
逆に反発しそうな気しかしねぇよ……
うーん……
でも、そもそも俺って中身の17歳の頃もこの世界の12歳のアイツもさ。テンパると何かやらかすタイプなんだよな。
男子中学生特有のあのムダに高いプライドが邪魔して自分の非を認められなくて、余計迷走して恥をかく。いかにもありえそうでもう既に嫌な予感しかしない。
直接的だろうと間接的だろうと、ヤツに“黒歴史恥ずかしいよ?”って注意するなら、みっちゃん以外の切り札をどうにかして手に入れないとキツいな。
はぁ……中二病って時間以外の治療方法がないんだよなぁ……
まあいい、次の問題だ。
これは俺の『謎の美少女じれじれ計画』をどうするかだ。
この計画は俺と、この世界の俺の、2人の恋愛を盛り上げるために俺が用意したシナリオだ。
『幼馴染を介して知った”アリス”という名の謎の美少女の存在』
『一目その姿を見たいとアンテナを張るも、”幼馴染の親友”で、”ピアノ教師の母親の生徒”であること以外の情報が一切入ってこない』
『ピアノを習いに自分の家にまで顔を出すほど身近に居るのに、何故か会えない謎の美少女』
『焦れったく時間ばかりが過ぎ、想いは積もるばかり』
『そんな2人はついに自宅のピアノ教室で出会い、一曲だけのデュエットを交わす』
『互いにその思い出が忘れられないまま時は過ぎ、高校の入学式に2人は奇跡的に再会を果たす』
……笑わないでいただきたいのだが、当初はこんな感じに進めるつもりで────そもそもピアノ教室での出会い以外は全くこの世界の紫藤広樹くん12歳とは会わない予定だった。
だが今日の遭遇でその予定は崩れた。
ならどうするか。
まず微調整してそのまま計画を続行する場合。
ヤツと遭った時も考えたが、一度会ったことは存外別に悪いことでは無かったのではないかと思う。
そもそもこの計画の目標は紫藤広樹くん12歳を愛莉珠に強く執着させることだ。その手段として、自宅のピアノ教室に通ったりみっちゃんの家に遊びに来たりしてるのに中々直接会えない希少価値の高いレアキャラであることを印象付けて、ヤツをじれじれさせるのだ。
むしろ一度顔を見られる方が“また会いたい”と想って余計執着してくれる可能性が高くなりそうではないか?
そう思うとあの出会いも棚ぼただったのかも知れない。
それに、正直に言うと、俺は愛莉珠本人と違ってアイツみたいに上手な恋の駆け引きが出来る自身がない。
おまけに恋愛相手は昔の自分なのだ。ヘンに甘やかしてしまうかも知れないし、優しくし過ぎた結果、みっちゃんのヤツへの好感度も回復し切ってない中途半端な状況でいきなり告白されても困る。みっちゃんと、この世界の俺、どっちを選ぶなんて状況になりかねない。
逆にツンツンしたりガードが堅すぎてもまるで男を弄んでるみたいに思われて、こっちの社会的な評判が下がってしまう。完璧ヒロインであり続けたいのに、俺に“実は悪女なんじゃないか”なんて噂が立ってしまうと台無しだ。
なのであまりヤツに会わずにいられるこの計画の方針通りに進める方がいいだろう。
逆にもう一つ、これは計画そのものを大掛かりに修正する場合だ。
何故今更そんなことが必要かと言うと────
これは先のヤツの黒歴史製造業の営業停止要請にも関係してくることなんだけど、そもそもあがり症のテンパり癖があるヤツにじれじれした恋愛をさせるって思いっきり愚作なんじゃねぇか?って疑問に思ったからだ。
そもそも昨日のヤツの痴態を見て気付いたけど、この世界の12歳児の俺の未熟な精神に我慢が必要な焦れったい恋愛が出来るとは思えない。
焦らされ過ぎて逆に暴走して、アンリミテッド・クロレキシ・ワークスになりかねない。
今回ヤツに出会って感じた未熟な子供っぽい部分。あれを変えるのは相当難しいだろう。
このシナリオはロマンチックなのは認めるけど、焦らし過ぎてヤツが童貞拗らせてしまったら絶対また何かやらかすぞ?燃え上がる恋とか中1には早過ぎる。
大体、元の世界の高1の俺の時だって、愛莉珠の単純に堅いガードだけでもあんなに大変で苦労したんだ。『謎の美少女じれじれ計画』ではガードが堅いどころか姿そのものを見せないのだ。
おまけに相手はまだ12歳のガキ。あのバイビーに耐えられるか?
ただなぁ……
俺は愛莉珠に惚れた時、確かに自分のヘンなプライドを捨て去ることが出来た。ガードの堅さに苦戦して、焦らされて焦らされて、もうアイツのこと以外考えられなくなった時、ふっと今までのムダにカッコつけてた自分が馬鹿らしくなったのだ。以後一から己を磨き上げ、当時の自分をネタに笑えるレベルに落ち着いたのだ。
愛莉珠本人との馴れ初め期間も俺視点だとかなりじれじれした最高の恋愛だったし、あれがあったおかげで今のジェントルマンヒロくんになれたのも確かだ。あの恋のおかげで俺が変わることが出来て、黒歴史製造癖がかなり抜けたのは紛れもない事実なのだ。
そして今の紫藤広樹は、女子に小学校時代にちやほやされ過ぎたせいで自分のことを本気でカッコいいと思ってるただのイタいヤツだ。だがもし、高1の俺のような焦れったい恋愛を経験すれば、今の俺のようにちょっとはマシになるかもしれない。
そういう紫藤広樹の成長も、未来の俺としては期待してしまうのだ。
まあ今のこの世界の紫藤広樹くん12歳は見ていてめちゃくちゃ恥ずかしいからな!
いずれにしても、これは……相当慎重に計画を進めないとまずいことになるかもな……
ホント、厄介な病だよ。
ったく……
前途多難な人生計画に溜息を吐きながら、俺は制服に着替えようとブルーな気分のまま自室に戻った。