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27話 *小西美奈と紫藤邸*


「あ、もしもしおばさん?美奈です」


『もしもし、ヒロくんママよ。みっちゃんもうお家着いたかしら?』


「うん、今家でアリスちゃんと寛いでる。連絡くれたってことはもうおばさん家お邪魔していいってこと?」


『ええ、あのバカも居ないしピアノも移動させたからいつでもいらっしゃい。うふふ、楽しみだわぁ、本物のお嬢様』 




 電話に出るとおばさんの機嫌の良さそうな声が聞こえてきた。どうやらわざわざアリスちゃんとわたしのピアノ遊びのためにあのでっかいグランドピアノを教室の弾き易い位置に移動してくれたみたいだ。言えば手伝ったのに随分好意的だ。あれ動かすの凄い筋力要りそうなのに……よほど強い熱意でもあったのかな。

 前もアリスちゃんに興味深々だったみたいだけど、やっぱり本物のお嬢様を一目見たいってのが大きいのだろうか。ウチのお母さんと似てミーハーな人だ。


 この年の女性ってみんなこうなのかな……?



 訪問の許可が下りたのでさっそくアリスちゃんと紫藤邸に移動しよう。後ろの客人の方を振り向いたら、何故かほっぺをほんのり赤くして呆けてるめちゃくちゃ可愛い顔をしたアリスちゃんがいた。思わず見惚れそうになる自分を叱咤する。

 それにしても、アリスちゃんは電車を下りてからなんだかこんな感じでぼんやりしている回数が多いように思える。

 どうしたのだろう……?




「アリスちゃん?顔赤いけど大丈夫?」


「……え?あ、ああ、い、いえ、ごめんなさい」



 ……?



 アリスちゃんと知り合ってようやく一月が経とうとしている。まだまだ短い付き合いだけど、だんだんと完璧な彼女の中にある個性的な面も見えてきた。


 アリスちゃんは時々突然自分の世界に入り込むクセがある。その時の兆候はさまざまで、今のようにふっと気が緩んで無防備にぽけ~っとしていたり、切なそうにしょんぼりしていたり、時には真っ青になって震えていたりする。どんな上の空アリスちゃんでも見るたびに思わずどきっとしてしまうほどキレイで可愛いんだけど、心配して声をかければ決まって“ごめんなさい”って謝ってくるだけだ。何を考えていたのか、何を悩んでいるのか、彼女は絶対に誰にも言ってくれない。

 親友を自称しているわたしとしては、そんな何でも自分で溜め込みたがるアリスちゃんは……そこだけが気に食わない。



 でも以前の3年生の先輩たちに迷惑かけられた時の一件みたいに、たま~に頼ってくれるから文句も言えない。その時は決まってあの腰が砕けそうになるほどステキな笑顔でお礼を言って来たりするから、それまでのこっちの無力感だとか不甲斐なさだとかが一瞬で吹っ飛んでしまう。

 全くもって、ずるい美少女だ!アリスちゃんめ!




「その、先ほどの電話のバ────じょ、女性の方は?」


「ん?あ、言い忘れてた!さっきの人が紫藤先生だよ。……ちなみにその息子さんが例のアホです。誠に遺憾ながら」


「れ、例のア───、いえ……流石に幼馴染さんに失礼ではないかしら……」



 失礼なもんか!あんな変態なんて“例のゴミ”でもいいくらいだってのに!

 アリスちゃんは汚い言葉使うの嫌いみたいだけど、あんなのいくらでも罵っていいんだよ?

 もしかしたら喜ぶかもしれないし────って、ごめんやっぱやめよう。これ以上アレが気持ち悪くなったら真剣に絶交を考えなくちゃいけなくなる。

 わたしのためにも、アリスちゃんのためにも……



 にしてもホント男子に無防備なんだよなぁ、アリスちゃんって。

 いやナツミちゃんみたいにスカート短くしてたりとかの服装の隙は全く無いんだけど。なんて言うか……男子のエッチな視線や行為に対する対応が甘いんだよ。最近どんどん美人になってってるし、体育の更衣室でさりげなく見たら胸も明らかに大きくなって来てるのに、本人は全然見てくる男子の対策とかしてないんだもん。


 クラスで男子がプリント配りだとかなんとかでチャンスさえあればアリスちゃんの手とか肩とか肘で胸とか触ってくるの見るたびにナツミちゃんと2人でハラハラしてるんだよ!?全く!

 今度真剣に2人で一緒にこの子にそういうの教えないと……!




 ……本当は死んでも会わせたくなかったけど、ここまで来たらもう、ヒロくんには男子のキモさをアリスちゃんに知ってもらういい教材になってもらおう。アイツほど気持ち悪い男の子もそう居ないでしょうし、この子があのアホに嫌悪感を抱いてくれればわたしのボディーガードの仕事も楽になる。


 アリスちゃん、何故かヤツのあのびわゼリーの奇行を知ってもまだあまり警戒してないみたいだけど……あれ普通の女子はドン引きだからね?




「まあおばさんもアイツはまだ部活だって言ってたし、早速遊びにいこ!」


「……そ、そうですね。し、紫藤……さんのお家に、ね……」


「え……う、うん。じゃあ手ぶらでね。もし万が一忘れ物でもしたら……びわゼリーの替わりにその忘れ物があのLEG○の神棚に飾られるかもしれないから」


「…………」







***







「いらっしゃい、みっちゃん。そちらがお友達の姫宮さ────んまあああああああ!何何何なのこの子すんごい可愛いわぁ!あれだけみっちゃんが自慢してたのがわかるわね!」


「お、おばさんがウチのお母さんと全く同じ反応してる……」




 家にお邪魔するとおばさんが奇声を上げながらアリスちゃんを歓迎して来た。アリスちゃんを見る大人の女の人は大抵同じ態度を取るから、側に居るわたしまで慣れてしまった。

 隣の張本人の顔色を窺うと────え……?




 アリスちゃんは、今まで一度もわたしに見せてくれたコトの無い、とても不思議な表情をしていた。



 笑顔なんだけど……どこか緊張してて、そして何故か────少しだけ……なんだろう、わかんないや。


 な、なんだろう……?なんか今日のアリスちゃん、どこかおかしくない?

 いつも以上にぼーっとしてるし、今も笑顔が少しぎこちない感じだし……




「…………お初にお目にかかります。小西さんの友人の……姫宮……姫宮愛莉珠と、申します」


「アリス……ちゃん?」



 俯いて、震える声で挨拶する彼女。

 ……ホントにどうしたんだろう?いつものお淑やかな態度が完全に固まってるよ……




「まあまあ、そんな固くなさらないで?こちらこそ初めまして、みっちゃんのピアノの先生の紫藤と申します」



 “どうぞ2人ともおあがり”とわたしたちを促すおばさん。慌ててアリスちゃんの手を引いて続いた。




「おばさん洗面所借りるね。アリスちゃん、こっちだよ」


「ええどうぞご自由に。今リビングにお菓子持ってくわね」


「ありがと。さ、アリスちゃん」



 玄関に立ち止まってキョロキョロしてるアリスちゃんの手を少し強引に引っぱって、1階の階段横にあるトイレに2人で飛び込んだ。



 今日のアリスちゃんは明らかにおかしい。いつもの自分の世界に塞ぎこんでる時とは何かが違う。


 わたしは強引に連れ込まれたトイレで困惑している彼女に向き合って、意を決して尋ねてみた。




「アリスちゃん」


「は、はい。何かしら」


「アリスちゃん、今日下校の電車下りてからずぅっとヘンだよ?」


「えっ、あ、ご、ごめんなさい。貧血かしら、授業の終わり頃から少しぼーっとしてしまって……」




 嘘だ。

 さっきヒロくんのキモさに2人であんなに叫び合えたほど元気だったのに、今更貧血な訳が無い。


 絶対何かおかしい。


 おかしいのに……





 でも……




「……そう?……でも、心配だよ。何か困ったことあったら言ってね?いつでも力になるからさ」


「え、ええ。ありがとうございます。その時はまた、おねがいしますね」


「……うん」




 ……相談してくれないのにこっちから聞き出そうとするのは不平等だよね……




「さ、さぁ!早く手洗ってお菓子食べよっ!おばさんの紅茶美味しいんだから!アリスちゃんも絶対気に入ると思うよ!アールグレイ、だったっけ?」


「…………“グレイ伯爵”……ですね」


「そうそれ!よく知ってるね、流石アリスちゃん!」


「…………」




 俯いて、アルカイックスマイルで表情を隠すアリスちゃんを尻目に、わたしは空元気で明るく振舞いながら洗面台で手を洗った。





 はぁ……


 ……臆病なんだなぁ、わたしって…………







***







 偶然にもおばさんが淹れてくれたのは話題のアールグレイだった。折角さっきの話題とつながったのだ。おばさんに詳しく訊くと、どうもこの柑橘系のさわやかな香りはベルガモットっていう柑橘類の皮の香りで、アールグレーって紅茶はセイロンやディンなんとかって名前のクセのない紅茶の茶葉にそのベルガモットの香り付けたフレーバーティーなんだとか。今日のアイスティーは冷蔵庫で淹れた水出しなんだって。氷がカラン、コロンってグラスに当たっていい音を出している。


 アイスティーを飲んでるアリスちゃんは静かに微笑みながら、どこか遠くを見るような目でそのグラスを見ている。いつものステキな笑顔が少しだけ悲しそうに見えるのは気のせいじゃないと思う。





 ……ふんだ。話してくれるまでずっと諦めずに待ってるもん……




「それで?姫宮さんはいつからピアノを習ってらっしゃるの?」


「ッ、そ、そうですね……物心ついた頃には父の勧めで近くの教室に通っておりました。中学入学を機に上京してからは何かと多忙でして、教室を探す時間もなく……」


「まあまあ!ではウチなんてどうかしら?お友達のみっちゃんのお家の真向かいですし、正規のレッスンを受けるのは大変でも、みっちゃんのお家に遊びに来るついででも大歓迎よ。10分程度でもウチのピアノで弾いてくれれば賑やかになるわ」



 おばさん……それ生徒じゃなくてただの目の保養だよね……?

 アリスちゃんは観葉植物じゃないからね?

 わたしの大切な友達だからね?




 ううう、でもどうしよう!アリスちゃんと一緒にレッスン受けられるのは凄く嬉しいけど────


 忘れてはならない。


 2階に住み着いてるあの淫獣のことを……っ!



 ヤツが居ない日に都合良くおばさんの教室がフリーであるとは限らないし、アリスちゃんも習い事が多いからその日に来れるとも限らない。わたしもそろそろ塾行かなきゃだし、部活もちょっと興味あるからいつも時間がある訳じゃないし……



 やっぱ難しいかなぁ?




「まあ候補の一つとして考えてもらえるだけで嬉しいわ。月謝なんてヤボなことは言わないから、みっちゃんのお家に遊びに来たときについでにウチにもいらっしゃい。他の生徒のレッスンがなければいつでもどうぞ」


「……ありがとうございます。父にも相談して参ります」



 えっ、ちょ!お父さんに相談するの早くない!?



「あ、あのアリスちゃん……?わ、わたしも嬉しいんだけど、その……ここにはあのエロガ、じゃなくて、ア、アリスちゃんに邪な想いを抱いてる男子中学生が居るって何度も────」


「ああ、あのバカのこと心配してるのなら姫宮さんがお出でなさった時は追い出すから大丈夫よ。些細な問題だわ」


「あ゛?」




 えっ……今の誰の声?




「……ぁ、あっ、あのっ、お、おば様?こっ、このクッキー大変美味しいです!もしよろしければ箱を拝見させてもらってもよろしいでしょうか?」



 アリスちゃんが唐突にずれ始めてた話題を方向修正した。

 よほどあのアホの話題が嫌なのかな?とてもいい傾向だ。うんうん。




「え、あ、え、ええ、別に構わないわよ……近くのスーパーの輸入食材コーナーで適当に買ったものだからおばさんも初めて食べたけど、確かに美味しいわね」


「うん、確かに───あ、今気付いたけどこれナツミちゃん家で食べたヤツだ」



 あの薄いワッフルみたいなクッキーだ。そういえばアールグレイといい、今日のおばさんのお菓子チョイスはナツミちゃん家と同じだな。偶然。



「まあ、そうだったのですか?私はみっちゃんが遊びに行かれた直後にお邪魔しましたが、その時は和菓子をご馳走になりました」


「あー……それ多分わたしがナツミちゃんに“アリスちゃん家では美味しい和菓子が出た”って教えちゃったからだと思う。多分それであなたの好みだと勘違いして出してくれたんじゃないかな」


「それは……随分と気を利かせてくださったのですね。今度はこちらがご招待すると致しましょう。宮沢さんは何がお好きだったかしら……」



 む、ナツミちゃんもアリスちゃん家デビューなるか……

 あの子先にお邪魔したわたしのこと相当羨ましがってたもんね。そろそろわたしも後押ししてあげたほうがいいかも。



「ああナツミちゃんなら食いしん坊だから何でも食べると思うよ。前々からアリスちゃん家に呼ばれたいってわたしの話を羨ましそうに聞いてたから、呼んであげるだけで飛び上がるんじゃないかな?」


「……都合が付かずに今までお誘い出来ませんでしたものね。楽しみにしてくださってるのなら週末にでもお誘いしようかしら」



 “あとみっちゃんに食いしん坊と言われるのは宮沢さんも心外だと思いますよ”なんて失礼なことを言うアリスちゃん。

 くっ、言い返せない……



 で、でもどうやら軽口を言えるぐらいには元のアリスちゃんに戻れたみたいだ。

 よかった……




 本音はちょっぴり、また自己解決されちゃって何の力になれなくて悔しいケド……








***







 アリスちゃんはとってもピアノが上手だ。わたしがおばさんに習った曲も全て知っていて、難しいラフマニノフも流れるような指捌きで弾いている。うっとりするような旋律だ。隣で一緒に聴いているおばさんも驚いている。

 以前お家にお邪魔した時に一緒に弾いたのがただのお遊びに思えるほど、今のアリスちゃんはとてもわたしと同じ中学1年生とは思えないほど卓越していた。

 ナツミちゃんと2人で綴っているアリスちゃん伝説にまた新たな1ページが刻まれたことに、胸が熱くなる。


 これがわたしの友達。彼女の親友としての強い誇りを勝手に持っているわたしが、目指すべき目標。今のわたしがこのアリスちゃんに追いつけるのに、一体あとどれくらいの年月が必要なのだろう。



 時々思ってしまう。容姿も勉強も教養もピアノを運動も何一つとして同年代の生徒たちの追随を許さないこのスーパーガールの側にいる自分は何なのだろうと。何か肩を並べられるだけの何かが欲しいと思うだけの人間だ。


 届かないものに手を伸ばしたがるこの気持ちは何?

 劣等感?屈辱?嫉妬?

 違う、そんな普通の人間が抱きそうな感情ではもはや無い。


 これは憧憬だ。


 この子のようになりたい。そう思える、目指すべき目標。憧れる人物。

 側にいるだけで自分が昨日の自分より優れた人間になっているように感じられる、そんな不思議な親友なのだ。彼女の側に居続けられるほど優れた人間になりたい。その願望を自分の生きがいにしてもいいくらいだ。



 そんなわたしたちを尻目に、グランドピアノの鍵盤を操っているアリスちゃんはまたあの不思議な顔をしている。見る人全てを魅了する美少女は、その聡明な頭で一体何を考えながらピアノを弾いているのだろうか……




 丸々一曲弾き終わったアリスちゃんにおばさんが力強い拍手を送る。彼女の演奏に飲まれてたわたしもハッっと正気に戻り、おばさんに続いた。




「素晴らしいわ!完璧!完璧よ!お世辞抜きでピアノ教師として何一つ突っ込みどころがないくらいだわ!」


「もー、この前アリスちゃん家にお邪魔した時にドヤ顔で弾いてたわたしが大恥だよぉ!そんなに上手だったのならもっと早く言ってよ!」


「強いて言えば体が少し固いくらいかしら?緊張して無ければもっと良い音が出せてたと思うわ。多分ホントはもっと上手なんじゃないかしら……!」




 そんなわたしたちの賞賛を浴びる彼女は呆けていた。しかしその直後────急に顔を赤くして目尻に涙を溜め始めた。


 えっ!?な、泣いてるの!?


 な、何で?どうして?




「えっ、ア、アリスちゃん!?」


「あ、あらら?おばさん何か傷つけちゃったかしら……?ごめんなさい、悪気は無かったのよ?」



 焦るわたしたちから慌てて顔を隠すように俯くアリスちゃん。

 ど、どうしよう?ハンカチならぽっけにあるけど……




「あ、あら……?あら?何で私……」



 アリスちゃんが混乱しながら自分の涙を指で拭っている。ハンカチの存在を忘れるほど狼狽している。自分の状況すらわかっていないようだ。


 そんなアリスちゃんにわたしが同じようにあたふたうろたえてると、ふいにおばさんが彼女の頭に手を伸ばした。

 そしてそのまま優しく……ぽんぽん、とアリスちゃんの頭を撫でた。




「ア、アリスちゃん?ほら、泣かないで?折角の可愛いお顔が台無しよ?ステキなラフマニノフだったわ、おばさんウットリしちゃった。とてもお上手よ、アリスちゃん」



 初対面の女の子相手だからか少し拙いけれど、おばさんは、昔よく泣いていたわたしやヒロくんをあやす時にやってくれた撫で方で、アリスちゃんの頭を撫でた。咄嗟の出来事とは言えこういう風に泣いている女の子を慰めようと行動できるおばさんはやはり大人だ。

 そしてそんな大人にとっては、いくら大人びたアリスちゃんでもまだまだ子供に見えるのだろう。そのことがちょっぴり悔しくて……同時にちょっぴりほっとした。


 女の子の頭を撫でたことなんて、わたし以外ほとんど無いのだろう。おばさんの撫で方はヒロくんが基準だからか、あまり優しいとは言えない。だけどあのぽんぽんって掌を頭に被せるようにする撫で方は妙にクセになるのだ。アリスちゃんも安心してくれるだろう。




 そう思っていたのに────





「ア、アリスちゃん!?」




 彼女の涙は決壊し、つーっと頬を伝っていた。





「どっ、どどどうしたの!?」


「ア、アリスちゃんハンカチ!わたしのハンカチ使って!」




 留めなくあふれ出る彼女の涙が、その形のいい顎からポタポタと制服のスカートに垂れ墜ちる。わたしはその涙を自分のハンカチで拭いながらも、目の前のこの風景が信じられなかった。


 自分の勝手な想像ではあるけれど、わたしの知るアリスちゃんは、いつも微笑みを絶やさないお淑やかな女の子だ。それが今日はまるで別人のように街中で叫び声をあげたり、キョロキョロ落ち着かなかったり、大粒の涙を流したりしている。アリスちゃんのらしくない姿を前に、にわたしはただただ彼女の涙を拭いてあげることしか出来なかった。




「え、ええっと……あ、そうだわ」



 何かに気付いたのか、おばさんが突然アリスちゃんの座るピアノの椅子の真横に跪き、顔を抱きしめた。

 まるで子供を抱く母親のような姿だ。


 びくん、とアリスちゃんの肩が揺れる。


 ちょ、ちょっとずるいよおばさん!スキンシップなれなれしいよ!



 でも肝心のアリスちゃんは一切抵抗しない。声も無言だ。

2人でそっとそんな彼女の様子を窺っていると、彼女が震える手でおばさんの服の袖を掴んだ。固まる私をよそに、おばさんは一瞬だけ驚いた後、優しく微笑んでもう片方の手でアリスちゃんの頭を撫で始めた。


 おばさんの胸に顔を埋め、抱きしめる腕をその綺麗な白い手でぎゅっと掴んでいる。鳴き声は聞こえない。ただ涙が止まらない。まるで我が子をあやす母親のような顔をしているおばさんとその腕に抱かれているアリスちゃんの2人の姿を見て、わたしはようやく目の前で抱きしめられている親友の涙の理由がわかった。


 わかってしまった。





 ああ……そうか。


 わたしはさっきの自分の部屋で彼女が言っていた言葉を思い出す。




『お母様のこと、大切になさってくださいね』




 いつもと変わらないステキな笑顔でそうわたしに言ってくれたアリスちゃん。あの時はそう見えたけど、今思えばあの笑顔にもどこか影があったように思えてしまう。目の前で涙を流しながらヒロくんママおばさんに抱きしめられている彼女は、どんな思いでわたしのお母さんに対するグチを聴いていたのだろう。


 おばさんの腕の中で静かに泣いているアリスちゃん。しゃくり上がるような息遣いは無く、ただ涙を流してるだけの泣き方だ。本人も混乱しているのか、自分の感情をどう表していいのか戸惑っているようにも見える。多分、自分が何故こんなに泣いているのかすらわかっていないのかもしれない。

それは無意識の涙なんだとわたしは思う。




 目の前の少女、姫宮愛莉珠には母親がいない。普通の女の子が学校帰りに自宅のドアを開けて“ただいま”と言って必ず帰ってくるはずの言葉が、彼女の家には無いのだ。あの広いマンションの部屋を全て一人で管理しながら、一人で朝食を、お弁当を、夕食を作る。


 彼女の家に遊びに言ったとき、彼女の習い事の帰りを待っている間、あのマンションの部屋で客人の自分が一人で居た時間があった。クラスメイトに配るクッキーの材料を揃えて、借りた鍵で部屋に入った時だ。防音完備の高層マンションの部屋の広い玄関はシン……としていて、完全に無音だった。

 誰も居ない。そのことが一瞬でわかってしまう、孤独な空間だった。

 彼女は毎日、帰宅するたびにあの沈黙を聞いているのだろう。あの広い部屋に自分独り。礼儀正しい彼女のことだ。たとえ無人の家であっても“ただいま”、“行ってきます”の挨拶は欠かさないだろう。その言葉に永遠に返事が無いことを、彼女はどう思っているのだろうか。

 “おかえりなさい”と、母親の何気ない一言が永遠に聞こえて来ない自分の日常を、彼女はどう思っているのだろうか。


 わたしにはその答えが、目の前で頬を伝って零れ落ちる彼女の涙にあるのだと思えてならない。




 残念ながら、無力なわたしには彼女の涙を止めるすべは無いけれど……


 ヒロくんママのぎゅ~が、この一瞬、この一時だけでいいから……アリスちゃんの心を慰めてくれてたらいいな。







***







「……大変失礼致しました。お見苦しい所をお見せしてしまい、誠に申し訳ございませんでした……」


「いいのよ、気にしないで。アリスちゃんは中学生とは思えないほど大人びてらっしゃるけど、誰だってたまには人恋しくなる時もあるわよ。むしろこんなに可愛いお嬢さんを抱きしめさせてもらって役得だわ。みっちゃんママに自慢しちゃいたいくらい!」


「おばさん……」



 茶目っ気たっぷりにアリスちゃんを慰めようと明るく振舞うおばさん。若干本音が見え隠れしているのは錯覚だと思いたい。



 アリスちゃんはあの後ほんの数分程度で復活し、今は自分の痴態を見られたことが恥ずかしいのか顔を耳まで真っ赤にしている。声の調子はいつもの礼儀正しいお嬢様に戻っているけど、そのリンゴみたいな顔で台無しだ。

 そんなアリスちゃんを見つめるおばさんは、どこか暖かい目をしている。もしかしたらあの一瞬だけ、新しい娘が出来たような感覚になったのかな。あれが母親の目ってやつなのかも知れない。




 ……アリスちゃんは自分の気持ちに気付いているのかな。

 自分の気持ちの────涙の正体に、気付いているのかな。


 誰かに……助けて欲しいって、言ってくれるのかな。




 それとも……それもまた自分で解決出来るものだと決め付けちゃって、独りで抱え込んじゃうのかな……




 アリスちゃん……







「あら、少しごめんなさい……誰かしら?」



 ふいに部屋に聞きなれた着信音が反響する。おばさんのスマホだ。教室の入り口付近のハンガーにかけてあった鞄を取って中を探している。




「げっ!」


「えっ、どうしたのおばさん?」



 スマホの着信画面を確認したおばさんが女性があげてはいけない声をあげる。よほどまずい相手なのかな?



 ……ねぇ、それってまさか────




「みっちゃん……アリスちゃん……」


「うん」


「は、はい」




 もう想像出来てしまう。先ほどのなんちゃって母娘の美しい愛情の一幕の余韻が吹っ飛んでしまった。こんなに空気の読めないアホはこの世に一人しか居ない。


…………おばさん、帰ってくるんだね?




「───“ヤツ”が来るわよ」


「さぁ帰ろう!!」


「えっ」



 ほぼ脊髄反射で返事をすることが出来た。我ながら完璧な危機回避能力だ。隣で驚いた顔をしているアリスちゃんはまだまだこの辺が未熟だ。やはり明日にでもナツミちゃんを誘って2人でアリスちゃんに男子の危険性について説教しないといけない。後であの子にlin○しよう。




「あの……その電話の方はやはり……」


「おばさんの愚息よ。危険だから早くここから離れたほうがいいわ。電話出るから2人は声を立てないように」


「き、危険……って…………」



 アリスちゃんも理解したのか忙しなくピアノの楽譜や鍵盤カバーを閉じて部屋を片付けている。なんだ、ちゃんとわかってるじゃない。

 でも本人はどこか不満そうな顔をしている。


 ……まさか本当にアレに会いたがってる訳じゃないよね?

 アリスちゃん?




「はいはいもしもし。………ええ、ええ、………は?………あ、そう?今お客さんが来てるからスーパーで何かお菓子でも買って来てくれる?……ええ、そうよ。お願いね?」



 さっそくおばさんが電話に出てヤツに仕事を押し付けて時間稼ぎをしている。実に自然な手順だ。わたしたちもその厚意を無駄にしないようにそそくさと教室を後にする。

 アリスちゃん遅い!何そわそわしてるの!


 わたしは彼女の華奢な手を掴んで一目散に紫藤邸を後にする。立つ鳥跡を濁さず!お母さんのはまってることわざ集にあったヤツだけど、この場合はしょうがない。お菓子やグラスはアリスちゃんを帰してからまた片付けに行こう。





 その後恐縮してるアリスちゃんに彼女の荷物ををわたしの家から持って来て、簡単な駅までの道筋を確認させて、ばいばいした。


 こうしてアリスちゃんの初めての我が家へのご招待は終了した。





















 アリスちゃんが帰った後、おばさん家のテーブルを掃除していたら、数十分後にヤツが帰ってきた。






 何故か顔が呆けて真っ赤だったんだけど、一体どうしたんだろう……?




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