21話 父と娘
すぅーっと静かに、まるで水の上を進んでいるかのように、黒塗りの車が走る。昼下がりの環八道路は途切れ途切れに帰宅ラッシュの渋滞が目立ってくる時間帯だ。3時帰宅民のアパレル系っぽい人や、他社を周ってる営業マンらしきスーツの兄ちゃんが赤信号で車が止まるたびにスマホを耳に当てている。
あれってダメなんじゃねぇのか?前にウチのクソ親父が同じことやってて捕まってたぞ……って、あ、ほら。隣でチャリ乗ってたおまわりさんに窓ガラスノックされてるし。
赤信号でたまたま警察の自転車が隣に止まって見つかっちまうなんて……運が悪かったな兄ちゃん、ドンマイ。罰金7000円&反則点+2くらいだな!
あと1点で有料免許取り消しだぜ!FUUUUU!
さて、そんな訳で俺は今パパンの車に乗って某有名医が営業している精神科クリニックへのゴルゴダの坂を爆走している。運転しているのは50代くらいのハンサムな運転手さんだ。テレビによく出てくる某与党の某外務大臣にちょっと似ている。パパンに劣らない紳士なオジサマで、挨拶を交わしたときにふわっとステキな優しい香りが漂ってきた。ウチのクソ親父やあの消えた男鹿少年とは大違いのセンスだ。
メーカー番号とか聞いてみたかったけど、女の子(外見)が男性に香水の名前を尋ねる理由が不明すぎるので自重した。
愛莉珠、賢いの!
「お父さん。本日は私のためにワザワザお時間を割いてくださって、ありがとうございます」
「ん?ああ、それはかまわん。どの道私も用事があったことだしな」
隣で不機嫌そうに眉毛をしかめながらタブレット画面を睨みつけているパパンが怖くて、一応礼儀正しく礼を言ってみた。こっちの怯えが読まれたのかは知らんが、画面から顔を上げて俺を見てきたその一瞬だけは優しそうな微笑を浮かべてくれた。
まあすぐまた舌打ちしそうなしかめっ面でウィンドウズSurfacePR○を睥睨し始めたんだけど。
怖いっす、パパン……
にしても、パパンの精神科への用事ってなんだろう。やっぱ日ごろのストレスとかかな?
仕事は流石にわからんけど、家のことなら家事は全部完璧に頑張ってるよ?
俺はパパンには帰宅してくれた時は常に礼儀正しくしてるし、背広やコートとか脱ぐの手伝ってあげたり、疲れてそうな時はお酒をお酌してあげたり甲斐甲斐しく接してるつもりなんだけどな。実はパパンのヘイト管理以外にも山本お姉さんに習った和式の簡単な給仕作法を練習してるってのもあるんだけどね!最近は本職の鷹司先生にも教わってるし、かなり様になって来ているはずだ。
でもまだ拙いからか、たまにパパンにふふって笑われたり逆に正しく教えてもらったりもするけどね!
我ながら我が家ではいい親子関係を築けてるとは思うんだが……
「愛莉珠も唐突に言われて驚いただろう。すまなかったな」
「い、いえ、そんな……」
「……人の心のような、目に見えぬモノは何事も早めにその道の専門家の先生に窺った方が良い」
そう言った後、どこかバツの悪そうな顔をしながら小さな溜息を吐いたパパンがおもむろに口を開いた。
「……知っての通り、私は恥ずかしいことに酒癖が酷いからな。周りも指摘し辛かったのか、気付かぬまま放っておいたら医師に適応障害だと断定されたぞ」
「お、お父さんがですか……?」
「気付いたら知らぬホテルで眠っていたなんてこともあった。アレ以来接待でも精神病を言い訳に深酒は控えている」
それってもしかしなくても俺がこの体を乗っ取ってしまった日あたりにパパンが酔っ払いながら女連れ込んで来た事件じゃね……?
あ、あれって一応そう何度もない大事件だったのね……まるでいつものことかと当時思ってたわ……
「お前にも迷惑をかけてしまった。情けない父で本当に申し訳ないと思っている」
「い、いえ!そんな、ことは……」
むぅ……。もうちょっと気の利いた返事をしたかったけど、あまり軽々しく家の過去に関わることを言ってしまうと色々まずい。俺は愛莉珠の家のことをほとんど知らないのだ。
例えばだが、もしパパンの酒癖の悪さが原因でマッマに逃げられたとか、昔愛莉珠が酔っぱらったパパンにDVを受けていたとか、そんな出来事があったのだとしたら、娘の俺が“気にしてない”、と断言するのは流石におかしいからな。
でも……娘に言い難いことを恥を捨てて正直に喋ってくれるパパンは普通にイケメンだよ。俺だったら絶対見栄張って逆に開き直ったりしそうだわ。
それにお筝に作法教育にテニスまでお願いしてるし、ピアノも昔の愛莉珠が暮らしていた横浜で習っていたからここ東京でも習って良いって言われてるし……
あの男鹿少年のことだって……
「……私の方こそ、ご迷惑ばかりお掛けしてしまってごめんなさい。習い事もそうですし、学校での人間関係も───」
「愛莉珠」
「ッふぁは、はい!」
だ、だからそのバスボイスで名前呼ぶのやめーや!なんかエロいから!すんごいドキッてするから!
「何度も言うが、お前が私の迷惑を考える必要は全く無い。親の仕事は金稼ぎではなく自分の子の生活を守ることだ」
「…………」
「愛莉珠も思春期で何かと不安になることも多いだろう。女性の相談事なら鷹司先生がお前の母親代わりになってくださる。それ以外の事は私が相談に乗ろう。他人を頼ることに負い目を感じてしまうのなら、味方を自分の望み通りに動かす練習だとでも思っておきなさい」
「味方を動かす、ですか……?」
「そうだ。自分に出来ない事は、出来る者やより上手に出来る者に全て任せるのが、最終的には最も良い結果を生む。謙虚さや奥ゆかしさは美徳だが、負い目を感じるあまり自分で全てを解決しようとするのは只の実力過信、すなわち傲慢だ」
「……おっしゃるとおりです」
……それはわかる。頼るのが迷惑なのではなくて頼らずに状況を悪化させる方が、結局より大きな迷惑をかけてしまう。俺が真っ先にパパンや友達の保護者たちの力を借りようと動いた結果、あの問題児3年生にヘンに絡まれるまえにヤツを追い払うことが出来たのだ。
おかげで今の1年4組は平和そのもの……ま、まあ俺目当てでちょくちょくやってくる他クラスや他学年の生徒たちが起す些細な騒ぎを除けば、平和そのものだし。迷惑をかけてしまうという罪悪感を飲み込んで急いで保護者を頼ったのは正しかったのだろう。
そんなことを考えていたらタブレットを弄っていたパパンの手がふいに、とても自然な動きで俺の頭に伸びてきた。ポカンとしながらその美しい動作に見惚れていると、ふわっと頭に大きくて暖かいものがかぶさった。数週間前にパパンのベッドの中に無意識のうちにお邪魔していた時の、寝ている俺の髪を梳きながら優しく撫でてくれたあの感触だ。じぃんと心が暖まって、思わず思いっ切り抱きつきたくなるような、そんな気持ちになる。
なんだ?なにが起きてるんだ?
なんでこんな甘えたがりな気分に───って!ちょっと待て!今、今俺何されてるの!?
俺!パパンに頭撫でられてるの!?な、何故に!?
ちょ、やめっ!やめて!なんか知らんけど俺泣きそうになってるから!
そういうのホント慣れてないの!慣れてないのぉぉぉお!
「あ、あぁあのっ!おっ、お、お父さ───」
「負い目を感じてしまうのなら、相手にかけた迷惑以上の成果を挙げなさい。親が子に望む成果はたった一つ、今のお前のような優れた人間に育ってくれることだけだ」
「はぅっ!?わ、私が……ですか……!?」
す、優れた人間って……!や、やめて!褒めすぎぃ!褒めすぎだってば!
そんな優しい顔で頭撫でながら俺のこと褒めないで!ドキドキしちゃう!ドキドキしちゃうからぁ!
ほら今絶対耳まで顔赤くなってるから!
も、もうご勘弁を───っ!
「そっ、そのような───」
「言っただろう?お前はとても良くやっていると。熱心に習い事に取り組みながら桜台の特進科で優れた成績を収めるのは容易ではない。それを成し遂げている愛莉珠は十分、私の期待に答えてくれているよ」
「あの、その……」
や、やめ……
「えらいぞ、愛莉珠」
あぁぁん……
***
『Q: 現在、どのようなことでお悩みですか?』
A: 実父と結婚出来る方法
『Q: お悩みはいつ頃からですか』
A: 5分前
『Q: お悩みの治療のゴールはどのようなものですか?』
A: 婚姻届受理証明書と新しい戸籍
「愛莉珠、書き終えたか?」
A: はい───って、待て待て待て待て違う違う違う違う!
「うん?これか、愛莉───」
「お、おぉお待ちくださいお父さん!間違え!間違えました!」
「こら、ここは病院だぞ。静かにしなさい、お前らしくもない」
「ッあ、は、はい……申し訳ございません……」
あ、あぶねぇ……
しばらく狂ってたぜ。思わず禁断の扉が開くかと思ったわ……
な、何なんだこの男。実の娘まで誑し込むとは……っ!
どうしよう、マジで精神科に来て良かったのかもしれない。異常性癖に対して先生が理解があるといいんだけど、っておい!やめんか!シャレにならん!
なんとか落ち着いた俺はとりあえずクリニックの初診問診票を正しく書き込もうと鉛筆を握り直す。
安心しろ、この世界の俺くん12歳よ。俺(愛莉珠)は至って正常だ。パパンのことは仕方が無いのだ。あんな風に言われて墜ちない女は居ない。だが俺は元男だ。寸前で耐えることが出来る!
ふふふ、パパンめ!残念だったな!
……残念なのは俺の頭か?
そうか……
さて、先ほどの問診票の質問だが…………正直に俺が『三股してた恋人の5年前の体に乗り移ってしまいました』と書いたとしよう。
まず間違いなく、精神科の先生が優しく話を聞いてくれて、さあ帰ろうとクリニックのドアを開けると目の前に黄色い救急車が俺を待っていることになるはずだ。
冗談じゃねぇ!いや、冗談みたいなことになってるのは俺のほうだけど!冗談じゃねぇぞ!
俺は清楚系正統派パーフェクト美少女メインヒロインなんだ!一体どの二次元コンテンツに黄色い救急車のお世話になるメインヒロインがいるんだよ!そういうマニアックなのは間に合ってるんだよ!ほっとけ!
なので、当然俺のこの憑依案件は秘密だ秘密。墓場どころかあの世にまで持って行ってやる。
ではこの目の前の問診票には何を書くのか。
A:なんも書けねぇっす、以上!
という訳でパパン!代わりに書いてぷりーず!
「……愛莉珠、本当にお前自身は何も自分に違和感を覚えていないのか?」
「そうですね…………」
……あの記憶が飛んでた夜のことぐらいなんだよな。
入学式の翌日。あの日はパパンが珍しく半日……つっても朝普通に出社してたけど、一応の休日を取ってマンションに帰ってきてくれた。丁度俺がクラスのみんなにクッキーを焼いていた時だったはずだ。
うとうとしながら焼きあがるのを待っていたら、突然家の鍵がカードキーでチャッ…と開く小さな音が聞こえたのだ。
あの時は真っ先にパパンの顔が浮かんで、カッコ悪く見えないように軽く身嗜みを整えてから玄関まで向かったのだ。
その後からの記憶が一切無い。
気付いたら俺はパパンの腕の中でぐーすか寝ていたのだ。我ながら意味不明過ぎて、この愛莉珠ちゃん12歳憑依現象のように、もう“そんなもん”、と一人勝手に自己解決してしまっている。
正直、精神科の先生もこんな患者を診ても困惑するだけだと思う。
……あれ、これ俺もう帰った方がいいんじゃね?
「…………お父さんは、お父さんが私とクッキーを一緒に焼いてくださった時のことを覚えてらっしゃいますか?」
「もちろん。楽しい思い出だ、愛莉珠」
「ふぇっ、えっ、あ、そ、そういうことでは、その、無くてですね……」
おいやめろ!またもう一枚問診票がムダになるだろ!いやならねぇよ!なにいってだ俺!
「ふふっ。ああ、すまない。あの日の夜だったな」
「もうっ……」
あぁ^~実父に惚れてまうんじゃ^~
「……それで────その後通学路の駅まで送ってくださった時に、どこか私のことで気になる事があると……」
「ああ、確かに私が愛莉珠の行動や発言に疑問を覚えたのがその時だ」
まあ、そうだろうな。
パパンが精神科なんて言い出したのはその翌朝の、俺の記憶がスタートしたというか、意識が戻った時の後だったからな。
この体に憑依した俺と初めてマトモに話した時でもあるな。と、するとやはり───
「……あ、あの時は久々にお父さんとお話出来たので……その、少し舞い上がって気が緩んだと言いますか……」
パパンや鷹司先生の話す昔の愛莉珠の姿は天真爛漫なおてんばお嬢様だ。なら中学に上がってそんな自分を変えようと頑張ってる女の子の設定で行くのがベストだろう。
「ですので、あまり大事に捉えられても……」
「そうは言うが……朝起きた時の愛莉珠がその日の前夜のお前とはまるで別人でな。その後も話している時に前夜と全く同じことを繰り返していたり、その同じ話をしてくれた時のお前の感想や意見が夜と朝で間逆であったりと、幾つか不可解な点があった」
「……えっ」
え、ちょっと待て……
今なんて言った?
『同じ話題に対する意見が夜と朝で間逆だった』だと……?
間逆……って……
それって───
「…………母のことや不甲斐ないこの父のこと、引越しによる急な環境の変化、思春期のデリケートな精神構造など、今の愛莉珠には様々なストレスがかかってしまっているはずだ。もしかしたら軽度の記憶障害、多重人格障害などの可能性もある」
多重……人格…………
まさか……
いや、俺がこんな事になってるんだ。
ありえないなんてどうしてわかる。
まさか───
もしかして、アイツの───
愛莉珠の理性が───目覚めてるのか…?
「愛莉珠。只の私の杞憂であればそれに越したことはない。その後特に何か思い当たる節がなければ先生にそう言うと良い」
「………ぁ……ぅ……」
「元々精神なぞ目に見えぬモノなのだ。事情を知るプロの先生が味方に居ると思えるだけで落ち着けるはずだ。只放っておくより遥かに解決し易くなるだろう」
「……おと……う、さん……、わ、私…………」
体が震える。
目が真っ白になる。
パパンの言葉が全く頭に入ってこない。
『愛莉珠の理性が存在する』
その発想が浮かんだ瞬間、俺は頭をぶん殴られたような気がした。
愛莉珠の体の、意識がある。
それはつまり、今までずっと、俺の行動を心の奥で見つめていたということか?
ずっと俺の行動を傍観してて、自分の体で好き勝手やってる俺のことを見つめていたということか?
な、何故、そんなことを?
好きに奪い返せばいいんじゃないのか……?
元の持ち主なんだし、部外者は俺の方なんだし。
ワザワザ俺の意思に任せなくたって───
いや、もしかしたら───動けないのか?
俺が乗っ取ってしまっているから?
そう……なのか?
い、いや!そ、そんなことは知らん!
そ、そもそもこんなことになったのは俺の意思じゃねぇ!ただの偶然だ!
第一、俺は───俺はコイツに裏切られたんだ……!
独りよがりだろうと構わねぇ!ビッチなお前なんて俺は居らねぇ!
散々人で遊びやがって!俺がどんな想いでお前のあの屋上での嘘吐きを聞いていたかわかってんのか!?
お前が“あんなキチガイ”なんて吐き捨てるように呼んでたお前の親父とだって、こうして仲直り出来たんだぞ!?
みっちゃんや宮沢妹とだって友達になれたんだぞ!
誰からも好かれる、完璧な女の子として学校中の憧れになれたんだぞ!
お前に───パパンや鷹司先生の話に聞くワガママなガキのお前に、それが出来たか!?
親父を、友達の保護者を動かしてあの3年連中を追い払うことが出来たか!?
親父に───パパンに“自慢の娘だ”、って褒められるほどの成果を挙げられたか!?
いまさら遅ぇんだよ。
この体は俺のモンだ!
俺が築き上げた、俺の考えた理想のヒロイン、“姫宮愛莉珠”だ!
誰にも───誰にも渡して堪るかよ……
誰にも……
クソッ……
なあ……
俺、やっぱいけないことしてるんだよな……
俺、一人の人生めちゃくちゃにしてるんだよな……
俺、やっぱここにいちゃいけないん───
「───愛莉珠」
───え……?
「愛莉珠。落ち着きなさい」
「───ぁ……」
愛莉珠の親父が俺の頭を優しく撫でた。
俺の大好きな、暖かい手だ。
ぼんやりとしながら、滲んでいる視界の中で、優しく微笑んでいる愛莉珠の親父の顔を見つけた。
…………ぁ
「大丈夫。ここの長井先生はとても優しい優秀な方だ。なんせ私の酒癖を改善してくれているのだからな」
ニッ、と目の前の男が茶目っ気たっぷりに笑った。初めて見る彼の表情だ。
思わず、見惚れてしまうほど様になっている。
「ぁ…………」
「大丈夫。言っただろう?“お前はとても良くやっている”、と。ならそのお前を悩ませる問題を解決するのは私の役目だ」
愛莉珠の……親父さん……
「……お、とう……さ……」
「私も付いている。私たち大人を信じなさい、愛莉珠」
……………
……ったく、一々カッケーんだよ。パパンは……
───
勇気を貰った俺は震える足を叱咤して、なんとか診察室へとゆっくりと歩み始めた。