11話 パパンと朝食を
まどろみの中で序々に意識が浮上する。暖かくて心地のいい熱が体を包み込んでいる。心がふわふわしていて、まるで何かとてもいい夢を見ていたような気分だ。
優しい、乾したての布団のような匂いが鼻腔をくすぐる。確か最後に寝具を乾したのは4日前ぐらいだったはずだ。どういうことなのだろう。
俺は体を包み込む大きな熱を抱きしめた。暖かくて、心地よい良い匂いのする大きな枕だ。
すると不意に大きな手のひらで頭を撫でられた。誰だろう?とても落ち着く、不思議な感覚。慈しむような手つきで俺の髪の毛を何度か梳いて、そのまま何も感じなくなった。気持ちよかったのにもう止められてしまったのだろうか。
続きを催促しようとその枕に埋めていた顔を持ち上げ、目を開いた。
「……おはよう愛莉珠。まだ4時半だ、お前はまだ寝ていなさい」
は?
「────ッッ!?!?」
咄嗟に飛び起きてベッドから転げ落ちる。いままでぼーっとしていた意識が一瞬で覚めた。
なっ、なっ、何故俺のベッドに男がいる!?いつだ!?いつ潜り込んだ!?かっ、体は!? 愛莉珠ちゃん12歳のボディは無事なのか────って、あれ?
この男、愛莉珠パパンじゃね!?何で俺のベッドに居るんだ!?
俺は慌てて周りを見渡す。いつもの馴染んだフレンチカントリー風の家具が無くなっている。変わりにあるのはベッドサイドチェストからクローゼットまで、全て黒いシックなエボニー材で統一された重厚な家具だ。正直俺はこっちの方が渋くて好みだ。
つかこの部屋、パパンの寝室じゃねぇか!俺パパンのベッドでおねんねしてたのかよ!WHY!何故!
そんな風にうろたえている俺に彼が優しく話しかけてきた。
「もう起きるのか?愛莉珠は随分早起きになったんだな。驚いたぞ」
あっ、この人。大人だ……
俺は先ほどの思いっきり狼狽した姿をスルーしてくれた優しいパパンの生暖かい視線を避けるように、朝の挨拶を交わす。緊張して声が擦れないようにゆっくり声を出した。
「……おはようございます、お父さん。よい朝ですね」
「うん?ああ、そうだな。久々によく眠れた気がする」
そう言いながらベッドから降りる愛莉珠パパン。昨日日本舞踊をちょびっとだけかじったおかげか、パパンのすっくと立ち上がる姿勢の良さが一瞬でわかった。くいっと額に垂れた前髪を持ち上げる手の仕草が、中身男の俺でもドキッとするほどカッコいい。
何だこの理想の男性像は!こんなん見せられて落ちない女なんて居ないだろ!もうちょっと目の前の純粋な娘の目を気にしろよ!俺がドキドキしてどうするんだよ!
「どうした愛莉珠。そんなに私をじっと見て」
「ふぇっ、あっ、えっと……」
おい俺!何でもいい!何か言え!このままじゃ父親に見惚れてしまった哀れな娘になってしまうぞ!将来“お父さんと洗濯物一緒にしないで”の通過儀礼を行えなくなってしまうぞ!それでいいのか、娘よ!
「その……ッそ、そう!お、お筝教室で師範に日本舞踊の所作を少しだけご教授いただいたのですが、お父さんの仕草がとても参考になりそうでしたので。つい……。……ご不快だったでしょうか?」
緊張からか、パジャマの上の裾をきゅっと握り締めて肩をちぢこませ、体を小さくしながら返事を返す。
……ん?なんか今日は随分と女の子女の子した仕草が自然に出るな。特に意識してる訳じゃねぇのに。
そんな俺の姿を目を少し見開きながら振り向きざまに見つめていたパパンが、ふっと微笑んだ。
っだからそれ!女が一瞬で落ちるからぁ!
「朝の愛莉珠は姿勢も言葉遣いも中々に瀟洒なのだな。昨夜のお前は甘えたがりの愛らしい子供そのものだったが……桜台ではそのように振舞っているのか?実に上品で父の私も鼻が高い」
ズッキュゥゥゥゥゥウン!
な、何なんだこのイケメン……!実の娘に向かって“お前のおかげで鼻が高い”だとぉぉん!?んなこと言う親父がこの世にマジで実在したのか!?
くっ……この人を前にしてるといかに俺のイケメンレベルが低かったかがわかってしまう。確かに、こんなのを目にしていた愛莉珠が俺を見捨てて他の男に唾をつけに行ってしまうのも理解出来る。身近な男性がコレなんて、この世のほとんどの男に魅力を感じなくなってもおかしくない。
完敗だぜ、お義父さん…………
……ん?今何か妙なこと言わなかったか、この人……?
「そうか、愛莉珠も中学生になったか……。女性が自分の気品を気にし始めるころではあるな。だとすると……」
そう言いながら何かを思案するパパン。その顎に手を置いて考える仕草もステキ過ぎんだろ……。も、もうちょっとお姿拝見させて貰っても、い、いいっすか?俺の紫藤広樹ボディでの応用のためのイケメン仕草もこの際見に着けたいです、お義父さん!
なんてことを考えているとパパンが俺の体をさっと気にならない程度に一度見流した。自然すぎて自分の体を見られたことすらほとんど気がつかなかった。何だこのエリートスキルは!?欲しい、身に着けたい。俺の本体で。
「ふむ、愛莉珠。お前がその気になったのなら私の方でお前の作法教育を任せる家庭教師を招いても良いが、不満はあるか?」
えっ、ごめんパパン。聞いてなかった。
何だっけ?作法教室?
「作法……教育、ですか?」
「ああ、只の通称だよ。女性向けの作法を教える家庭教師は専門団体以外でも個人で活動されている方も少なくないからな。お前の叔母も世話になった、母子二代に亘り当家の女たちに礼儀作法を教えてくださった方が近くで教室を開いておられる。今は引退されたそうだが、誰か後を次いだ親族がおられるだろう」
えっ、愛莉珠って叔母が居たの?
つか何、この流れ……
作法教室?親族?
「私の叔母様が……」
「ああ、お前がうんと幼いころに一度会ったことがあるはずだが。覚えてはいないだろうな」
「……はい、申し訳ございません」
あ、ごめんパパン。そもそも中身、入れ替わってるから……
それより作法教育?家庭教師?
おい……それって、いや、まさか────
「アレが結婚してからは随分私とも疎遠になってしまったからな。それはともかく、お前が望むのなら作法の先生に話を通しておくが、どうする?」
「えっと……」
作法、作法ですと?女性向けの作法ですとぉぉぉ!?
おい何だそれは!そんなものがあるなら早く言えパパン!それっぽいの学ぶためにお筝教室の山本お婆ちゃん師範にわざわざ厚意で日本舞踊を習ってるんだぞ!今更“なんか親父がマナー教師連れてくるらしいからやっぱいいっす”なんて言えねぇだろ!
い、いや。落ち着け。
作法を学べるなら当然、それに越したことはない。話を聞いてるだけでヒシヒシと感じるこのハイソ感。これはかつて無いほどの期待感だ。
この“作法教育”ってのは間違いなく、少女マンガとかで出てくる令嬢たちの“ごきげんよう”とか“よろしくてよ”とかのお嬢様言葉や振る舞いを覚える教育だ!清楚系ヒロインならぜひとも手に入れたいあの上品な礼儀作法・仕草・所作!まさか現実に実在していたとは、嬉しい誤算だ。これで“それっぽい”じゃなくてマジもんの“清楚なお嬢様”になれるはずだ!
……ヤバイ朝からテンション上がってきた!
「……ええ、お父さんが許してくださるならぜひともお受けしたいです。ですが家庭教師とおっしゃられても……どのような形になるのでしょうか?学業やお筝は、それに家事などはどうなるのでしょうか……?」
「うん?ああ、何か勘違いをしているようだ。住み込みの家庭教師はもう随分と数が少なくなっているし、そういった方々は代々その家に仕えているような特別な家系だ。お前の場合は週に何度か先生を家にお招きしてご教授いただくことになるだろう。通常の家庭教師だと考えてくれて構わん」
い、意外と簡単に学べるものなんだな……。こう、教えを請うのに“一見様お断り”じゃないけど、何かそれっぽいのがありそうな世界だけど。
でもパパンが大丈夫って言ってるのなら、お、お願いしちゃおうかな……
「左様でしたか……では、お父さん。この話、お願いしてもよろしいでしょうか?……あ、も、もちろん、お忙しいようでしたら無理にお時間を割いてくださらなくても────」
「愛莉珠」
「ッは、はい!」
び、びっくりした。何今の!ふわって染み渡るような深くて低い声……!お腹がキュン…ってなったぞ今!!
俺、父親のイケボで妊娠しちゃうかもしれない……。どうしよう……
で、でもこんなナイスバスボイスで“愛莉珠”って……な、何を言われるんだろう……
ドキドキしゅる……
「愛莉珠、今日のお前はとてもよくやっている。お前が将来、どの道に進もうとも、礼節を知る者はどの世界でも正しく評価される。私はそれを理解しているお前を後押ししてやりたい。私が言い始めた話だ。愛莉珠は何も心配しなくて良い」
パパン……。
この前酒の入った赤い顔でお水の人を深夜3時に娘の居る家に連れ込んだクソ親父と同一人物とはとても思えないんですけど……
パパンに一体何があったのか。あなたの忙しさより、愛莉珠はそっちの方が、ワタシ、気になります!
「尤も……私を心配してくれるお前の優しさは嬉しい」
「えっ……」
パ、パパン……?
「ありがとう、愛莉珠」
あっ、お、お父さんまだ若いんだし、お家に女連れ込んでも、その、ワイルドでカッコいいよね!
うん、もう全部許した。
愛してるよ、慶一パパン!
たまにはウチに帰ってきてね!
愛莉珠、待ってりゅ!
***
その後、制服に着替えると汚れるため、パジャマのままでパパンと二人で昨日焼き上げた(らしい)クッキーをみっちゃん購入のラッピングに包む。パパンの手先がとても器用で女子力MAXを目指したい俺としてはヘンな対抗意識を燃やしてしまう。おかげでまるで市販の高級製菓店のクッキーみたいなラッピングが、もしものために多めに見積もった50袋全て完成した。
実は昨日の記憶が酷く曖昧で、正直パパンが“クッキーを焼くのを手伝って楽しかった”なんて言って来た時はびっくりして思わず顔をガン見して、逆に彼に怪訝な表情をされてしまった。
嘘だろ昨日の俺、このダンディーイケメンに“クッキー焼いて”なんて頼んだのか?
あの添い寝もそうだけど、怖いもの知らず過ぎんだろ……。何考えてたんだ一体。
女の真似し過ぎてついに狂ったか、俺……
「中々それらしいんじゃないか?味も申し分ないし、この完成度なら職場で出されても黙っていればヘンに気を使う必要もないだろうな」
完成してズラッとならんだクッキー袋を眺めていたパパンが意味深にそう呟いた。
パパン……。女性の部下とかに貰ってるんですね、受け取りづらい手作りお菓子を……。
ん……?あっ!
「……お父さん、その。消費期限が近かった贈り物の和菓子をお友達におすそ分けしたのですが……」
「うん?ああ、アレ等は退社する直前に飛び込み営業で会う他社の連中から押し付けられたモノだからな。好きに処分してくれて構わない」
しょ、処分っすか……
「どの道他の贈り物も全部部下に下げ渡している。愛莉珠が好きなモノを貰ったら持ち帰るとしよう」
「い、いえ。特にコレが好きだと言うものはありませんが……」
ぶっちゃけ何でも美味いからな、あの手の贈り物って。みっちゃんみたいにあればあるだけ食ってしまうのでなるべく視界に入れないようにしているだけなんだよ。
未だにこの家には借り暮らししてるような、お客として住んでるような、そんな感覚が抜け切らないからなぁ。人様ん家のモノを許可されたから好き勝手貪るなんて本物の中1女子のみっちゃんぐらいしかしないだろ、普通。
まあ貰い主のパパンにも許可を貰ったのだ。新しく何かゲットしたらそのままアイツにお土産として渡そう。みっちゃんのご機嫌取りはこの世界での俺の身の安全にも密接に関わってくるからな。
中1の夏のキレみっちゃんの覚醒だけは何としてでも防がないと……
***
その後、パパンと仲良く朝食を作って食べ、腕前にお褒めの言葉を貰って浮かれた俺はそのままドヤ顔で2日前に習い始めたお筝の“さくらさくら”を演奏した。そして普通に愛莉珠の叔母さんやらお婆ちゃんの演奏を知ってるパパンにガンバレと励まされて赤っ恥をかいたのだ。
まあ“2日でこれは凄い”とは苦笑いで褒めてくれたけどね!パパン、大人だぜ。
ちなみに朝食はパパンが好きなスクランブルエッグだ。冷凍の、何かローマ字で厳ついドイツ語の名前が書いてあった高そうな輸入ソーセージと一緒に焼いた。卵をかき混ぜる時に中1女子の貧弱な筋力でフンフン言いながらかき混ぜる俺の腕をさっと後ろから優しく支えてくれたパパンに心臓がバクバクいったり、俺の学校やらお筝教室やらの話をニコニコ心底嬉しそうに聞いてくれるパパンにまた心臓がバルンバルン跳ねまくったり、それはステキな父娘の朝食だったとさ。
付き合いたての初心な乙女か、俺は!
ただ……駅まで会社の車と思しき黒塗りのTOY○TAセンチュリーに乗せられて、降ろして貰ったときにふとかけられたパパンの言葉に、俺は固まってしまった……
「愛莉珠、急ですまないが近いうちに私と一緒に精神科について来てくれないか?少しお前のことで気になることがある」