09話 クッキーとお父さん
お筝の師範のお婆ちゃんは受付の山本お姉さんのご母堂で、将来のお姉さんの姿を想像させてしまう人だった。瓜二つの母娘で照れる時に顎の右部分をかくクセまでそっくりだ。さぞかし仲のいい二人なのだろう。少し羨ましいと思ってしまうのはこの愛莉珠の幼い体のせいだろうか。
山本お婆ちゃん師範は人間国宝の人から教えを受けていたこともあるほどの人らしい。お筝よりお婆ちゃんの美しすぎる正座や仕草ばかり見ていて少し注意されてしまった。ごめんちゃい。
ちなみにあの後、日本舞踊で上品な仕草を習いたいと相談してみたら稽古を受けさせてもらえることになった。お筝のついでに山本お婆ちゃん師範が基本動作を毎日少しずつ教えてくれるそうだ。流石に申し訳ないのでお金を払うと申し出たら、いつかちゃんと日本舞踊そのものに興味が出た時に正規の稽古を受けてくれって言ってくれた。何だただの天使か。
あ、お婆ちゃんは普通にニコニコしてる優しい人だったぜ。“師範”って聞くとすげぇ怖そうなのにな。山本お姉さんは“ライト層相手だから優しいだけ”って不機嫌そうにお婆ちゃんを睨んでたし、ガチに教えると熱が入る人なのだろう。
ちょっと見てみてぇな。
***
お筝のお稽古が終った俺は、マンションで待つみっちゃんとクッキーを作るために急いで帰宅した。するとそこには残りの伊○赤福やらびわゼリーやらを頬張る女子中学生が!
「ただいま戻りました……お気に召してくださったみたいですね、みっちゃん」
「あっ、あっ、こ、これは、そのっ」
いや、別に食べていいって許可出したし日持ちしない生菓子だから好きに在庫減らしてくれていいんだけどね?何か面白かったから指摘しただけで。だから存分に食べてそのガリガリな体に肉をつけよう。特にそのまな板な胸と尻回りに。
無理か、無理だな。
「ううっ……おかえりなしゃい、ありふしゃん……」
「はい、ただいまです。でも挨拶は食べ終えてからにしましょうね」
「……ゴクン。何かアリスちゃんがお母さんみたいだよぉ……」
ふふふ、お筝教室で清楚系ヒロイン力を充電したからな。今の俺はザ・大和撫子だ。みっちゃんには永遠に縁のない種族さ!
「それで、材料は揃えられました?一人で行かせてしまい申し訳なかったのですが」
「うん!近くに成城○井があって発酵ポンドバター買ってきたから大丈夫!でも凄いね、この発酵バターとか全粒粉?何か初めて聞く小麦粉だけど。これ入れると美味しくなるの?」
「ああ、それはクラシカルなショートブレッドによく使うわ。ほら、中学生って少し背伸びして大人びた物に興味が出るお年頃でしょう?普通の小麦粉を使ったプレーンな物より少し材料に工夫を凝らしてみた方が受けがいいと思って」
「背伸びって……少しどころか成層圏突入レベルで背伸びしてるアリスちゃんにみんな言われたくないと思うよ……」
お、俺のは背伸びじゃねぇし!
努力だし!
まあそんなみっちゃんの突っ込みはシカトし、さっさとクッキーを作ろう。
今回作るのはアイスボックスクッキーというヤツで、生地を成形するために一度凍らせることからその名が付いている。丸や四角のクッキーは型抜きするより一度円柱や立方体にまとめ、それをスライスしたほうが生地のムダがない。アイスボックスは日持ちし作業効率もよく、思い立ったらすぐ生地を焼ける非常に便利なクッキーだ。
材料は小麦粉・バター・砂糖が3・2・1で、サクサク感を増したいなら小麦粉の1割ほどをコーンスターチにしたり、ホロホロ感を出したいなら半分ぐらいを全粒粉にする。ついでに材料の1/3がバターなので、香りがいい発酵バターを使うと色々と滾る。今回は見た目を良くする為にラムレーズンを入れるので、若干香りが被る発酵バターは勿体無かったかもしれない。
まあ基本の材料はだいたいあの赤と緑のチェック柄の箱が印象的なW○lkersのショートブレッドと同じだな。
ちなみにコーンスターチはオーブンで生地を焼いた時にでろっと崩れるのを防いでくれたりするので見た目にこだわりたい人は是非入れてみよう。もちろん生地は凍らせたまま焼くんだゾ!
「バターは常温で柔らかくしたけど、これでいい?」
「ええ、完璧です。これをクリーム状になるまで混ぜて、砂糖を少しずつ加えながら空気を含んで白っぽくなるまでミキサーで混ぜて……」
「ラムレーズンはそのままで売ってたからそっち買ってきちゃった。楽だしいいよね?」
「ならすぐ使えるわ。粉を砂糖と同じように少しずつ……。レーズンは入れる物とそうでない物で分けましょう」
「おおっ、ならこっちのプレーンのはそのまま焼くの?」
「いいえ、少し工夫をしようと思ってるわ」
そう、どうせなら見た目が良い方が良いに決まってる。使うのはキッチンの食器棚にデンと置いてあったホットココアの粉だ。コイツで焦げ茶色の生地を作って、プレーンのやつと交互に重ねて縦に切断して、更に柄を交互にひっくり返してまた重ね、最後に薄いプレーンの生地で包み込むと……
「っうわぁ!可愛い!チェック柄のクッキーだ!」
「ホットココアを使うとココアパウダーより苦味が少なくて食べやすくなるわ。色もあまり違いはないし、おすすめですよ」
「すっごーい!これウチでも作ってみていい?わぁ……可愛い、ステキ……」
別にちょっと工夫しただけなのに、単純なヤツだ。
しかしコイツがこんなにはしゃぐならクラスでも良い反応を期待できそうだな。レーズンやプレーンだけじゃ寂しいから一品凝ったのを入れると華やかになりそうだし。中学生には十分だろ。
でもちょっぴり嬉しかったりする俺も十分ガキだな、ふっ。
それから生地を凍らせるまでの間、俺とみっちゃんで教科書の予習をしたり、ピアノを弾いたり、みっちゃんの胃袋に贈り物の在庫処分をお願いしたり、ただひたすらだらだらしていた。みっちゃんは午前中のクラス分け試験の数学……というか算数が散々だったらしく、70点も取れていれば良い方なんて悲しんでいた。高校で70点といえば十分高得点だが中学では出来るヤツは平気でオール100点取ったりするからな。俺もそのウチの一人になりたいぜ。
「数学きらぁぃ……」
「数学が得意だと大学受験で選択できる学科が増えますよ?まだ中学1年生なのですから頑張れば得意になれると思います、みっちゃんなら」
「あ、アリスちゃん……。……うん、そうだね、そうだよね!アリスちゃんの友達なんだから!数学如きで躓いてちゃダメだよね!」
何故に急にやる気を出した?愛莉珠の友達だと勉強出来ないといけないとか……まさかそんなルールが出来てるのか?ウチのクラス。
ドンだけ俺のこと神聖視してるんだよ!行き過ぎだって!このままじゃクラス委員とかに選挙されてしまう。冗談じゃない。俺は忙しいのだ。お筝に新たに習う日本舞踊にピアノに勉強に、あと家の掃除や水事洗濯、美容に運動とやることは山ほどある。
それより何かみっちゃんが暴走し始めたんだけど。
「えっ、い、いえ。別に私の友達だから勉強が得意でなくてはいけないなんてことは───」
「ううん!ダメっ、わたしを甘やかさないでアリスちゃん!」
「い、いえ、お好きにどうぞとしか……」
「アリスちゃんのスパルタに耐えて見せるから!見捨てないで!」
「あ、あの、私は一人で勉強をする方が捗るので……」
「大丈夫!人に教えた方が身に付くって言うし!わたしを実験にして!」
いや算数って問題が難しいってよりは計算がめんどくさいってヤツの方が多いから、教えるってよりはただひたすら解いて慣れる方がいいんだけど……
あと俺、勉強の合間にお筝練習してっからド下手な演奏みっちゃんに聞かれるのはとても困る……
「で、では学校の昼休みなどで算数や数学の復習をいたしましょう。ちりも積もれば山となりますし、すぐに上達するでしょう」
「ホント!?わーい、アリス先生だ!」
「えっ、ちょ、そ、その呼び名はお止めいただけると───」
「何で?可愛いよ、アリス先生!」
「えぇ……」
***
ほっとくとヤツがいつまでも冷蔵庫の生菓子を貪ってそうだったので、成城○井のレジ袋に入っていたバターの保冷剤と一緒に適当に残りの物をつかんで袋に詰めてみっちゃんに持たせて帰らせた。人様から貰った贈り物を他人にスライドさせるのはアレかも知れんけど、ウチのババァがよく生徒たちがくれる生モノを食い切れないときに近所のおばちゃんたちに“お土産です”とか適当に嘘ついて処分してたし、多分許されるだろう。
俺は悪くねぇ!いつまでも家に帰らないで娘一人に全部食わせようとするパパンが悪いんだ!
あと、おばさん。あなたの娘が今日の晩メシ食えなくなっても俺のせいじゃないから。俺はただニコニコみっちゃんの見事な食いっぷりを見てただけだから。
イケメン無罪!
あ、今は美少女か。清楚でお上品なメインヒロインですわ!可愛いは正義!お筝とか弾いちゃう!ポロン(びよょょょょおぉぉぉん)……ポロロン(びよょょょょおぉぉぉん)……
二日目とはいえ、俺の熱意はまだまだ冷めない。今日教わった“爪”系のお筝スキルを昨日の“色”系や“押し”系のスキルと合わせて練習する。爪スキルはあの“ボロロン”って連続してるような音を出すヤツだ。かき爪、割り爪、合わせ爪、掬い爪の4つを今日習った。
しばらく練習していると序々に音がずれて来た。お筝の本体に付いてる各糸をピンッと持ち上げてるあの“人”文字みたいな物体である柱の立て方や、調弦はまだ上手く出来ないので動画の見様見真似で調整する。練習用のお筝には印が付いてるので中々に便利だ。
集中力が切れ始めたときを見計らい、自室のダンボールに詰まってた小学生算数の問題集を解いて見た。もう10分で飽きた。こんなの一日中やってた中学受験期間ってマジで頭おかしかったんだな。みっちゃんとか円形脱毛症なんて発症してたし。ハゲハゲからかって遊んでたなぁ俺、そう言えば。
俺は何か、親がウザかったのとみっちゃんに負けるのがイヤで勉強してたからな。そもそもの目的意識が天と地ぐらい差があったんだよ。人間やっぱ天より地に足ついてたほうがいいわ、うん。
何か良いこと言った気がする。
気がするだけ。
時刻を見るともう8時だ。風呂に入った後、軽く体を乾かし巨大な着替え場でがっつりストレッチをする。んでまた風呂場に戻って軽く汗をシャワーで流す。完璧だ。
パパンが買ってくれたのか、貰ったのかは知らんが、着替え場に置いてあった全身に塗るタイプの美容オイルで合法なイエスロリータ、イエスタッチを行う。浸透してきたのかポカポカして気持ちいいが、今寝てしまうとクッキーが焼けない。
ぼーっとしながらみっちゃんと作った凍ったクッキーを一枚一枚ペーパーを敷いた鉄板に並べて170度のオーブンに突っ込んだ。
漂ってくる良い香りに包まれてうとうとしていると、突然玄関のドアが開く音がした。
「────────ッッ!」
ま、まさか……っ!
俺は慌てて窓ガラスで自分の髪の毛やパジャマの襟元を整えて玄関へ走る。
自分でもよくわからない。
相手は数日前に初めて会った赤の他人なのだ。その後もlin○で細々とコミュニケーションをとるだけの相手。昨日なんて愛莉珠の一世一代の我侭をたった二言で片付けられた何の愛情もないクズ野郎なのに。母親と別れさせられた娘の前で、深夜3時に自宅に風俗嬢を連れ込むカス野郎なのに。何で……
何でこんなにドキドキするのだろう。
この、歓喜の感情は俺のモノなのか?
それとも私の物なの?
俺自身、こんな理解不能な非常事態に巻き込まれて、今まで無条件で与えられてきた親の愛情に惹かれるようになってしまったのか?親なんてガミガミうるさいクソババア、クソ親父でしかなかったのに?
たった1週間弱。
両親が居なくなっただけでこんなに惨めな気分になんのか?
パパが帰ってきてくれただけでこんなにも嬉しい気分になるの?
俺は……
わた────────
「ただいま、愛莉珠。凄い良い匂いがするな。久しぶりにお菓子を焼いているのか?」
あ……
「うん、おかえりなさい!パパっ!クラスのお友達のためにクッキーを焼いてるの!パパもお一つ、いかが?」