決壊する交錯
その異変に気付いたのは貿易都市エルジュの港に荷を下ろす船乗りだった。
さっきまで比較的穏やかだった波が急に荒れ始めた。天候は快晴で、嵐の予報などなかったはずなのにだ。こんな海模様になるなど心当たりはひとつしかない。ナルド・リヴァイアだ。
エルジュの街からフイナス河を挟んで南に下った先にあるミーニンガルドの街の近海に棲む荒ぶる海竜。そのせいでミーニンガルドの港は常に荒れているというが、遠く離れたエルジュにはその荒波も届かない。普段なら。それが届くということは、ナルド・リヴァイアが怒りに狂っているのだ。
いったい何があったのだろう。不安がよぎった船乗りの耳に慌てた声が飛び込んだ。荒波に煽られて船が転覆したと。徐々に強く高く激しくなる高波に耐えきれず、いくつもの船が横倒しになってしまったと。
「船をしっかり埠頭につなげ。錨を下ろして。最悪荷は見捨ててもいい。人命優先だ」
高波が埠頭を洗っていく。まだ波にさらわれた船乗りはいないようだが、しかしそれもいつまでか。
下手をすればエルジュの街に津波が襲うかもしれない。そんな危惧さえ脳裏をよぎる。
「ナルド・リヴァイアよ。どうか……」
ミーニンガルドの神殿ほど立派ではないが、エルジュにもナルド・リヴァイアを祀る祠がある。航海の無事を祈るための祭壇だ。参拝客を潮風から守る壁どころか屋根すら存在しない祠だけが小さくぽつんと高台の崖の上に建っている。避難した船乗りたちは誰に誘導されるでもなく自然とそこに集まっていた。
祈りには作法がある。蝋か油を詰めた貝殻の燭に火をつけ、祭壇に捧げる。ゆっくりじりじりと燃えている間に無事を祈る。文言を読み上げたり、じっと念じたり様々だ。そうして燭が燃え尽き、残った貝殻の上に新しい燭を載せていく。こうして積み重なった貝殻の山が潮風にさらわれて崩れ、海に落ちる。
普段なら数個の燭しかないが、今日ばかりは無数の燭が積み上げられていた。船乗りたちの分だけではない。エルジュの住民たちも祈りを添えている。
このまま海が荒れ続けては、港だけでなくエルジュの街そのものも波に流されかねない。どうか怒りを鎮めてくださいと必死な祈りを重ねていく。
「あの街にはサツヤたちがおるんだが…」
彼らの無事を祈ってユグギルは巻き貝の燭を積み上げた。
許さない。赦さない。海竜は憤怒に染まる。脆弱な人間ごときが、このナルド・リヴァイアを侵すとは。
怒りの海は海竜の制御を外れて荒れ狂う。弱々しい蜥蜴の姿に変えられたことで、海を統べる力が制御できなくなっていた。箍が外れた怒りに任せて波が渦巻く。
海竜の手にすら余る大波が巻き起こる。人間など皆殺しにしてやる。怒りを鎮めてくれと祈る人間たちの声が聞こえる。貝殻の燭を積み上げて祈りを重ねているのを感じる。だが聞き届けてはやらない。
激怒の大海嘯を呼び起こそうと海竜は吼える。それに応じるように咆哮が響いた。番の雌竜の声だ。雄竜の怒りにあてられてナルド・レヴィアも我を忘れていた。
「まずい!」
このままではミーニンガルドどころかエルジュも。否、ディーテ大陸ごと海に沈む。海竜の怒りを早く鎮めなければならない。すでにナクアブルが宥めに入っているのだろうが焼け石に水だ。
一番手っ取り早いのは怒りの理由である倒錯の呪いを解除し、それをもたらした双子を排除すること。そのためには倒錯の呪いをもたらした武具を一刻も早く破壊せねばならない。
時間がない。ナルド・レヴィアが合流すれば2匹の海竜は逆巻く大海嘯ですべてを押し流して人間に裁きを与える。
「無駄無駄。解除なんてできないよ」
「無駄無駄。解除なんてできないよ」
転移武具でいったんパンデモニウムの本拠地に帰ろう。怒りの大海嘯がおさまった頃に再びこの地を訪れ、脆弱な蜥蜴となったナルド・リヴァイアを回収すればいい。
にやりと双子が笑う。そういうことなら早々に転移武具を発動しよう。双子は詠唱を開始した。残念ながら転移武具の適性は低い。そのため確実に転移をするには長い詠唱が必要だった。それがチャンスになった。
「"ラグラス"!」
桟橋に寄せる波を凍らせ足場としてダルシーが切り込んだ。詠唱に集中していた双子は一気に踏み込んできた大剣に対応できなかった。それを捉えた大剣が双子の片方を貫いた。
アスクトネリコだったかエムブラニレだったか、判別などダルシーにはつかなかった。だが重要なのは2人でなければ満足に武具も発動できない双子の片方が欠けたということだ。欠けてしまっては武具も起動できない。転移はできない。逃げられない。
「逃がさないわよ」
六尺棒を槍の要領で突き出し、欠けた双子の胸を強く打つ。のけぞった顎を容赦なく殴りつけた。気を失った双子を踏みつける。
早くあの倒錯の呪いの武具を破壊せねば。荒れ狂う2匹の海竜のためではない。それもあるのだが、何よりも。呪いに侵された恋人を取り返すために。
そのバルセナの耳にぴったり重なる咆哮が響く。ナルド・レヴィアが合流を果たしたのだ。怒り狂う海竜が海を巻き上げる。見上げるほどに高い津波が迫る。
もう間に合わない。破壊するより先に大海嘯がすべてを押し流す。何もかも海の藻屑だ。
「神殿に! 早く!」
アルフが急かす。神殿ならば加護のおかげで大海嘯は免れる。波を凍らせ壁を作り上げ桟橋の安全を確保しながらダルシーが走る。
「バルセナ!」
「わかってる!」
双子は捨て置くしかない。最悪、明日以降の猟矢の"キャンセル"の能力を用いて呪いを解く方法に切り替えることとする。できるかはわからないが。舌打ちしてバルセナが身を翻す。それに鷹が追従する。
その後をアッシュヴィトがついていく。この状況なら嫉妬している暇はあるまい。水神を召喚して津波を押しとどめる。"インフェルノ"と指輪に魔力を込めた。
「青き水を根源にもて……」
間に合うだろうか。幸いにも水の元素は非常に足りている。すぐに召喚できるだろう。桟橋の上空に浮かぶ石門は青い紋章を浮かび上がらせて水神を招き始めている。
桟橋を走りながらアッシュヴィトは詠唱を紡ぐ。海竜よりも上位の神であればこの大海嘯も打ち消せるはずだ。
「始源の流れ蘇らん」
どうか間に合いますように。




