海に座す蒼
ざぱんと大きく波打った海に影が見える。黒い影が海面に近付くに従って波が大きくなる。
「ほらほら、出ませい出ませい」
もったいぶってないで。さっきまで対話のため顔を出していた癖に、登場を良く見せるために深く潜ったりなんかして。
茶化す領主の目の前で波がせり上がった。ように見えた。水柱が高く上がった。否。これは水柱ではない。鱗だ。海竜の胴だ。
ぼたぼたと雫を垂らす鱗をたどって顔を上げる。鱗と同色のひれがあった。それをさらに見上げ、首が痛くなった頃にようやく頭に行き当たった。海の色をした青い鱗に彩られた黄色の瞳が猟矢を見下ろしている。
半身をもたげただけでこの大きさ。いったい本体はどれくらいあるのだろう。その背中で山脈ひとつを形成していた巨大な岩竜ほどではないが、だが想像できる長さでいったらそれと同等くらいあるだろう。
「猛き荒海の海竜王。人の子を後ろにひっくり返すおつもりか」
ナルド・リヴァイアを見上げる猟矢たちがそのまま後ろにひっくり返りそうだ。見かねた領主がそっと手招きする。
長身を晒し威厳を示すのは結構だが、この目線の差では対話に支障が起きるだろう。普段領主としている時のように頭の先だけ出せばいいものを。
やんわりとした領主の言葉に従って、ナルド・リヴァイアは晒した半身を海中に沈める。目線が合う程度まで身を下ろした。
さて、ここまで来たがどうしよう。猟矢は率直にそう思った。対話をするといっても、ナルド・リヴァイアの言葉は領主にしか理解できないという。海竜の言葉を彼女に翻訳してもらわなくてはならないのだろうか。
その方法で会話が成立したとしても、それではいったい何を話せば良いのだろう。海竜はちらりと一瞥しただけで、猟矢以外は眼中にないようだった。さっきまで対話していた領主も、アッシュヴィトも見向きもしない。
ナルド・リヴァイアは猟矢がどう話を切り出すのかを待っている。誰かにこう言えと助言されたものではなく、自分自身の言葉で何を言うかを試そうとしているのだ。これでは助けを求めたところで意味はないだろう。
「あの…えぇと、はじめまして」
応、と黄色の瞳が応えた気がした。前置きはいいから早く本題に入れとも言っている気がする。
自分の身長ほどもありそうな海竜の眼球を見ながら、猟矢は慎重に言葉を紡ぐ。
「俺、猟矢っていいます。異世界から来ました」
ほう、と声を上げたのは成り行きを見ていた領主だ。只者ではないと聞いていたが、成程そういうわけかとひとり頷き納得する。
「俺がこの世界に召喚されたのは、パンデモニウムってやつらのせいです」
世界に恐怖をばらまき、破壊に興ずる万魔の悪徳。
そのせいで壊されたものがある。殺された者がいる。奪われた者がいる。
あれらがいなければビルスキールニルは滅びなかったし、アッシュヴィトが不毛な復讐に走ることはなかった。
各地の村や国だってそうだ。今この瞬間でさえ何処かで人は殺されている。
それだけではない。世界をさらなる絶望に突き落とすため、"破壊神"とやらを作り上げようとしている。そのために犠牲が積み重ねられている。
「そのためにラピス諸島の巫女が攫われました」
ろくに言葉を交わしたことはない。だが幼馴染の弓束に似ていた。
他人の空似と片付けることもできるだろう。だが猟矢には彼女を放ってはおけなかった。
「その彼女が今、ひどい目に遭わされようとしています」
すべてが壊される前にどうにか防いだとはいえ、ラピス諸島に制裁が下された。巫女への脅しのためだ。
バハムクランの介入によって壊滅は免れた。だがそれで終わるはずがない。おそらく次の襲撃があるだろう。
襲撃だけではない。巫女本人も何かしらの目に遭うはずだ。
「俺はパンデモニウムをやっつけたい。倒して、それで、取り返す。…その協力をしてください」
そう言って猟矢は頭を下げた。答えは沈黙。じっと黄色の目が猟矢を見定めている。
返答のなさに不安になる。荒波が崖を打つ音だけが聞こえる。それだけを鼓膜に受け取り、じっと雄竜の返答を待つ。ナルド・リヴァイアはどう出るのだろうか。なんと返答するのか。
じっと待っている猟矢たちの耳に、キィ、と高い鷹の鳴き声が割り込んだ。
バルセナの鷹がこうして鳴く時はひとつ。近くに"敵"が現れたことを知らせる時だ。はっとしたバルセナが頭上の鷹を見上げ、アルフがゴーグルを身につけて周囲を観測する。
「……皆、あれ!」
今猟矢たちがいる神殿の3階は屋根とそれを支える四隅の柱以外のものはない。壁など取り払われていている。おかげでよく見下ろすことができた。
桟橋に立つ2人の人影を。




