深淵の万魔
黒い球体が巫女を飲み込んだ。ばくりと大口を開けた闇は巫女を飲み込んだ後ふつりと消えた。
「いったい何が…!?」
「巫女様は…」
混乱、悲鳴。祭場に現れたふたつの人影。他者が立ち入れないよう張った結界を踏み潰し君臨するかのように立つ両者。
あれは、とアルフがテラスから身を乗り出す。ゴーグルで"観測"しなくともわかる。そこにいるのは間違いなく。
「"深淵"セシル…!?」
カーディナルよりも上の階級。パンデモニウム第2位。アークウィッチの称号を持つ深淵の魔女。闇に溶けるような黒いコートを羽織った銀髪の女王。赤い瞳が無感情に混乱する群衆を見ている。
そこに随伴しているのはカーディナルの階級者だろう。高慢という概念を人間で表したかのような男だ。手に持っている武具から察するに、巫女をさらったのは彼のようだ。
「…聞け」
闇を体現したような女王は群衆に宣言する。静かだがよく通る声だ。深淵の女王に畏怖するかのように、ぴたりと群衆の声が止まった。
「巫女ヴェイン・ラピス・サイトの身柄は我々パンデモニウムがいただいた」
「女王、続きは私が」
そして彼らは高らかに宣言する。"破壊神"を創造しそれによって世界を支配する。作り上げた"破壊神"を使役するための武具を作らせるため、ラピス島の巫女をさらう、と。
反抗する者には容赦しない。今までその特殊性から手を出してこなかったが、巫女奪還のためにパンデモニウムに弓を引くというのならラピス島は海に沈めてやる。
「以上だ」
すべてが終わった後、アッシュヴィトが叫んだ。
「取り返さなきゃ!」
パンデモニウムの本拠地は知っている。北のシャロー大陸の端だ。あの豪雪地帯に魔力で結界を張っている。
彼女はラピス島の巫女である前にアッシュヴィトの友人だ。友人が誘拐されたというのなら黙っているわけにはいかない。たとえラピス島の人間たちが戸惑って追撃を止め、単独になったとしても今すぐ奪還に向かうと息巻くアッシュヴィトに猟矢も同意する。
「俺も行く!」
今しがた会ったばかりの他人だが、彼女は幼馴染に似ている。そんな面差しの少女を放っておけるだろうか。パンデモニウムは手段を選ばない非道の集団だ。さらわれた巫女がどうなるか簡単に想像がつく。
「落ち着きなって」
まぁまぁ、とアルフが宥める。策もないまま飛び出したって返り討ちにされるだけだ。それに、猟矢とアッシュヴィトの身はバハムクランのものだ。行動はバハムクランが管轄する。勝手に飛び出してはいけない。
それに、あの宣言が真実ならばまだ時間はある。"破壊神"を創造すると言っていた。する、ということは現在形か未来形。した、ではない。まだその"破壊神"とやらは完成していない。わざわざパンデモニウム第2位が出てきて宣言するほどだ。きっとパンデモニウムの技術のすべてを尽くす。そんなもの簡単に完成しない。
仮に完成したとしてもだ。完成した"破壊神"を制御するための武具の制作は、そのスペックに合わせるため"破壊神"の完成後になる。その制作の段階でようやく巫女が必要となる。
それまではそれなりに丁重に扱われるはずだ。制御するための武具が作られる段階になるまでは何があっても生かされる。無理に酷使されて命を落とすようなことはないはずだ。
"破壊神"が完成するには数ヶ月、最悪数年かかるだろう。明日や明後日で完成するようなものではないはずだ。だからそれまでは大丈夫。こちらも情報を集め戦力を整える時間はある。巫女の奪還はそれからで遅くない。
「…それは、そうだケド…」
「心配なのはわかるさ。でも無策で飛び込んだって意味ないぜ」
パンデモニウム出現による混乱も多少収まってきたところで、そういえば、とバルセナが視線を走らせる。
混乱で忘れていたが、儀式で新生した武具の行方は何処に。潰された祭場を見やると、砕けた炉の破片に押し潰されるように埋まっている銀色を見つける。
あれの所有者は誰になるのだろうか。適合者の手元に飛んで行くのも含め秘伝だ。見やれば、秘伝の魔術はまだ解除されていないようだ。適合者の元へと飛んでいこうとし、しかし上に乗った破片が重くて動けない。かちかちと地面を掻くようにもがいているように見えた。
その祭場に踏み入ったのは四十路を過ぎたあたりの女だった。容姿からしてあの巫女の母親かそれに近い血縁者だろう。
「皆よ。この度の混乱、不安。ラピス島領主としてお詫びいたします」
緩やかに頭を下げる。領主様が謝ることでは、と何処からか声があがった。
「まだ儀式は完了しておりません。以降は私が執り行いたいと思います」
まだ終わっていない。適合者へ武具を導くまでが儀式。それを中断してしまっては古くからの約定に障る。ラピスとビルスキールニルが結んだ古の盟約を反故にしてはならない。何があっても儀式を完遂させる。
往古、ラピスはビルスキールニルより秘伝を授かり神の加護を得た。儀式を中断するならば秘伝は返上しなければならない。秘伝を返上するならば神の加護も消える。加護を失った群島は歴史に潰されて滅ぶのみ。
盟約は守らなければ。たとえ愛しい一人娘が悪徳の集団にさらわれようとも。母ではなく領主の判断で女は祭場に立つ。
「さ、新生された武具よ。適合者の元へと……」
領主はそっと瓦礫をどかす。重石から解放された武具は運命に沿って飛翔する。適合者の元へ。
武具が選んだ適合者。それは。
「…え?」
猟矢の元だった。