(3)神渡し
頭が痛い。喉がひりひりする。喉が渇いているのに身体が熱をもっていて関節が痛み動くことすらままならない。
せっかくの冬休みだというのに俺は風邪をひいて寝込んでいた。昨日からなんとなく身体がだるいとは思っていたけれど、まさか風邪なんて思ってもみなかった。冷たいものが飲みたい。そう思ってベッドの脇の机に置かれたコップに手を伸ばす。あと少しで届きそうだ。頭に響くので極力身体を動かさないようにしているので無理な体勢にはなるけれど、こればかりは仕方がない。ようやくコップを掴んだかと思えば、中身は空っぽ。水の一滴すら残っていない。そういえばさっき薬を飲んで眠る前に全部飲み干したんだった。落胆してコップを元の位置に戻そうとしたとき、ノックの音と一緒にお母さんが部屋に入ってきた。
「スポーツドリンクとみかん持ってきたんだけど食べられそう? 」
スポーツドリンク! その言葉に力強く頷いた。実際には弱々しいものだったけれど。
スポーツドリンクは水筒に氷と一緒に入っていた。これなら枕元に横にしておいておける。まずは喉を潤すと、お母さんはガラスの器に盛られた缶詰のみかんと小さなフォークを持たせてくれた。果肉をフォークでつき刺すとぷちっと果汁が弾け飛んだ。長い間漬かっていたシロップが溢れ落ちないように気をつけて口へと運ぶ。冷蔵庫にずっとしまわれていたのかひんやりと冷たくて心地いい。瑞々しい透き通ったやさしい甘さだ。荒れた舌でも感じることができる。
「みかん食べたらまた寝なさいね」
お母さんはそう言って俺の頭を撫でてから部屋を出ていった。長い間俺と同じ部屋にいたらお母さんに風邪が移ってしまう。そうなったらお母さんは仕事を休まなきゃいけない。俺が風邪になったことで困る人はいないけれどお母さんは違う。それはよくわかっていた。それなのにちょっと寂しいと思ってしまうのは、風邪をひいているから。
はやく治さないと。体がいつもよりずっしりと重く感じる。目を閉じればすぐにでも眠れそうだ。俺はその感覚に抗うことなく深い眠りに落ちていった。
一瞬、がくりと体が下へと落ちるような感覚に目を覚ました。よくあることだ。はじめて経験したときは怖かったけれど今ではこれは誰でも経験する生理現象であると知っている。もう一度眠ってしまおうかと目を瞑ったけれど目が冴えてしまって寝付けない。仕方なく起き上がることにした。何時間こうして眠っていたのだろう。昼すぎだったはずなのにいつしか窓の外は暗くなっていて、夕方がそろそろ終わるような時間になっていた。長いこと眠っていたからか感覚が鈍いけれど体はすこし軽くなったように感じる。
水筒とみかんの入ったガラスの器を手元に引き寄せた。スポーツドリンクはまだ冷たかったけれどみかんはとうにぬるくなっていた。ひとつ口に入れるとシロップのせいか喉に張り付くようなしつこい甘さに顔を顰めた。冷えているときはあんなに美味しかったのに。喉の不快感を拭うために水でも飲みに行こうかと立ち上がった。熱もひいたようで具合も悪くはない。これでお母さんに迷惑をかけなくて済むとほっとする。
部屋から出ると、リビングのほうからお母さんの声が聞こえた。誰かと電話でもしているようだけれど俺に配慮してか声がいつもよりも低くて小さい。
「——はい、ではそのときにまた」
受話器を置く音をきいてから声をかけると、お母さんははっと驚いたように振り向いた。
「……きいてたの? 」
「ううん、最後だけしかきいてない。誰から? 」
お母さんは俺のほうをみて自分の顎に手をやった。何てこたえたらいいか迷っているふうで何があったのかただ事ではない気がして体がこわばる。意を決したのかお母さんは口を開いた。
「るり子ちゃんのお母さんからさっき電話があって、すごく急なことなんだけれど、驚かないできいてね」
天野のお母さんがなぜうちに電話を? 話が見えずにお母さんの次の言葉を待つ。
「るり子ちゃん、交通事故に遭ってしまったみたいで、その……」
お母さんは言葉をつまらせた。どうしてそこで話をやめるの? 天野は大丈夫なんでしょ? それをちゃんと言わなくちゃ。
ざわざわざわざわ。胸がざわつく。喉が渇いてうまく声が出てこない。それにみかんのせいで口の中がべたついて気持ち悪い。はやく、水を飲まなくちゃ。
「天野は大丈夫だったんでしょ? どこか怪我したの? 足、それとも腕? 」
ようやく出てきた俺の声は最後の方はみっともなく震えていた。お母さんは俺の言葉に目を泳がせる。何が言いにくいことを言うときみたいにつらそうにしている。はやくききたいけれどきいちゃいけない気もした。
「車にはねられたときに体を強く打ったみたいで、そのときに……」
「天野と話はできるの? 」
お母さんの声があまりに辛そうだったから言葉を遮る。お母さんは首を横に振った。拳をぎゅっと握っていて力が強すぎて皮膚が白くなっていた。そんなに握りしめていたら痕になっちゃうよ。そんなことばかりを考えていた。
お母さんはぽろりと涙を零した。一度こぼれた涙はとめどなく流れてくる。ねえ、どうして泣くの? そんなに心配しなくても、怪我が治ったらまた話せるようになるんでしょ?
「天野とはいつ会えるの? 」
お母さんは俺の言葉にまた首を横に振った。握りしめていた拳を開いて涙を拭い、俺の肩に手を置く。
「瑠璃子ちゃんのお葬式、金曜日に決まったから、お母さんと一瞬に行こうね」
その言葉に頭が真っ白になる。新学期にまた同じクラスでいつもと同じように一緒にいられると思っていたのに。それが当たり前だと思っていたのに。治ったはずの頭痛がぶり返す。こめかみが痛くて、喉が渇いて、体がこわばって、考えが纏まらない。何か言いたくても、思ったことがこぼれて消えてしまうみたいだ。
誰か知り合いの葬式に出席するのははじめてだ。いつかは経験することなんだろうけどそれらもっと先になると思っていた。久しぶりに会った天野のお母さんは目の下に隈をつくっていてやつれているように見えた。俺には何も言えることはなくて、ただ会釈をする。
「杉山さん……拓海くんも、来てくれてありがとね」
「本当に急なことで……」
お母さんと天野のお母さんがしばらく話をしている。ふたりともハンカチで目元を押さえていた。どうして天野がいなくなったのか、どうして天野にもう会えないのか、わかっているはずなのにどうやっても理解できない。
「……天野は天使候補なのに」
思わず口に出てしまう。天野は天使候補なのに、なぜなのか。どうしてこんなことになってしまったのか。危ないことはしないと言っていたのに。ものすごく痛かっただろう。たぶん、俺が想像できないくらい。天野は痛いことが嫌いだったのに。どれだけ苦しかっただろう。天使になるはずなのに、まだ何年も人間として生きるはずだったのに、どうして。
「拓海くん、何か言った? 」
天野のお母さんが俺に話しかける。こんなことを言っていいのかわからないけれど口に出さずにはいられなかった。
「天野は天使候補なのに、どうして死んじゃったの? 」
天野のお母さんの顔が困ったように歪んだ。
「るり子は天使候補じゃないの。天使になるのは拓海くんのほうじゃない」
何を言われたのかわからなかった。——天野は、天使候補じゃない? お母さんに助けを求めるように見上げると、お母さんも戸惑っているのか何とも言えない表情をしていた。
「……拓海、るり子ちゃんも天使候補だと思ってたの? 」
「俺って天使候補なの? 」
お母さんはさらに顔を歪めて、俺の髪を撫でた。どうしてそんな顔をしているのか俺にはわからなかった。
「小さい頃にちゃんと説明したんだけど、忘れちゃったのかな。天使についていろいろ訊いてくるからとっくに理解していると思ってたけど……
拓海は天使候補で、るり子ちゃんはふつうの人間。どうしてそんな勘違いをしたのかしらね」
だって、あいつは何も否定しなかったじゃないか。天使について話しているときも、天野は何も言わなかった。俺が天野を天使候補だと思っていることはわかっていたはずだ。どうして本当のことを言わなかった? どうして勘違いを正そうとしなかった? ちゃんと否定していればあいつが孤立することもなかったかもしれないのに。他の人とは違うと思われて、敬遠される機会もなかったかもしれないのに。
そこまで考えてからはたと気がつく。——もしかして、俺のため? 俺自身が天使候補だと知らなかったくらいだから、俺の友達やクラスメートがそれを知っているわけがない。でもそいつらは天野のことを俺と同じように天使候補だと思っていたはずだ。天使候補がクラスに二人いるなんてまず考えない。俺がそうだと周囲に思わせないように周りの勝手な思い込みをわざと否定しなかったのか? 天使候補だと思われることの気持ちを一番知っているのは天野自身だ。それは俺よりも確実に。それは俺の想像よりも辛かったのだろうか。だから俺に同じ思いをさせまいとして、周りの疑いが俺にかかることを危惧して、こんなことを——
俺はあいつに何をしてやれただろう。少しでも手を差し伸べられただろうか。男だから、女だから。そんな理由をつけて俺はあいつと一緒にいてやらなかった。たまに一緒に帰ったり、話をしただけなのに。それもただ幼馴染で家が近いからっていうだけ。それでも天野はそんな些細なことを喜んでくれた。俺が彼女にしてもらったことや気遣われたことのほうがはるかに大きいのに、彼女は何も言わなかった。どうしてもっと前に、そのことに気づかなかったのか。天野ともう二度と話せなくなってから、会えなくなってからそんなことに気づくなんて、俺はあまりにも愚かだ。悔しさとやるせなさに歯を食いしばる。
——いや、天野に会う方法はまだある。
天野の葬式で、同じ学校からの参列者で泣いているのは俺だけだった。あいつはあんなに優しかったのに、好かれなきゃいけなかったのに、深く付き合っていた人の少なさを感じる。その責任が俺にもあることが悲しくて辛くて苦しかった。そんなことで涙が出るなんて我ながら情けなかったけれど止めることはできなかった。
帰りの電車のなかで、俺はお母さんに考えていたことを告白した。
「俺のつばさ、手術でとりたい」
お母さんは驚いたように俺を見た。天野の葬式の帰りにこんなことを言っていいのか迷ったけれど、こういうことはつばさがまだ小さいうちにやってしまったほうがリスクも減るとお母さんにきいたことがある。
「それがどういうことか、あんたちゃんとわかってるの? 」
「わかってる。書かなきゃいけない書類も多いしお金もかかるし、寿命も短くなる。でも俺は二十歳で天使になることよりも、人間として少しでも長く生きることを選びたい」
決意は固かった。そうすることが最善なのかはわからないけれど、俺は何よりもそうしたかった。
「あんたのつばさ、るり子ちゃんにあげるつもりでしょ」
黙って強く頷いた。天使候補からつばさを人工的に取り出すと、なぜかつばさは数時間で消滅してしまう。そしてその天使候補の近親者や親しい人の子供が天使候補になるということが少なくないらしい。一度空へかえったつばさはそのもとの持ち主が望んだ人のところにやってくるのではないか、そんな説が唱えられていた。だから俺は、つばさを天野の来世に贈りたい。贖罪でもなんでもなく、ただ天野に言いたいことがある。伝えたい気持ちがあるんだ。
「お金は働いてちゃんと返す。食べ物に気をつかって運動もして絶対長生きする。そうなるように努力する。だからつばさをとりたい」
俺とお母さんは家に帰ってからも何度も話をした。お母さんの気持ちも痛いほどわかった。自然につばさがなくなって二十歳よりも前に死んでしまうことも、つばさをとっても術後の経過がよくなくて二十歳よりも前に死ぬことも可能性としてはある。でもいずれそうなるのなら、つばさを天野に渡したかった。そのつばさがきちんと天野の来世に届くかはわからないし、ただの伝説だとしても試してみる価値はあると思った。
長い話し合いや専門家のカウンセリングを経て、ようやくお母さんが折れた。
「わかった。拓海がそんなに望むならお母さんはそれを止めない。
るり子ちゃんは拓海にそんなふうに思われて幸せね」
幸せなんかじゃない、と言うのを思いとどまる。話しても話しても話したりないし、言い尽くせやしないからだ。
天野につばさをあげることで、彼女はきっと天使になるだろう。天野の来世がいつどの時代に生まれてくるかはわからない。でももし俺が生きているあいだに生まれてきてくれたならどんなことをしてでも探し出したい。もし彼女が二十歳になる前に見つけられなくとも、天使になれば前世の記憶もきっと戻るだろう。俺が死ぬときには彼女に看取られたい。俺の来世は彼女に見守られたい。彼女のいう〝生きている間の繋がりとか、天国での関係よりもっと深くて神聖なもの〟に俺はなりたい。天野が生きているあいだに俺にはそれができなかったから。天野に馬鹿にされるかもしれないし、拒否されるかもしれないけれど、彼女のあの笑顔を信じたい。
天野に会うために俺は空につばさを贈る。




