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空に贈るつばさ  作者: 榎本 みどり
2/3

(2)秋旻




 夏休みが終わって秋らしく涼しくなるまでの間に、うちの小学校には運動会がある。学年ごとのリレーだったり、障害物走だったり競技はさまざまだ。

 どこまでも続く雲ひとつない秋空の下、お揃いの紅白の帽子をかぶって何百人という児童が校庭に整列している。その様子は壮観だ。十月とはいえじりじり日差しが照りつけ、じっとしているだけでも額に汗がにじむ。それでも時折吹き抜ける風とトラックを横切る赤とんぼに秋を感じた。応援席がひとつになって自分の組を応援し張り上げる声。だんだんひりついてくる喉の感覚は不思議と気分がいい。


「男子二百メートル走に出場する児童は集合してください」


アナウンスの声に椅子から立ち上がった。午前の部終盤のこの競技に俺は出場することになっていた。花形競技のリレーには劣るけれども大事な高配点の種目だから緊張する。ふう、と息を吐いた。



 トラック一周をぐるっと走ってゴールテープを切るだけ。簡単じゃないか。いくらそう自分に言い聞かせても心臓はばくばくいっているし汗ばんだ背中とは裏腹に手は冷たくなっている。早く終わって欲しいとも思うし、このままずっと自分の順番が来てほしくないとも思う。五年生の走る順番が来るまでのほんの数分が途轍もなく長く、まるで永遠に続くような気がした。

 練習で習ったばかりのクラウチングスタート。手のひらと膝に食い込む砂は痛いくらいだ。


「位置について、用意」


審判の先生が耳を押さえ、高々と銃を空に向けた。しん、と場が静まり返る。そう思ったのもつかの間、破裂音がしてとっさに最初の一歩を踏み出した。

 砂埃が視界を悪くさせる。風だけのせいではなく俺が踏みしめ、蹴りだした足元からも舞っているのだろう。前方を走っている隣のクラスの男子の足の動きに合わせて砂埃が立ち上がっていた。腕を思いきり振り、足をこれ以上ないくらいに動かして歯を食いしばる。

 あのカーブで、追い越すんだ。

 ようやく並んだ。追い越せる。隣を横目で見ながら走る。走る。走る。まるで足が自分のものじゃないみたいだ。

 ——もつれる、そう思ったときにはもう遅かった。

 気づいたときにはがくっと視界は揺らぎ、足はずっしりと重くなっていた。鈍い痛みと、全身に突き刺さる尖った砂の感触。

 転んだことに気づいたのはそのときだった。急いで立ち上がって走り出すも、結果はとてもいいとは言えなかった。ぎゅっと拳に力を入れる。悔しい、痛い、悔しい。目の奥がつんとしたのはたぶん、砂が目に入ったからだ。





「拓海くん、怪我したんだ」


養護の先生に連れられて保健室に入るとそこには天野がいた。ベッドに横になり、枕の傍らにはしおりが挟まれた文庫本が置かれていた。


「天野はサボりかよ」


つい口調がきつくなる。しまった、と思っても口から出てしまったものはもうどうしようもない。自分が失敗したからって天野には関係ないのに。自分の子供っぽさに嫌気がさす。


「そうだよ、サボり。開会式の途中にくらっとしちゃって。

戻ろうと思えば戻れるけどここ涼しいから」

「くらっとって、大丈夫なの? 」

「大丈夫。言ったでしょ、サボりだって」


俺が先生から怪我の手当てを受けているあいだ、天野はその様子をじっと見ていた。あまりにも真剣なものだからなんとなくこそばゆい。

水で砂を落として、薬を塗ってガーゼで覆い、それをテープでとめる。ガーゼが触れるたびに傷口が痛んだ。


「天使候補って怪我しても死ぬことはないんだろう? なんかそれってずるいよな」


じわじわ広がる痛みを紛らわせるために天野に話しかけた。


「そうだね、でも怪我しないってわけじゃないんだから死ねない分すごい痛いかもしれないよ」


天使候補ってつばさが無くならないかぎり死なないんでしょ、と天野が続ける。たしかにそういうことがあるみたいだ。天使候補自体、医者に検査してもらわないと確認できないから認知数は少ないせいでまだ正式には認められていないみたいだけれど。


「それでも生きてられるんだったら何も怖くないよね。どんな無茶しても大丈夫なんだから」

「そんな危ないことをして神様が天使の資格がないってつばさをとっちゃって死んじゃうかもしれない。他の人を巻き込んでしまうこともあり得るし」

「天野はかたいなあ。せっかく無敵なのに、もったいない」

「痛いことは嫌いなの。拓海くんも危険な真似はしないでね、わたしが心配だから」


その言葉がこそばゆくて照れてしまう。天野はそんな素振りは見せていないから変に意識してしまっている自分が恥ずかしい。


「俺はふつうだから死ぬのは怖いしそんなことしないけどさ」


死ぬかもしれないということを無事でいられるという保証もないのにやるわけがない。そこまで無鉄砲じゃないからね。


「天使候補になることをやめて、ふつうの人間になる方法ってないのかな。友達とか家族が死んで天国に行っても自分は他の知らない誰かを見守らないといけないのって寂しそう」


天野は天使候補をやめたいのだろうか。彼女の否定的な言葉に驚いた。天使候補は自分がそうであることを誇りに思っていると思っていたから。


「病院で天使のつばさを人工的に取り出す手術があるみたいだよ。やってくれる病院は少ないしリスクもあるけどできないことはない」

「リスクって? 」

「もともと体の中にあるものだからそれを取ってしまうと寿命を縮めることになるらしいね。天使候補ってもとは二十歳までしか生きられないからそれに比べたら長く生きられるけど、人間の平均寿命よりは短い」


ふうん、と天野が相槌をうつ。


「それにせっかく選ばれた人間なんだからつばさを取るなんてもったいないよ」

「そうね。自分の好きな人や大切な人を看取ったり、その人たちの来世を見守ることもできるわけでしょ。それって生きている間の繋がりとか、天国での関係よりもっと深くて神聖なものかもしれない」

「じゃあ俺が死ぬときは天野が天の国まで案内してね」


俺の言葉に天野は何かを言いかけようとしたみたいだけれど先生の手当てが終わったので口を閉じてしまった。


「膝の大きな傷は手当てしたからあとの小さい擦り傷は自分でやってね」


養護の先生が何枚か絆創膏を用意してくれていた。校庭に戻らなくてはいけないようで、先生はすぐに出て行ってしまった。

じんじんする肘の傷に絆創膏を当てようと身体をよじる。


「……やってあげようか」


天野がベッドから降りて手を差し出した。まさかそんなことを言い出すとは思ってもいなかった。ちょっと驚きだ。でも自力では貼りにくい位置に傷があるのは確かで、ここは好意に甘えようと絆創膏を手渡した。


「転んだの? 」

「二百メートル走でちょっとね。いい線いってたんだけど、運が悪かった」


軽い口調でさらりと受け流そうとした。天野の白い手が俺の腕に触れる。ずっとエアコンのきいた保健室にいたからかひんやりと冷たい。


「そう。悔しいね」


絆創膏の封をきる音がする。裏側のテープを剥がす仕草はぎこちなくて、テープに皺が寄ってしまっている。慣れてないのかな、そんな考えが頭をよぎった瞬間、はたと気づいた。俺の記憶の中で、天野が怪我をしたなんてことは一度もない。小さいものはあったのかもしれないけれど、転んで血が出たなんてことがあっただろうか。

 天野はずっと運動をしない子だった。いや、できない子だった。体育のときも喘息のためだか何かでずっと見学、友達と公園に遊びに行くこともない。運動会だって、一日中参加できた年があっただろうか。今年もそうだ。ずっとひとり、こんな部屋の中で退屈しのぎに本を読んで時間が過ぎるのを待つだけ。そんなの、そんなのって、あんまりだ。


「でも、最後まで走ってゴールしたんでしょ。わたしには出来ないな、その場で逃げ出しちゃうかも」


傷口に絆創膏を当て、二つ目のテープを剥がす。一度できてしまった皺を伸ばそうと天野が絆創膏を撫でたときに触れたのか傷がちくっと痛んだ。


「最後まで走り抜いて、かっこいいじゃん」


相変わらず天野は無表情のまま。けれどもその声はすとん、と俺の胸に落ちてきた。

目頭が熱くなって鼻の奥が痛くなる。


「目、真っ赤だよ。砂が入ったのかも。そういうときは泣いたほうがいい、仕方ないことだから」


天野は気づいていたと思う。俺が泣きそうなのは目に砂が入ったからじゃない。でも、気づいていても、彼女は知らないふりをしてくれた。確証はないけれど天野はそういうやつだ。

 俺の中で決めていた堤防が天野の言葉で決壊するのを感じた。涙が頬を伝っても、俺がしゃくりあげようとも、天野は後ろを向いていた。



ちん、とティッシュで鼻をかんで涙を拭う。顔をすぐに洗ったからそんなにひどい顔はしていない。ほっと胸を撫で下ろした。

そのとき、窓ががらりと開いた。


「杉山くん、怪我大丈夫?

もうお昼休憩だから教室からお弁当持ってきたんだけど、友達のところ行く? 」


担任の先生がわざわざ俺を気遣って来てくれたらしい。お礼を言って弁当箱を受け取る。運動会のお昼はいつも一緒にいる友達と食べる約束をしていた。でも、俺が行ってしまったら天野はまたひとりぼっちだ。


「いや、まだ傷が痛むのでここにいます。昼休憩が終わったらまた校庭に戻ります」

「あらそう? じゃあ、お大事に」


担任の先生はそう言って窓を閉めた。

弁当箱を手に天野のいるベッドの隣のベッドに腰掛ける。


「友達のところに行けばいいのに」

「あいつらは俺がいなくても気にしないよ」


天野は何も言わずに俯いた。他の人だったら、彼女は無表情に映るかもしれない。でも俺にはわかる。天野の今の顔は、たぶん、嬉しいときの表情だ。


「拓海くんってそういうところあるよね」


天野が顔を上げた。こんなにもまっすぐに天野の顔を見るのは久しぶりでどきり、と胸が弾む。


「わたしが帰るときも体調が悪かったら一緒に帰ろうって言ったり、そういう気ばっかりまわしてさ」


もしかして、余計なお世話だったかもしれない。出過ぎたことをしたかと心配になる。

でも彼女は先を続けた。


「拓海くんのそういうところ、嫌いじゃないよ」


天野の顔は、正真正銘誰が見ても、まぎれもない笑顔だった。


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