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空に贈るつばさ  作者: 榎本 みどり
1/3

(1)朧月





「天使ってなに?」




 随分とむかしに、母親にそう尋ねたことがある。当時何気なく見ていたアニメ、フランダースの犬の最終回でネロが天使たちによって空へ運ばれていくシーン。そこにいる数人の天使は常に微笑みを浮かべていた。こんなにも人が死んでしまう場面なのに、なぜ彼らは笑っているのか。子供ながらに不思議に思った記憶がある。


「天使っていうのは神様の使いなんだよ。人間をいつも見守っていてくれるの。もちろん拓海のこともね」


 そうか、ネロは天使たちに見守られていたんだ。でも、彼らはネロを助けたことがあっただろうか。彼が村人たちに冷たくされ虐げられていたとき、一度でも手を差し伸べたことがあっただろうか。

 ただ、〝見守る〟だけ。その行為に一体何の意味があるのだろうか。


「天使って何もしてくれないんだね」


そう呟いた俺を見る母の困ったような、泣きそうな顔を今でもよく覚えている。







 幼い頃はまだ漠然としていた天使の存在が成長するにつれてだんだんとわかるようになる。ひと昔前まで天使とは神聖で生きている人の目には見えないもの、そう認識されていたらしい。しかし最近では研究が進み、生まれたときから天使になる人材がわかるようになっている。もはや天使は神話やおとぎ話にでてくる作り物ではなくなってきていた。

 学校に一人いるかいないか、それくらいの身近な場所に天使候補は存在している。




「杉山くん、今日日直でしょ」


学級委員の女子にそう言われ学級日誌を押し付けられる。今日は何日だったかと思いを巡らせ、自分が今日の当番だったことを思い出した。


「ごめん、俺書いておくから。金子さんはもう帰っていいよ」


俺の言葉に教室掃除のために居残っていた金子さんも何か用事があったのか素直に教室を出て行った。きちんと仕事を済ませるようにと俺に釘をさすのを忘れずに。

誰もいなくなった教室はしーんと静まり返っていて、校庭で遊んでいる低学年の生徒らの声が遠くにきこえた。黒板もチョークの粉を残すことなく綺麗に掃除され、机も一列ごとにきちんと整頓されていた。金子さんの仕事はいつも早い。俺もはやいところ日誌を書いて帰らないと。筆箱から鉛筆を取り出して今日の欄をうめていく。

 日直、五年三組 杉山拓海。天気、くもり。今日の連絡、特になし。欠席、早退者——

 早退者なら、一人いた。よく体調を崩して休みがちなあいつだ。その名前を書こうとしたとき、音を立てて引き戸が開いた。反射的にドアのほうを振り向くと、今まさに名前を書こうとしていた当人が教室に入ろうとしているところだった。


「早退したんじゃなかったの? 」

「いや、具合悪くて保健室で寝てた。これから帰るけど。荷物取りに来ただけだから」


天野はそう言ってランドセルの中に手早く教科書を詰めていく。汗ばんだ額とは対照的にその顔色は青白くまだ体調がおもわしくなさそうだった。早退者の欄に途中まで書いていた天野の名前に消しゴムをかけた。


「ちょっと待って、あと五分で日誌終わるから。一緒に帰ろう」


天野は俺のほうをちらりと見ると、こくんと頷いて机に寄りかかった。すぐそばにある椅子に座らないことが彼女なりの無言の圧力のようで、慌てて日誌をうめていく。

 俺と天野は幼馴染だ。だからといって何か特別な縁があるというわけじゃない。たまたま家が近所にあって、そこから程近い幼稚園に通い、地元の公立小学校にすすんだというだけのこと。それくらいの幼馴染なら同じ学年に何人もいる。そのうちの一人が天野だった。

彼女は俺の友達とは何かが違った。身長は高いくせに身体は弱く、無口な性格から友達はほとんどいなかったと思う。愛想が悪いというわけじゃないのに彼女に近づく人間は少なかった。あまりにも線の細いその身体が人を近寄りがたくさせていたのか、必要以上に笑うことも泣くこともしない天野が奇妙だったのか。それとも彼女が天使候補だからか。


「日誌、もう終わった?」

「あ、うん。帰ろっか」


日誌を教卓の上に置いてランドセルを背負う。天野は先に教室を出て俺のことを待っていた。


「遅くなったよね、待たせてごめん」


靴を履きかえて校門を出る頃には夕日がそろそろ落ちようとしていた。天野はいつも通り無表情だったけれど、少しだけ雰囲気が柔らかに思えた。


「いや、こちらこそありがとう」


お礼の意味がわからなくて訊きかえそうとしたとき、道の向こう側から天野のお母さんが歩いてくるのが見えた。買い物帰りなのかスーパーの袋を持っている。


「こんにちは、お久しぶりです」

「拓海くん、久しぶりね。でも駄目よ、天使になる子は月の明かりに当たっちゃいけないんだから」


天使候補は月光に当たってはいけない、世間に広まっている都市伝説みたいなものだ。本当かどうかはわからないけれど、天使候補が月の光を浴びるとつばさが溶けると言われていた。

そもそも人間は天使ではない。でも天使になる素質を持っている人間がいる。それがいわゆる〝天使候補〟だ。天使候補は生まれたときから体内に小さなつばさを持ち、成長していくにつれてつばさも共に大きくなる。成人したときにそのつばさが何の問題もなく大きくなったときに初めて天使候補は天使になるのだ。天使になった瞬間、その天使候補は人間としての天寿を全うする。つまり人間としての命を落とすのだ。その後天使となった者たちは空へ飛んでいき天使の任務を授かることになる。

 人間としては死ぬけれど、天使としては生きる。形は違えど永遠に近い命を得ることができ、天の国での待遇もただの人間よりもずっといいという。だから天使候補であることは誇りでもあり、異質だと敬遠され迫害されてきた歴史ももっている。人間とは切り離すことのできない複雑な関係だ。


「そんな噂をまだ信じてるの、お年寄りとお母さんくらいだよ」

「何言ってるの、もしも天使になる前に死んじゃったら周りの人は物凄く悲しむのよ。ねえ、拓海くん」


いきなり同意を求められ、慌てて頷く。天野のお母さんは迷信をまだ信じて怯えているらしい。普通の子の親だったら過保護すぎるかもしれないけれど、天野が天使候補だから気持ちはわかる。

 天使候補がすべて天使になるとは限らない。必ず脱落する者がでてくる。それは神様が天使にふさわしくないと判断したのか、それとも月の光を浴びたからなのか、研究がされているとはいえ理由はまだはっきりとはわかっていない。でも確実に言えるのは、天使候補のうち数パーセントは成人する前に死んでいるということ。背中のつばさが消滅したと同時にふっと命の灯火も消えてしまうのだ。

 天野が身体が弱いのは、つばさが消えかかっているからかもしれない。天野のお母さんはそれを心配しているんだと思う。


「だから注意しなきゃだめよ? じゃあ、気をつけて帰ってね」


天野のお母さんは俺にそう言って天野の手をひいて帰って行った。

注意しろって、夜のうちは外に出させるなってことかよ。たしかに天野を引き止めたのは俺だけどさ……



 釈然としないまま家に帰ると、お母さんがソファーの上で眼鏡をしたまま眠っていた。その前のテーブルの上にはパソコンと書類やら本やらが散乱していた。

 お母さんは天使の研究の仕事をしている。だからこうして俺は無駄にその手の知識が豊富なわけなんだけれど。家でも仕事をしていてそのうち力尽きて眠ってしまったらしい。いつものことだ。眼鏡を外そうと手を伸ばすと気配に気づいたのかお母さんが目を覚ました。


「ああ……ごめん。寝てた」

「寝ててもいいよ、ご飯は何か買ってくるし」

「そういうわけにはいかないでしょ、ちゃんと用意してあるんだから。

ちょっと待っててね」


お母さんは伸びをするとばさばさと書類を片付け始めた。


「ご飯食べたら今日は空手教室の日でしょ、道着の準備しておいてね」


幼稚園から習っている空手は今では俺の一部のようになっている。熱心に教室に通って技は上達しても、最近勝てることが少なくなった。周りの同学年のほうが俺よりも後に始めたのにどんどん強くなっていく。負けていられない。

 身体を動かしているときだけは無心になれた。学校も勉強も親も友達も悩みもみんな忘れて、自分をみつめ、高めることだけに集中する。その瞬間がたまらなく好きだ。もっと強くなりたい、もっともっと力が欲しい、もっともっともっと、自分を知りたい。


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