第46話 風邪
その日の早朝、僕は少しだけ熱っぽい感じで目が覚めた。けっこう寝汗をかいてしまっていて気持ちが悪かったので一度着替えようとベッドから下りた瞬間、頭がぐらりと揺らぐ感覚がした。
風邪かもしれない、と思い着替えてからリビングにある体温計で体温を計ってみたところ37.7℃と表示された。
そんなにひどく体調が悪いわけではなかったからそのままリビングのソファーでぼんやりとしていた。
十分ほどするとさっちゃんが起きてきて、「お兄ちゃん、おはよう・・・あれ!?顔が赤いよ!」と僕の隣に飛んできた。
さっちゃんはそのまま掌を僕の額にぴったりとくっつけて、「熱いよ!どうしよう!?」と、慌てている。僕は「大丈夫だよ。熱計ったけど微熱だったし」と言う。でもさっちゃんは「ダメだよ!男の人の微熱は女の高熱に匹敵するよ!」と言うと、母さんを呼びに行った。
すぐに母さんがリビングに飛んでくる。そして、「勇気くん、大丈夫!?とにかくすぐにベッドに横になって、絶対安静にしててね!母さんがすぐに病院に連れて行ってあげるからね!」と泣きそうな表情でいう。
僕は「大丈夫だよ、ちょっと頭がぼうっとするぐらいだし」と答えたけど、母さんたちは泣きそうなほど心配しているみたいだ。それぞれ「会社休む!」、「学校休む!」と言っている。
僕は「一人で病院は行けるし、大丈夫だよぉ」と多少明るく言ったつもりだったけど、母さんたちには熱によるせん妄状態のうわ言に聞こえたようで「幸恵、今日は二人とも休んで勇気くんを病院に連れて行きましょう、看護夫さんのいるとこ」と真面目なトーンで結託されてしまった。
母さんが病院に電話をしている。そしてさっちゃんに「すぐに診てくれるって。幸恵もすぐに着替えて!」と言うと僕に「勇気くん、とっても辛いと思うけど、病院に行くから着替えてくれる?あっ、一人だと無理かな?母さんが着替えさせてあげようか?」と、後半は少しにやけながら言った。さっちゃんが「わたしが!わたしが着替えを手伝うよ!母さんはタクシーの手配すればいいじゃない!」と、勢い込んで言う。
僕は「一人で大丈夫だよ!着替えてくるから」と、リビングを後にした。部屋で着替えていると、ドアの外でさっちゃんが待機している気配を感じた。
着替え終わってドアを開けると、さっちゃんが心配そうに立っていた。僕が「待っててくれたの?ありがとう」と言うと、さっちゃんは「お兄ちゃんにもしもの事があったら・・・」と、涙目になってしまう。
僕は慌てて「全然大丈夫だから!泣かないで」と、さっちゃんの頭を撫でる。さっちゃんは気を取り直してくれたのか、「お兄ちゃん・・・すぐに病院に連れていってあげるからね!」と、僕に寄り添うようにリビングへと移動した。
母さんが「すぐにタクシーが来るから、もう少しの辛抱だからね」と、心配そうに言う。僕は「ありがとう、大丈夫だからあんまり心配しないで」と笑った。母さんとさっちゃんはまたとても心配そうに僕を見た。
タクシーは本当にすぐに到着した。僕は母さんとさっちゃんに寄り添われて外に出る。そして待機している車を見て少し驚いてしまった。
黒塗りの車体、フルスモークガラス。ここまではまだいいとして、タクシーであることを示す屋根看板、初乗り〇〇円、という表示も、空車ランプもなにもない。そして、車の左後部ドア付近には黒いスーツ姿の背が高いショートカットの女性が立っている。スーツ越しにも分かるほど隆起した腕の筋肉や、広い肩幅、周囲を油断なく見回す様子はさながらSPのようだ。
その女性は僕たちを見るとすぐにI.D.カードを提示した。
「病院までお連れ致します。私は田所と申します。運転許可、護衛認定を口頭で結構ですのでお願いします」と口を開いた。護衛・・・?
母さんが「確認しました。お願いします」と言うと、田所さんはドアを開ける。そして、僕らが乗り込むまで周囲をしっかり警戒していた。
田所さんはそのまま運転席に乗り込むと、「急ぎましょう」と、車を発進させた。
大通りを避けて、なるべく空いている道を車は進む。ナビがあるようには見えないけど、時々田所さんの耳に付けられているイヤホンのような物が青い光を発する。光が出ると田所さんは道を変え、ハンドルを指でトン、トン、と二回叩く。
信号に引っかかることもなく、普通なら20分はかかる距離を5分という早さで総合病院に到着した。田所さんは病院の正面玄関に車を横付けすると、すぐに後部ドアに回り込み、ドアを素早く開ける。そして「後は病院のスタッフが担当いたします」とだけ言うと、僕たちが降りるまで周囲を油断なく見回している。
母さんたちはすぐに病院に入ろうとする。僕が「あれ?料金は?」と言うと、母さんは「勇気くん・・・熱のせいで・・・」と、深刻な表情で僕の顔を覗き込んで来る。
僕は、その瞬間適応機能が遅れていることに気がついた。意識すると、すぐに「男性にかかる医療費については全て無料、緊急の場合ベテラン護衛付きの送迎あり、複数人の医師からの診断を受けられ、その際気に入らないことがあればその医師を解雇することができる(ただし、その気に入らない医師が他の男性患者のかかりつけの場合はその限りではない)」と分かった。解雇って・・・。
僕はすぐに「ごめん、混乱しちゃってるみたい」と母さんに言うと、病院の入り口まで付き添ってくれた田所さんに「ありがとうございます」と笑顔を送る。
田所さんは、それまで全く表情を変えてなかったけど、僕の言葉を聞いた瞬間わずかに口角を動かした、ように見えた。そして「いえ・・・」と言葉少なに言うと「私はここまでです」と言うと一礼してその場に留まる。直立不動だけど、一瞬僕を見た。
病院に入るとすぐにナース服を着た男性2人が「立木さんですね?」と声をかけてくる。母さんが、そうです、と答えると「こちらへとうぞ」と先導を始めた。
総合病院ということもあってかなり混雑していたけど、僕は「内科・専用」と書かれた部屋へとすぐに案内された。さっちゃんと母さんは「家族控え室」というところに入っていく。
部屋に入ると、ナース服の男性の若い方は体温計を準備して、もう一人の28歳ぐらいに見える男性ナースは問診表を持つ。体温を計測している間に問診表を持った男性ナースが柔らかな表情で僕に語りかけた。
「本日、医師の診察が終わるまで付き添い看護をします、木野修太郎です。熱が高いみたいだね。正確な計測値が出るまで、少し辛いと思うけど質問に答えてくれるかな?」と言う。
僕が承諾すると、早速木野さんによる問診が始まった。昨夜は何時に寝たか、何を食べたか、お風呂に入ったか、湯船を使ったか、シャワーか。色々聞かれる。
問診が6つほど進むと、体温計が計測終了の電子音を鳴らす。
木野さんに、若いナースは「38、ちょうどです」と言う。木野さんは表情を変えずに「高いね」と言うと、問診をある程度飛ばします、と僕に告げると、寒気は感じないか、吐き気や腹痛は?とテキパキと聞いてきた。
僕が「頭がぼうっとする感じです、お腹は痛くありません」と答えると、木野さんは「分かりました。では、診察する医師を選んでもらいます。こちらのパネルを見てください」と、タブレットのような機械を僕に見せた。
そこには、医師の名前、年齢、顔写真、経歴、今まで診察してきた男性の人数が表示してある。
僕は別に誰でも良かったのだけど、普通はかなり迷った末に経験の多い医師を渋々選ぶらしい。
木野さんは「男性のお医者さん、てのはいないからねぇ、困っちゃうよね」と、気の毒そうに言ったので、あまり困らせないようにしないと、と僕はパネルの中ほどに名前がある「野川深雪医師、26歳、有名医大卒」を指名した。
木野さんは「野川先生ね。じゃあ、最初は野川先生から行きましょうか。でも、野川先生は男性の患者さんを診察するのは初めてだけど、大丈夫?」と言う。僕が大丈夫だと言うと、「ではこちらへ」と診察室へと連れていく。そして、診察室にある電話を取ると内線を押して、「最初は野川先生」とだけ告げるとすぐに電話を切ってしまった。ちょっと冷たい対応に見えた。
電話が切られるとすぐに診察室へと緊張した面持ちの女性医師が入ってきた。
僕を見るとさらに緊張したのか、「ほ、本日の最初の診察をさせていただきます、野川と申します。立木様、私に不手際がありました際には何なりと申し付けてください」と青ざめた顔で言う。その様子を木野さんは冷めた目で見ている。
僕が「あ、はい、よろしくお願いします、野川先生」と軽く返すと、野川医師も、木野さんも目を丸くして僕を見た。適応機能で検索すると、こう言う時、男性は「ああ」とか「早くしろよ」とかそんな事を言うらしい。さすがにひどいだろう。
野川医師が、まだ緊張した面持ちで、「立木様、こちらのベッドに横になっていただいてよろしいでしょうか?」とかなり卑屈なことを言い出した。
診察するのだから、当然だろうと僕はベッドに横になるが、またここでも驚かれる。木野さんは「立木さんは、とても優しいんだね。将来は看護夫を目指してみたらどうかな?」と微笑む。
野川医師は「い、いいですね!とても・・・」と言うが、途中で木野さんの冷たい表情に気づき、言葉を切ってしまう。
野川医師は「これから触診を始めさせていただきます。身体に触りますが、許可をいただけますでしょうか?」と、恐る恐る聞いてきた。
僕はまた「はい、お願いします」と軽く答えた。
野川医師は無言のまま固まってしまい、木野さんに「先生!早く診察を」と促されてようやく動き出した。
診察道具は既に若いナースが持ってきていた。その中から、野川医師は聴診器とアイマスクを取り出した。僕が横になっているベッドに近づくとアイマスクを見せて、「細工はされていません」と、光に透かすように僕に見せた。
「診察の際、医師は外傷を負っている男性患者以外の肌を直接見てはいけない」というものらしい。
僕は大袈裟な、と思ったけどとりあえず口には出さずに「よろしくお願いします」と、一刻も早くこの診察が終わるように大人しくしていることにした。
野川医師は、ベッドの傍に椅子を置いて座ると、アイマスクを着け、木野さんの誘導のもとシャツを脱いだ僕の体の触診を始めた。野川医師の顔は首筋まで真っ赤になっている。それを木野さんは冷たい表情で見ている。
触診が終わり、シャツを着終わると木野さんが「外してください」と、野川医師にアイマスクを外すよう促す。
野川医師は「はっ、はい」と言うとアイマスクを外した。そして、「触診では特に異常は見受けられませんでした」と告げる。
木野さんは「では、次は胸部X線撮影しますので、隣の部屋へ。移動、辛くないですか?」と僕に優しく問いかけてくる。
「大丈夫です」と言うと、木野さんは僕に寄り添いながら、隣の部屋へと移動する。
そして、「撮影の準備をしますので、こちらの服に着替えてください。僕は衝立の外にいるから、何かあったらすぐに声をかけてね」と言うと木野さんは衝立の外に出た。
着替えを終えたことを木野さんに告げると、木野さんは「寒くないかな?大丈夫?」と質問した後、「撮影準備が整うまでもう少し待っててね」と言って、微笑む。その後「立木さん、本当に優しいんだね。さっきの先生にもとても優しかったし。触診、嫌じゃなかった?もし、不快だったら僕から言っておくよ?」と聞いてきた。僕は「問題なかったですよ。とても丁寧な感じでした」と答えると、木野さんは微妙な表情で「不慣れな感じだったと思うけどなぁ」と言った。
その後、X線撮影も終わり、また野川医師と対面する。野川医師は、X線写真の画像を見ながら「こちらにも特に異常は見受けられませんでした。風邪ですね。薬の処方だけで大丈夫です」と安心したように言う。
僕は(まあ、そうだろうなぁ)と思いながら野川医師に「ありがとうございました」と微笑んで答えた。
野川医師は顔を真っ赤にすると、僕に深々と頭を下げた。木野さんは「他の医師の診察を希望しますか?」と聞いてきたけど、僕は「いえ、大丈夫です。」と答える。
木野さんは少し慌てた様子で「一人の医師の判断で、いいということですか?」と心配そうに言う。僕は重ねて「はい、大丈夫です」と答えた。この答えに野川医師は不安そうにしている。
かなり気の毒に思ったので「野川先生の判断で大丈夫だと思います」と、野川医師ににっこりと微笑む。
野川医師はこれ以上ないほど顔を赤くしてしまった。
木野さんは少し心配そうだったけど、熱がある患者にこれ以上問いただすのも良くないと思ったのかそのまま家族控え室へと僕を誘導する。
控え室に入ると、さっちゃんと母さんがすぐに駆け寄ってきた。口々に「お兄ちゃん、大丈夫?」と、「ウチの子は、大丈夫なんでしょうか?」と心配そうに言った。
木野さんは「医師の診断のもと、風邪という結果が出ました。薬の処方だけで大丈夫ですよ」と言うと、続けて「優しい息子さんですね」と母さんに微笑んだ。
母さんは「ありがとうございます!自慢の息子です」と、木野さんに頭を下げた。
処方された薬を控え室まで持ってきてもらい、帰宅することになった。病院の正面玄関では田所さんが待っていて、すぐに車に乗せてもらう。行きと違い、帰りは比較的ゆっくりしたペースだ。田所さんは相変わらず言葉少なだけど、ごくたまにルームミラーで僕の方を見る。目が合ったので僕がにこりと微笑むと、少しだけ慌てた様子で前方に集中した。
家に着くと、今度はゆっくりと田所さんにお礼を言うことにした。
「田所さん、今日はありがとうございました。風邪もすぐに良くなりそうです」と笑顔で言うと、田所さんは今度ははっきりと口角を上げて、「光栄です」と答えてくれた。直後、「では、私はこれで」と車に乗り込むと走り去って行く。
家に着くと病院での診察でだいぶ疲れていたのか、薬を飲んだ後すぐに熟睡してしまった。
この後、おまけ及びパラレル分岐パートを投稿する予定です。




