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 神社の境内には、本来あるはずのない物が整然と並べられていた。十字架、三本の杭、ロンギヌスの槍のレプリカ。イエスの処刑道具だ。これらはどこからともなく、彼女によって出現した。何かを対価に生成した、というものではなく、物理法則を無視するように、唐突に出現した。俺が眼にしたことを詳細に明記するならば、まるで、そこに最初からあったかのように、いきなり可視化されたかのように、出現した。しかしそれを彼女は誇るでもなく、ただ当然のように奮って、力を振るっていた。俺が壊す力を漏らし、彼女は出現させる力を振るう。それは俺が壊さずに済むようにするためであり、そして俺はこれから、それらを用い自らを刑に処する。そうすることで、俺の身体を壊すことで、俺の壊す力を壊すのが狙いだと、彼女はそう説明した。

 やがて全ての準備が整い、あとは俺を処するのみとなった。

「しかし、良いのか人間」

 彼女は、まるで最後通牒を読み上げるかのように尋ねた。

「何がだ?」

「これは余の老婆心だが、貴様はこれから、杭を身体に打ちつけられ、十字架に磔にされ、脇腹をこの槍で刺されるのだぞ。当たり前だが、相当の苦痛を伴う。なにせ、死刑だからな。死ぬほどの苦しみを、これでもかと、味わうことになろう。無論、死なん程度にするがな」

 俺は目を瞠った。そもそも俺のせいでこのようなことになっているのだ。俺の意思など関係なく事が進んでもおかしくはない。しかし、彼女は、俺の苦痛と世界の命運を天秤にかけているのだ。普通に考えれば、それはおかしいはずだ。

「俺一人が死ぬほど苦しい罰を受けるだけで、世界中の命が何事もなく平和に暮らせるのなら、それは安いものだろう? それに――」

 その狼狽よりも先に、予め用意していた言葉を滔々と吐き出し、そして、

「――どうして、今更そんなことを確認する必要があるんだ」

 と、今思ったままのことを尋ねた。すると彼女は、その質問がさも意外であるかのように、自らの言動がさも当然であるかのように、言い放った。

「友を心配することのどこがおかしい」

 と。

 それは、今まで受けたどんな悪辣な言葉よりも、俺の胸を強く叩いた。これからするのは、償いである。世界を壊しうる力を持っているという咎の、清算である。普通ならやはり、俺を罪人と見咎め、冷遇するだろう。そして俺はそれを甘んじて享受する腹づもりでいた。意表を突かれた、といわれればそうだろうが、意の表だけでなく、裏まで、心の奥底まで、虚を衝かれたようだった。あぁ、意外だったとも。

「どうした、呆けたような顔をして。余の言葉がそんなに心外であったか」

 何もかもを見透かせそうな眼をしているくせに、或いは、分かっていてわざととぼけているのか、それは俺には判別がつかなかった。それでも、嬉しいことに変わりはなかった。

 だから俺は、目に涙が浮かぶのを隠そうとし、失敗しながら、笑った。

「心外なんかではなくて、意外ではあった。まさか、俺のことを友と言ってくれるなんて。なんだ、案外、近かったんだな」

 俺が何を言っているのか分からないらしく、彼女は眉を顰める。分からなくてもいい。俺が分かりたいことが分かって、それに対する独り言なのだから、何を言っているのか、彼女には分からなくてもいいのだ。今までの苦悩が馬鹿馬鹿しくなるほどに、俺は、とてもいい気分だった。たとえこの儀式で命を落とそうと、心残りはない。そう思い、俺は、彼女に、俺が抱いていたものを悟られる前に、終わらせようとする。終わらせない為に、終わらせるのだ。

 俺は用意された杭を拾い上げ、十字架に歩み寄る。杭は足にも打つので、靴を脱ぎ裸足で数センチの台の上に立つ。左の掌に握った三本の杭のうちの一本を、右の手首に押しつける。右手の甲を十字架の枝の部分に沿え、左手に一層の力を込める。

「始めてくれ」

 そう告げると、彼女は黙したまま頷く。胸が早鐘を打ち、三本の杭を握る左手が震える。手から一本杭が零れ落ちるが、気にかける余裕は無かった。彼女が眼を鋭くすると、徐々に杭が手首の肉に食い込んでいく。尖った先端が手首の皮膚を破らんばかりにめり込み、痛覚が悲鳴をあげる。

 そして、ぶちっ、という音が俺の中で聞こえ、生まれて初めての痛みが全身を駆け巡った。境内中に俺の慟哭が響き渡り、一瞬で喉が嗄れる。目からは大粒の涙が滲み、視界が不明瞭になる。あまりの痛みに麻痺しそうになる右手には、温かい血液が這って滴り落ちていく。身体中の神経が右の手首に集中し、その苦痛を訴えかけているようだ。熱い感覚が右腕を灼き尽くすように迸り、思わず左手で肘と手首の間を押さえる。悶えようにも右手は十字架の枝に固定されていて、膝をつくこともできない。あまりの激痛に身体が崩れ落ちそうになるが、少しでも右手に刺激を与えれば更なる激痛が俺を苛む。幸いか、杭は骨を避けて肉のみを貫いているようだが、今はどうでもいい。ただ、痛い。

「おい、このまま続けるぞ。もういいな?」

 心配そうに彼女が俺の傍に駆けて来る。だが、近付くだけで触れることはしない。儀式の条件を壊してしまうかもしれないからだ。俺の身を案じながらも、儀式を止めようとはしない。だからこそ彼女は、続けるからもういいか、と言ったのだ。大丈夫か、ではなく、もうやめよう、でもなく、苦しみの付加に対する確認を行ったのだ。俺の、始めてくれ、という言葉を遂行する為に。俺の覚悟を曲げない為に。

 みっともなく口から涎を垂らしながら、俺は必死に二度、頷いた。そして、右手にできた聖痕の痛みを塗り潰すように、左手に一本残った杭で、右腕の忌々しい紋様を一線、切り裂いた。慣れかけて落ち着いてきた痛覚が目を覚まし、右手だけでなく、今度は右腕全体を温かい液体と熱い感覚が襲う。新たな悲鳴が俺の喉から溢れそうになるが、舌を奥歯で噛んで耐える。前歯であれば、舌は千切れていただろう。強く噛みすぎて舌から血が出てきたが、構うものか。血を流しすぎて青黒く変色しかけている右腕は、力無く痙攣している。未だ鮮血の滴る杭を、先端が掌に来るよう持ち替え、左手を十字架の枝に当てる。

 今度は容赦なく、一瞬で杭が十字架にまで届いた。四半秒の後、傷口と杭との隙間から鮮血が嘔吐するように漏れ出し、やや遅れて、火傷するのではないかというほどの熱を持つ。目の前が真っ赤に染まったような錯覚さえ感じられて、気が狂いそうになった。指はまだ動かせるが、相当の痛みを伴う。間違っても動かしたくはない。俺の身体の電気信号は全て、痛覚を伝える為だけに働いているだろう。激痛があまりにも長く続くので、意識を手放してしまいそうになる。だが、それも堪え、血と唾液に濡れた舌を前歯で噛む。新たな痛みに意識が再覚醒され、ぼやけていた視界が徐々に光を取り戻す。それは赤い光だった。

「はや……ぅ、つ、ぎぃっ……!」

 がらがらに嗄れた喉と、傷だらけの舌から発せられた俺の声は、最早、人間というより、獣に近かった。それでも彼女は再び頷き、足元に転がっている最後の杭を拾った。俺は朦朧とした意識の中、足を揃えて爪先立ち、足裏を可能な限り十字架に触れさせる。両手の傷からの血は血糊となって固まり、元来の血液の水っぽさとは遠くかけ離れていた。身じろぎするたびに血糊がひび割れ、欠片が落ちる。しかし、それに気を割けるほどの精神的余裕は皆無に等しかった。杭を手にした彼女が、そっと俺の足に杭を添えたからだ。再び激痛が走るのを想起し、固く目を瞑る。触れているだけのはずなのに、ぴりぴりと肌が痛む気がした。やがて、杭が足にめり込み始めた。神経が虐げられる感覚と共に、鉄の味がした。無意識のうちに舌を強く噛んでいたのだ。口の中の血を嚥下した瞬間、全身の血が滾り沸くような感じがした。どれだけ痛みに悶え苦しもうとも、そこには慣れなど存在せず、純然とした痛みが度々猛り狂うのだ。最後の杭が俺の身体を貫き、十字架に突き刺さる。

「~~~~ッ!」

 最早、声にならない悲鳴をあげ、それに屈しまいと奥歯を強く噛み締める。新たな血が足の傷から漏れ出し、赤い池が足元にできた。身体の中の何割の血液が流れ出したのかは分からないが、下手を踏めば命を落とすということは分かる。しかし、それでも構わない。俺は、構わない。

 次が最後だ。次で最期だ。地面に突き立てられたロンギヌスの槍、それを脇腹に突き刺せば、俺の力は抑え込まれているはずだ。その為に、俺はこうして十字架に磔にされているのだ。しかし、まだ彼女は幾分か躊躇っているようだった。槍を握りはするものの、それを引き抜こうとはしない。俺は、慢性化してきた激痛に顔を歪めながら、口の中に溜まった血反吐を吐き捨てた。

「さっさと、終わらせてくれ……」

 俺が望むのは、懇願でなく、催促だった。ここまで耐え難いほどの苦悶に耐え切ったのだ。精神をぼろぼろになるまで削り、肉体も文字通り身を削った。これほどまでやって、今更何を躊躇う必要がある。

 俺は彼女を見た。常の不遜な態度とはまるで違う、怯えのようなものを含んだ顔をしていた。弱々しく槍を握る手は震えているようにも見える。千年生きた神でも、尻込みすることはあるらしい。九尾のお稲荷様でも、こんな人間味のある表情をするのだ。俺と目が合って、彼女はかぶりを振った。それは、まるで駄々をこねる子供のようだった。

「……そういえば、お供え物、したことなかったな」

 呟くと、彼女は目を見開いた。何を言っている、とでも言いたげだ。それもそうだろう。この状況で、そんな突拍子もないことを言う者なんて、そうそういないのだろうから。俺はがらがらの喉から嗄れた声を絞り出した。

「やっぱり、稲荷寿司がいいのか。お稲荷様だしな」

「おい、貴様、何を……」

 今度は何が言いたいのか予想はつかなかったが、言わせまいと、遮るようにして言い放つ。そうでもしなければ、俺は志半ばで失敗してしまう気がしたのだ。だから、茜のように傲然と、振り絞った。

「俺のこの傷と、何よりも覚悟を無駄にしないでくれよ。世界を壊さない為に、俺はこの身だって投げ打つつもりなんだから、手伝ってくれよ。頼む」

 その言葉が、功を奏したのか否か、それは分からないが、結果的に、彼女は槍を引き抜いて構えた。切っ先が俺を捉え、鈍く輝く。先刻の怯えたような眼はどこへやら、元来の九尾の稲荷としての超然とした光を湛えていた。

「いくぞ。早急に終わらせて、早急に治してやる」

 その頼もしい言葉を最後に、緊張していた糸が切れるように、俺は意識を失った。



 意識が戻ると、非常に心地良い気分だった。特に、後頭部が、まるで女の子に膝枕でもされているかのように優しく柔らかい感触だった。まぁ、そんな経験は無いからあくまで想像の域ではあるが。そして俺は、その心地良さに身を委ね、再び眠りに落ちようとしたところで、

「目が覚めたならとっとと起きんかこの死に損ないが!」

 硬い拳骨が俺の額を打ち抜き、強制的に俺の意識は覚醒させられた。そこでようやく瞼を開けたのだがなんと、俺は茜に膝枕をされていた。その事実を後頭部でゆっくりと吟味してから、俺は身を起こそうとした。しかし、全身を激痛が走ってそれを阻む。痛みに身体と声を震わせながら、

「痛い……無理……」

「ふん、軟弱者が」

 茜はそう毒づいたものの、退去を強制しようとはしなかった。よく見ると、彼女の目が若干赤くなっている気もしたが、目を凝らすとそれに気付かれて顔を逸らされた。多分クロだ。

 身体中に疼痛が残っているものの、境内は綺麗に片付けられているし(血も綺麗さっぱり消え失せている)、手首もちゃんと止血されているし、聖痕を除いて殆どが元通りだった。恐らく、足や脇腹も同様だろう。

「それで、俺の力は……?」

 本来、ロンギヌスの槍とは、イエスの死を確認する為に脇腹に刺した槍のことである。それが今回は、俺の忌々しい力を封じ込められたのかどうかを確認するという役割を担っている。刑執行の前に茜は、失敗していれば反応した力が槍を砕き、それまでに受けた杭も無に帰すと言っていた。そうなれば、またこの酷刑を再開して成功するまで繰り返すのだという。

 今になって思い返してみれば、あの苦痛を何度も経験するとなると、精神が磨耗して廃人になるのもやむなしであっただろう。無論、それも甘んじて受け止める所存ではあったが。ともあれ、こうしてなんとか無事に事を終えられて、よかったの一言である。

 だが俺のそんな心境とは裏腹に、茜は遠くを見つめて悄然と呟いた。

「実はな、昴。実は……」

 ただならぬ雰囲気を感じ取り、口の中が一瞬で渇く。まさか、という危惧が瞬く間に胸中を埋め尽くし、例えようもない不安が俺を襲った。固唾を嚥下し、俺は意識を彼女の唇に集中させた。

「実は、思いの外に事が上手くいったようでのぅ、封印するどころか昴の力は雲散霧消、禍根も残さず大団円じゃ!」

「……えっ?」

 喜色満面で天晴れなどと快哉を叫ぶ茜に、俺は全神経を疑った。彼女の言ったことを頭の中で反芻し、ゆっくりその意味するところを考える。次第にあの言葉が脳に染み込んでいき、

「はあああああ!?」

 素っ頓狂な叫び声と共に思わず身を起こしてしまい、再びの激痛。しかし、それでも俺の興奮は冷めやらぬままであった。もう一度膝枕の恩恵に預かろうと思ったが、もう動きたくないので諦めて茜に向かい合う形で胡坐をかく。あぁ、今日は叫びすぎて喉が痛い。しかも自分の声で耳鳴りさえもする。

 俺の叫び声で耳鳴りがしたのは彼女も同じらしく、三角の狐耳を押さえて俯いていた。やがて、きっ、とこちらを涙目で睨み、容赦無い怒号を浴びせかけた。

「こんの大うつけが! 折角儂が丁寧に傷の治療をしてやってゆっくり寝かせてやったというのに、一体全体、これはどういった趣向の仕打ちじゃ! 儂になんか恨みでもあんのか!」

「ま、まぁまぁ。悪かったって」

 予想以上に罵倒され、俺は思わず面食らった。なんとか宥めようと試みたものの、果たしてこのお稲荷様は怒りを鎮めてくださるだろうか。

 すると、更に予想していなかったことに茜は、先程よりかなり声音を落として、

「なにはともあれ、昴が思いを果たせてよかった。きっと、もうあの力に心を悩ませることはあるまい。うむ、よかったよかった」

 腕を組んで頷きつつ、茜はそう言った。

 しかし、どうにも拭えない違和感が俺を苛んだ。それがなんなのかは判然としないが、なんだかよくない予感を覚えるのはきっと、何か取り返しのつかない恐怖が起因しているのかもしれなかった。しかしその違和感の正体を手繰り寄せようにも、未だ疼く傷痕に気を取られ、思考に集中できない。

「なぁ、茜……なんか変な感じがする」

 とりあえずその違和感を、赤子がおしめを替えろとぐずるような心地で口にしてみた。途端に茜は血相を変えた。

「変な感じ? どういうことじゃ、申してみぃ」

「俺にもよく分からないんだが、茜は『よかった』って言ったけども、どうにもよくない感じがするというか……」

「要領を得ん奴じゃのう。はっきりとせんか」

「俺自身はよかったのかもしれないが、茜に何かよくない、みたいな……」

「杞憂じゃ」

 茜はそう断じた。俺の懸念を断ち切るように、それ以上の思考を遮るように。違和感は肥大した。俺の違和感は茜に関するものなのだと、朧げながらにそう確信した。

 針のような瞳で以て俺を見据え、茜は諭すような語調でこう言う。

「昴は忌む力を失った。願ったり叶ったりじゃろう。なのに何を憂える必要がある。まだ力を有しておるつもりか? 有りもしない力で何を感ずることができようか。そんなものは所詮まやかしじゃ。その右腕の薄汚い包帯を解いてみぃ」

 言われるがままに、黄ばんだ、諸所が紅く染まった聖骸布を解く。果たして彼女の言う通り、忌々しい力の証、仰々しい黒の紋様は綺麗さっぱり消え失せていた。何も無い右腕を見るのは久方ぶりであった。

「未だ力の残滓が昴の体内を漂っておる可能性も否定せんが、それもじきに消える。もう何も心配することはあるまいて」

「いや、そうじゃない。俺の力がどうとか、そういうことじゃないんだ」

「あぁ?」

 紋様が無くなっていることが嬉しくてそのまま傾聴しそうになったが、茜の話と俺の違和感にはどこか齟齬がある。拭えない不安が、俺の心中で警鐘を鳴らしている。重大な何かが脅かされている、という漠然とした予感、いや、悪寒は、杞憂という言葉では片付けられそうもないほどに俺を襲った。

「大概にせぇよ。儂が心配は要らんと言うとるんじゃ。昴が気にかけるようなことは何も無い。儂の言葉が信用ならんのか? 儂がこれまで昴の前で嘘をついたことがあったか?」

 徐々に茜から怒気が迸る。俺の曖昧な反駁に業を煮やしているようだった。

「あぁ、無いよ。茜はいつも、心から俺に接して、叱責してくれた。殆どが罵倒だったような気もするが」

「じゃったら……」

「でもそれは、俺に対して正直だというわけではなかった。茜は常に、俺の為になる言葉を選んでいた。俺に善かれと思って、色々話してくれてたんだ。違うか?」

「……」

「茜、俺に何か隠してるだろ。重大な何かを、俺に知られないようにしてるだろ。だから論点をずらすし、苛立ちを露わにしてみせる。力とか関係無い。力なんかが無くても、大切なものの異変くらいには気付けるさ。なぁ、頼むよ。俺の為の言葉でなく、正直な茜を聞かせてくれよ。後生だ」

 一度死んだようなものなのに後生とは可笑しな気もするが。俺は茜の小さな手を両手で包み込んだ。俺を救ってくれた手は、こんなにも小さい。それに反して漲る存在感が、矮躯に秘められた勝気な性格を髣髴させた。

 茜は数刻黙ってこちらを睨むようにして見ていたが、やがて観念したように全身の力を抜いて、ふぅ、と息を吐いた。呼応して、強張っていた尻尾も耳も、へにゃ、と力無く垂れ下がった。

「分かった分かった。降参じゃ。じゃからそんなに見つめるな。穴が空くわ」

「茜……」

 彼女はばつが悪そうにこちらから目を逸らす。

「確かに昴の言う通り、儂は隠し事をしておった。じゃがそれは、少なくとも今回は、昴の為だけではなかった。普段は昴を思うて色々隠しておったがな。……ええ加減手を離さんか気色悪い」

「あぁごめん。それで、俺の為だけじゃないっていうのは?」

「今から話そうと思っとったところじゃ、急かすな、せっかちめが」

 いつもの調子が戻ってきた気がする。怒られるのが少しばかり懐かしく、嬉しかった。

 茜は一呼吸置き、正面から俺の目を見据えた。凛とした瞳の深淵が、俺の目を覗き込む。

「儂は、昴を救うのに、自らの力を振るった。道具を顕現させるのは造作もないんじゃが、力を封じ込めるのに、結果としては消滅したんじゃが、少々力を消耗させすぎたんじゃ。その上、力によるしっぺ返しを食らい、弱り目に祟り目、儂の存在そのものを壊しかけた。今は辛うじて保てておるが、いつそれが決壊するとも知れぬ。昴の頭でも分かるように言うならばつまり、儂はもう長くない、ということじゃ」

 冷や水を浴びせかけられたかのような衝撃が俺の脳髄を駆け巡った。つまりそれは、俺を救ったがために、俺のせいで、茜がいなくなる、ということだ。当然看過などできようはずもない。

「なぁ、ちょっと待ってくれよ……どうしてだよ……どうして俺なんかの為にそんな身を擲つような真似をするんだよ……?」

 分からない。俺自身にそこまでして救うような価値なんて無いはずなのに。自らの落とし前をつけるのなら身を粉にしようとおかしくはない。しかし、人の為に自らを犠牲にするなど、それはただの自己満足だ。

 もっと他に手はあったろうに。茜を失ってまで叶えたい願いではなかったのに。茜が諦めろと言ったのなら俺はひたすらに精進してあの忌々しい力と折り合いをつけ一生を終えただろう。家族や、友人や、茜を、ともすればこの世界そのものを壊さない為にあの力をどうにかしたいと希ったのに、その帰結で失ってしまっては意味が無いではないか。

「そうだ、茜、あの力をまた俺に戻してくれよ。そうしたら――」

「無理じゃ」

 俺の幽かな希望を、無碍にも茜はばっさりと切り捨てた。

「言うたじゃろ、消滅したと。不可逆じゃ、諦めろ」

 諦めろと、そう言ってほしかったのは今じゃない。今じゃないのに。

「よしんば戻せたとして、昴はその壊す力で儂の何をどうするつもりなんじゃ」

「……っ」

 反駁できない。

 言い返すことができないのは、茜の言うことが正しくて、俺も心の底ではそれを理解しているからなのか。今現在直面している現実を受け容れられない、俺の我が儘に過ぎないのか。自分にとって都合の悪いことを相手の欺瞞と断じ、責め咎めることで心の平安を保とうとしているだけではないのか。

 俺は、茜の言葉も俺の省察も否定することができなかった。冷静に考えれば分かることだったのだ。いつだって茜の選択は正しい。そしてそれに抗う俺は大抵が子供じみていた。

 そして、その子供じみた俺が遮二無二自身の研鑚に努められたのは、茜がいたからだった。茜の叱咤とも罵倒ともつかない言葉があったからだった。だから俺は目に見えた進歩が無くとも、不断の努力を続けられたのだ。己と世界を蝕む力に身を呑まれそうになっても、その度に茜を思い出せたお蔭で今の俺があるのだ。そしていつしか、茜の元に足繁く通うのが当たり前となっていた。最早俺の生活は茜抜きでは語れない。人生を構成する大事なひと欠片。

 茜を失うのが怖い。当然だ。茜が欠かせなくなった今、それは断腸の思いに等しい。だから俺は、意固地になって抵抗していたのだ。大切な茜に、無慈悲な現実に。

「くそっ、そんなのは嫌だ。くっそおおおおお!」

 拳を全力で地面に叩きつける。鈍い痛みが俺をせせら嗤った。しかし俺は、何度も、何度も、何度も――。

「のう昴よ。何を辛気臭い面をしておる」

 拳を止めて、茜の顔を見上げる。

 茜は笑っていた。尖った八重歯まで剥き出して、見たことのない程眩しく笑っていた。

 俺は呆気に取られた。二の句を失う俺に、尚も茜は笑いかけた。

「儂の今生の別れじゃ、最期くらい華やかな顔をせんか。思えば昴はいつだってそうじゃった」

 今生の別れ、という言葉がどれほど俺の胸に深く突き刺さったか。もう会うことも叶わなくなるのに、彼女はどうしてこんなに笑っていられるのか、俺には皆目分からなかった。

 茜は金色の耳と尻尾を動かしつつ、土に塗れた俺の拳を拭った。依然、莞爾と微笑みながら。

「昴、儂はな、大往生じゃったよ。本来は誰にも認識されず、孤独に偶像として祀られ奉られるだけのはずじゃった。じゃがな、昴が現れた。昴は、神としてではなく普通の人間のように儂を見て扱った。千年近く畏れられ生き永らえた儂でも、その嬉しさを表す術は持ち合わせておらん。分かるか。昴は儂を命の恩人のように言うがな、昴こそが儂を救ってくれたんじゃよ」

「……」

 俺は返す言葉が見つからなかった。しかしそれは先刻とは違い、去来した思いが多すぎて整理がつかなかったからだ。

「だから昴、笑ってくれ」

 俺は溢れる涙を抑えられなかった。漣々と流れ続ける涙を、ただ拭うことしかできなかった。この涙の理由は分からない。何の感情が齎した落涙かも判然しないまま、時間だけが過ぎ去った。



 そうしてどれくらいの間泣きじゃくっていただろう。

 嗚咽も止まり、その様子を見て取った茜が、「男がそう易々と泣くもんじゃない」と零した。俺は「はは」と笑い返すだけで精一杯だった。

 場所も相まって、まるで時間が止まっているかのように錯覚した。時間が進まなければ、茜はいなくならないのに。

 しかし無情にも、時間は俺達を置き去りにする。

 時が来た。

 永遠にも思えた時間の果て、ぽつりと茜が呟いた。

「……そろそろ潮時じゃの。昴よ、日も暮れたし親御さんが心配するじゃろ。儂の最後の老婆心じゃ、今のうちに帰れ」

「嫌だ」

 即答してやった。

「今更何言ってるんだよ。例え殺すぞと脅されても、梃子でも動かないつもりだよ、俺は」

 不動如山(うごかざることやまのごとし)だ。俺は胡坐をかき、茜がいなくなるその瞬間までここにいるという意思表示をした。茜に殺されるのなら本望だとは流石に過言が過ぎるが、昏倒させられる程度なら、まぁ許容範囲だ。

 茜は切れ長の目を円くしていた。狐につままれたような(狐なのは他でもない茜自身なのだが)そんな様子で、只管に目を白黒させていた。

 今までは、恭順と言ってもいいほど茜の言葉に頷いてきた俺だったが、今だけは譲るわけにはいかない。それこそ今生の別れだ。ここで、はいそうですかと帰るなど正気の沙汰ではない。

「…………小憎たらしい糞餓鬼め。最期くらい、儂の言うことに従わんか」

「やだよ」

「青二才が……!」

 語勢こそ恐ろしいものの、今の茜から怒気は感じられなかった。それほどに彼女の神威が衰えているのか、本当に怒っていないというだけなのか、分からない俺ではない。

「俺も巧言令色は使いたくない。だから、ただ最期の時まで茜と共にいたいと、素直にそう伝えることにするよ。……なにせ、俺達は友なんだろ?」

 友が遠くに行ってしまう時は、見送ってあげるのが道理だろ? そう付け加えると、茜は青息吐息。観念したように黄金色の尻尾を垂れた。

「ふむ、ならば最早何も言うまい。昴よ。達者でな」

「おう、あばよ、茜」

 そう言葉を交わした矢先、茜の姿が陽炎のように揺らぎ、靄のように薄らいだ。ひとたび風でも吹けば消えてしまいそうな弱々しさの中、それでも茜は、犬歯を剥き出してにかっと闊達に笑み、俺に向かってピースサインを掲げた。俺もそれに応えようと慌てて右手をピースの形に作り掲げたが、その時にはもう目の前に茜の姿は影も形も無かった。

「――茜――」

 ぽつりと呟いたお稲荷様の名前が、黄昏の中で闇に溶けて消えた。

 黒い紋様の消え果てた、一人のピースサインだけを残して。




「お、昴。おーっす」

「勇」

 翌朝、俺は普段通り登校していた。何もかもが普段通りだった。俺も、勇も、学校も、この世界も。俺の右腕と、あの神社を除いては。

 昨日のことを思うと胸がきりきりと痛み、学校は仮病で欠席ということにでもして終日神社で過ごそうとも考えはしたが、結局実行には移さなかった。というのも、一日でも日常から逃避してしまえば、以降そこに戻る取っ掛かりが得られずだらだらと欠席を繰り返してしまいそうだったからだ。俺自身がそう考えたというよりは、いなくなった茜ならそういう風に俺を叱責すると思っただけなのだが。あの神社には、放課後にでも寄り道してやればいい、そう思うことにした。

 そんな俺の懊悩も知る由無く、勇は屈託を感じさせない三枚目の面で俺の席にのこのことやって来るのだった。

「あれ、腕の包帯取れたんだな。あの黄ばんでて汚かったやつ。でも何だそれ。今度は両手に見るも悍ましい傷痕が」

「これか? 聖痕スティグマだよ。大罪人たる俺を咎め、戒めるための罪の軛とでも言おうか」

「んだよ、やっぱ中二病じゃねぇか」

「ふっ、世迷言を」

 茜が去ってしまった今、俺は途轍も無い喪失感と向き合うことになった。一体どれほど茜に依存していたのか、昨夜は茜のいない世界になど意味は無いと、この世界を壊したくなった。しかし力は雲散霧消、何を念じようとも、何を呪おうとも、いみじくも俺は只の人間に成り下がった後だった。いや、成り上がったと言うべきか。他でもない、茜の乾坤一擲を賭した行いのお蔭で、未来は約束されたのだから。

「ところでさ昴。こないだ貸した俺のシャーペン、いい加減返せよな」

「ああ悪い、失くした」

「えぇ!?」

(力のせいでどこかに飛んでいったんだけどな)

「放課後になんか食い物奢ってやるから。それで機嫌直せよ」

「いや別に機嫌損ねてるわけじゃないけど。しょうもない駄菓子とかだったら損ねちゃうかもね」

「駄菓子を舐めてると痛い目に遭うぞ。あいつら安いからって調子に乗って籠に入れてると千円を超えるからな」

「ほう、それはつまり千円以上駄菓子を奢ってくれるって認識でいいんだな? ん?」

「しまったな、口を滑らせたみたいだ」

 昨日のあの後、俺は生霊のようにふらふらと家路に着いた。その間ずっと、壊れた映写機のように同じ光景が繰り返し頭の中にフラッシュバックしていた。忽然と茜が消え果てしまう、その光景が。

 家に着いても碌に食事も摂らず、自室のベッドの上に大の字で寝転がっていた。そして考えていたのだ。茜がいなくなったこの世界で、生き続けることの意義を。茜がいなくなった今、何を目的に生きればいい? 何を糧に暮らせばいい? 何を理由に過ごせばいい? 結局のところ、腑に落ちる答えは見つからなかった。いつも答えへの手引きをしてくれていた茜がいないのだから。随分と長い間、そういったことを黙考していたが、この思案が無為であると気付いた頃には、既に日付が変わった後だった。粘度の高い物を無理矢理咀嚼して嚥下したかのような夜だった。

 そして翌朝(つまり今朝だが)、俺は前述の通りいつもと同じように行動した。身に染みた行動のはずが、ぎこちなくまるで何者かに操作でもされているような気分で朝を迎えたものだった。

 だが、辛抱強くこの生活を続けていれば、人とは強かなもので、いずれ慣れてくるのだろうと憶測している。いや、俺の場合は、「臆測」と言った方がいいのかもしれない。というのも、希望的な展望無くして生きられそうにないのだ、俺は。茫漠とした社会の中で、俺はアイデンティティを茜に依存してきた。それを突如失って、世界に押し潰されそうなのだ。皮肉なものだ。世界を脅かしていた人間が、逆に世界に脅かされるとは。無論、その辺りも含めて俺に課された罰なのだというなら、甘んじて受ける所存だ。他ならぬ今は亡き茜が、俺にそう命じた気がするのだから。

 平常通り、全く以て今までと同じように、授業は進行された。昨日の出来事は夢だったのかと疑ってしまうほどに。放課後になっても、それは変わらなかった(勇に思いの外散財を余儀なくされたが)。

 恨み言を残して勇と別れた後、俺の足は自然と神社へ向かっていた。というよりは、殆ど無意識にそこへ行こうとしていた。

 寂寞とした空気漂う神社の敷地に踏み入る。俺を迎えるあの女狐はもういない。携えた稲荷寿司はスーパーの袋と共に揺れ、がさがさと、風にさざめく木の葉と同じように音を立てた。この稲荷寿司を供えるには当然、本殿の前にまで行かなければならないのだが、俺は鳥居に凭れ掛かり腰を下ろした。そうして暫しの時を風と静寂の中で過ごし、やがてやおら立ち上がった。そして踵を返したかと思うと、俺の姿は黄昏の向こうに消えていった。


聖痕、スティグマは単数形で、複数形はスティグマータなのですが、まぁ細かい指摘は無しってことで。

この作品は二部作です。

次のお話へどうぞ。

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