縁
仔細にや語るまじき。
どうぞお手柔らかに。
俺の右腕には力が封印されている。
今はこの聖骸布で力を抑えてはいるが、いつこの力が封印の許容量を突破するとも知れない。この聖骸布の下にはひどく奇々怪々なる紋様が刻み付けられていて、それが俺の力を存在たらしめる器の証だ。
この紋様はバチカンを主な力の供給源とし、そこから全世界に向けて力を貪食する為の根を張っている。バチカンが心臓で、世界中に血管が張り巡らされている、と考えるといい。そして俺の力の本領は、その血管を通じて世界中に気を通し、それを膨張、爆発させる、いわゆる、世界を滅ぼす力にある。
だが、俺はこの世界のことをいたく気に入っているし、だからこそ壊したくはない。世界を壊さないためには、俺のこの右腕に秘められし力を封印せざるをえない、ということだ。しかし前述の通り、俺の力はいつ暴発するかは分からない。よって、俺は日々鍛錬を重ねて、封印の強化、己の器の拡張へと努めているのだ。
……という旨の話をしたら、俺遠江昴は至極真面目なのだというのに、友人は腹を抱えて床を転げ回っていた。抱腹絶倒という四字熟語をよく体現している。だから話すのは嫌だったのだ。俺は涙を浮かべて大笑いする友人を一瞥しながら、
「おい、いい加減笑うのをやめろ。ちょっとは周りの目を気にしろよ」
俺の言動も周囲の目を憚っていないわけだが。いや、しかしこれは仕方ないだろう。昼食中にこいつと「何か興味深い身の上話でも」ということになって、ちょっと真剣に話したらこれだ。ちなみにこいつは「頑固な親父が実は、女性用のシャンプーやトリートメントを使っている」という話だった。
「いや、だってよぉ、あまりにも昴が興味深すぎる身の上話をするから……ひひっ」
目に涙を浮かべた友人、周防勇が腹を抱えながら席に着く。最後の笑いが、悪徳小商人のようだ。彼のせいで、俺達に奇異の視線が集まっている。だが、勇が笑うのも無理はないと思う。こういうのは、世間一般には「邪気眼系中二病」といって、憐憫の対象にあるのだから。その名の通り、中学二年辺りの男子が主に発症する、痛い言動や行動のことを指す。その中でも、邪気眼と呼ばれる特殊な中二病があるのだ。客観的に見れば、俺はそれなのだろう。
「それにしても、マジでお前がそんなユーモアに長けてるとは思わなかったぜ。普段堅いから、なおさら」
ふっ、いくらでも笑うがいい。だがいずれ、この力が覚醒した時、お前は俺の真価を目の当たりにするだろう……などと真性なら言うのだろう。いや、ある意味俺が真性なのだが。
「重ねて言うがこれは、俺の虚言とか妄語なんかじゃ、決してないからな。面白半分に尾ひれつけて吹聴して回るんじゃないぞ、ほんとに頼むから」
「あぁ、あぁ、分かってるって。誰にも言ったりしないから。つうか、よくそんな恥ずかしい設定思いつくよな。右腕のそれも、ほんとは怪我か、もしくはなんもないかだろ? あ、なんか紋章みたいなのでも描いてあんのか?」
そう言いながら右腕の聖骸布に触れようとしてくる。俺はさり気なくそれをかわした。どうにも会話の歯車が噛み合ってないようだ。俺の力を、似非ものの中二病と誤認してほしくないだけなのに、こいつはもっと違う次元で解釈している。まぁ、他言はしないと言っていたし、変に取り繕うのもやめよう。かえって逆効果になるかもしれないのだから。それにこの類の誤謬を正すと、妙なベクトルの信憑性が増すだけだろう。
俺は、今の話はこれで終わり、という風に咳払いをする。そして、空になった丼をトレイごと返却口に持って行った。そして予鈴が鳴り、生徒達は各々の教室に戻って行く。
――この時はまだ、本当に世界を滅ぼすことになろうとは、露ほども知る由はなかったのだ。
その日の放課後、俺はいつものように帰宅の途に着いていた。運動は嫌いだし、そんなことをしているよりも、やらなければならないことがあるしな。
そういうわけで、まだ日も落ちぬ夕暮れ時、我が遠江家に帰って来た。帰宅から晩餐まで、いつも俺は部屋に閉じ籠もり、ベッドの上で座禅を組み瞑想する。これで封印の強化、器の拡張が行われる。鍛錬とでも言うから、てっきり独り喧嘩でも始めるのかとでも思っていたのだろうが、そんなことはない。言ったろう、運動は嫌いだと。
荷物を適当に部屋の隅に放り投げて、まずは冷蔵庫から拝借してきたコーラを飲む。そして炭酸が抜けないよう蓋を閉めてから、右腕の聖骸布を慎重にほどいていく。見た目はただの少し黄ばんだ包帯だが、これがなければ大変な事になる。聖骸布が完全に取り払われると、そこには忌々しく禍々しい紋様が黒く描かれていた。
世界を取り囲む蛇、ひび割れる大地、そこから湧き出る悪魔ども、天から差す光明、そこから現れる翼を持つ人間達、燃える森、逃げ惑う動物達、悲嘆に暮れる人間達、希望に満ち溢れる人間達、そして、これら全ての光景の上を塗り潰すかのように、這いずり回るかのように交錯する無数の黒い帯。これが、俺が力を持つことを示す紋様だ。これは刺青ではなく、ましてやマジックペンで描いたというわけでもない。俺の右腕の皮を剥いでも、真っ赤な肉、真っ白な骨、そして真っ黒な紋様が残るだけだろう。紋様が、俺の肌ではなく、身体に刻み付けられている証拠である。
俺はベッドの上で座禅を組んだ。実は瞑目してイメージするだけでいいのだが、そこはまぁ、雰囲気というやつだ。
瞼が下り、暗闇の世界が俺を迎える。外界と俺とを繋げる無数の管、そして俺という器が、徐々に広がっていき、少し収縮、そしてまたゆっくりと膨張、というイメージを繰り返す。こうすることで、溢れ出しそうになる力を押しとどめ、制御することができるのだ。これを毎日継続すると、少しずつ、本当に微々たるものだが、着実に力を制御下に置けるようになってくる。
このままいけば、いずれこんな瞑想なんかしなくても、常に力を抑え続けることができる。ひいては、世界を壊さずに済む。
そう思ったその時、何かの激烈な破裂音が俺の鼓膜を叩いた。
思わず目を開けると、コーラが入ったペットボトルが木っ端微塵に砕け散り、中身が机を伝って床に滴っていた。
その光景を目にし、まず湧いたのは、零れたコーラを拭く義務感、ではなく、今し方起こった現象の原因への探求心、でもなく、自明でもある己の充溢せし力の漏洩に対する絶望だった。
つまり、俺は力の制御などできていなかったのである。
漏洩自体は過去にもあったから絶望するほどのことではないと思うかもしれないが、滑稽なことに、その漏洩した分の力が多くなっていれば、絶望するのも仕方がないと言えるだろう。過去に二度、漏洩は起こったが、そのいずれもが、せいぜいペンが独りでに跳ねたりする程度のものだった。それが、ペットボトルを木っ端微塵にするというのは、些か強まりすぎではないのか。俺自身の成長と比例して力も器も大きくなるようだが、力ほど器が大きくなっていないように思われる。このままでは、更に力が溢れ出て、いずれ世界を滅ぼす結果に陥ってしまう。だからこその、絶望である。
茫然としそうになりながらも、台所から布巾を持って来て机と床を拭く。それを適当に洗って、ふらふらと家を出た。
外では薄暗い闇が徐々に、俺の住む町を覆い隠そうとしていた。何から隠すのかは分からないが、或いは、俺から空を取り上げようとしているのかもしれない。
本当に、どうすればいいのだろう。そういったような事柄を漫然と考え漫然と歩いていると、自宅から随分離れた所に来てしまった。漠然とした感覚ではあるが、おそらく一、二〇分は歩いたのだろうか。ふと我に返れば、自宅から随分離れた所に来てしまった、というような状態なので、可及的速やかに帰ろうか、そう思った矢先、俺はここが見憶えのある地域だということに気付いた。無意識下で俺の中での最大の命題について自問自答を続けていた故か、俺の悩みとここ周辺の位置情報が鮮やかに結合を果たす。すなわち、この近くに俺の頭痛の種を解消するかもしれない手立てがあるのだ。そうと決まれば、親が何かしら言うかもしれないが、向かわない手はない。俺は絶望した心境に一縷の光が差したことに暫時の安堵を抱いていた。そして足取りは軽く、速く、目的地へとただ歩むのだった。
「なんじゃ、かような時間に突然訪ねて来たかと思えば、随分と小憎らしい表情をしおって。その顔を見たら気分が悪うなったわ、とっとと帰れ」
「……」
折角遠路はるばる訪ねて来たというのに(どこをどう歩いたかは記憶していないが)、この言い草では会話する気も無くなるかもしれない。だが、これが常の話し方であるため、割り切るしかない。そうでなければ、彼女とは付き合えないのだから。
俺は、その外見にはおよそ似つかわしくないその乱暴な口調に辟易することなく、常の如く、頭にあるふさふさしたその両耳をつまんでこねくり回してやった。
「はふぅ……ってやめんか馬鹿たれ! 儂をなんじゃと思っとるんじゃこの糞餓鬼めが」
そして、常の如く怒られた。
彼女の姿は何度見ても慣れない。そう思いながらその小さな身体を見下ろす。口調こそは老婆のそれだが、その外見は老婆とは遠くかけ離れていた。その見てくれは十歳ほどの少女で、紅白の巫女装束を身に纏い、頭には黄金の毛に覆われた三角の耳、お尻には同じく黄金の毛に覆われたふんわりとした尻尾が揺れている。
「それにしても、これでお稲荷様だって言い張られても、黙ってればただの可愛い女の子にしか見えないな」
「やかましゅうて悪かったのう」
狐の尻尾を不機嫌そうに揺らすこの少女が、俺が今いる神社に祀られているお稲荷様で、俺の力について教えてくれた、所謂お婆ちゃんの知恵袋でもある。初めて力が漏洩した時、この神社で普段信じてもいない神様に縋っていると、傍らに突然彼女が現れ、俺の力の本質について教えてくれたのだ。それ以来、彼女には何かとお世話になっているので、頭が上がらない。今回もお世話になるかもしれないので、更に頭が下がるだろう。
この人ならざる少女は、どういうわけか俺にしか認識できないらしい。それが俺の力によるものなのか、はたまた彼女の力によるものなのかは判然としないが、第三者が見れば、俺が何もない空間に話しかけているという事実に変わりはない。よって、ここに来る際はいつも人目を憚るのだが、彼女はどっちにしろ一緒だと一笑に付すのだ。
「褒めたつもりなんだけどな。ところで茜、今日ここに来た用件なんだが」
「手短に済ませろよ。もうすぐ神有月じゃし、儂は出かけにゃならんのでな。どうせまた、お主の力に関することなんじゃろ。えぇ?」
口を開けば喧嘩腰だが、ここはスルーしなければ会話が進まない。ちなみに茜とは、彼女のことである。出雲茜、それがこの見た目は少女、口を開けば老婆、の名である。かれこれ千年生きているのに、案外可愛らしい名前だと言ったら怒られた憶えがある。彼女の怒らない賛辞がなんなのか真剣に気になってくる。蛇足だが茜の声は、身体が少女である故か、声帯は成長しておらず、少女の声そのものである。当初は新鮮味がありすぎて腰を抜かしたが、今はもう大丈夫である。何が大丈夫なのかはよく分からないが。茜の容貌が少女である所以は、尋ねても明瞭な答えを返してくれたことがないため、訊くのは諦め、そういうものなのだと認識している。
ここで俺は、家で瞑想中に起こった事と俺自身の考えを伝えた。その間、茜は機嫌が悪そうに腕を組んでいたが、狐の耳はちゃんとこちらに向いていた。
「――それで、お主はどうすべきじゃと思うんじゃ?」
どうすればいいか悩んで相談に来たのに、それをそっくりそのまま返されれば二の句が次げなくなるのも道理であろう。
「ふん、阿呆めが。良いか。人にどうすればいいか訊く前に、まず自分がどうすればいいか考え、そしてその考えが正しいのか否かを訊きに来い。そうでなければお主は、儂の言うたことをそのまま鵜呑みにするじゃろ」
確かにそうかもしれない。が、それでも構わない、という思いが俺の胸中にはあった。それほど、俺は茜に信頼を寄せているのだ。心酔、というほどでは過剰だが、少し依存する程度なら、許されてもいいはずだと思う。だが経験上、ここで反論するとまた怒り出しかねないので、俺は曖昧に頷いた。
「首の動きだけでお主の真意が分かるかたわけ。人なら口を使うてものを言わんか。それに、少しくらい反駁せんか。どうせそうやっていつでもどこでも適当に肯定しとるんじゃろ」
俺の経験則も茜の前には無意味だったようだ。だが、反論したらしたで「ああ言えばこう言いおって、口先だけで儂に逆らおうなど千年早いわたわけ」などと言いそうだ。いや、絶対言う。結局、怒られずにことをやり過ごすのは不可能なようだ。そもそも、茜の元に来た時点で、怒られに来たようなものなのだが。
今度は否定も肯定もせず、頬をかいて誤魔化すように視線を逸らす俺を見、茜は機嫌を損ねたように鼻を鳴らした。
「良いか、その汚い耳かっぽじってよぉく聞けこの愚かにして愚鈍なる愚者めが。恐らくは、お主が憂えている通りの事が起こるじゃろう。それに今回どうにかなったとしても、今後同じ事が起こる。そのたびに、お主は儂の所に来て助けを乞うのか?」
「確かにそうかもしれないが、じゃあどうすればいいんだよ」
「そう急くなこのせっかちめが。どうしてお主は相手の話を吟味するということができんのじゃ。それじゃから儂の所に来て泣く泣く助けを求める破目になるんじゃろうが」
ならば最後の疑問文は一体何だったのだろう。先刻言われたことを実践すればこの辛辣な罵倒である。何かを言うごとに貶されている気がしないでもない。少女の姿で少女の声で老婆の口調で、罵詈雑言を浴びせかけられるのが慣れた暁には、何か失ってはいけないものを喪失していることだろう。
どうにも拭えない違和感を訴えさせるこの、矮躯に強大な力を秘める神様は、本来矮小なはずの器に、神様という力を抑え込む、いわば俺の理想的な姿でもあるのだ。果たして彼女の力と、ゆくゆくの俺の世界を壊す力、どちらが強いかは分からないが、彼女は俺の明確な目標となって眼前に聳え立っている。
茜はあろうことか賽銭箱の上にぴょんと跳び乗って胡坐をかき、いずこからか朱塗りの皿を出現させた。神酒が零れんばかりに満たされている。それを一口呷ってから、
「お主の力は儂と同じく強大、恐らくは、儂よりも恐ろしいものへと変貌するじゃろう。今、とりあえずは抑えたとしても、ゆくゆく、同じ事象に苛まれるじゃろう。そして、お主の力の性質は儂の稲荷としてのそれとは大きく異なり、どちらかといえば基督のものに近いんじゃろうな。だがそれはあくまで性質の話であって、旧約新約、いずれの聖書にも記載はなかろう。さて、基督教を持ち出した時点で察しはついておろうが、敢えて口に出して伝えようと思う」
そこで一拍置いて、酒をもう一口。俺は固唾を飲み下した。茜は俺の右腕の剥き出しになった紋様を一瞥して、
「まずどうすべきかを述べるとするならば、こうじゃ。――聖痕を刻め。確か、両の手首と両の足、そして力が抑えられたのを確認する為に脇腹じゃったか。加えて、手順を間違えるな。道具の形状は実際の刑に倣え。さすがに十字架は用意できんじゃろうからこの際構わん。不安なら、有名なあの文言でも唱えておけばよかろう」
世界を壊す者が、メシアの真似事とは随分粋なものだ。そして「我が神、我が神、何故私をお見捨てになったのですか(エリ・エリ・レマ・サバクタニ)」とは、それこそイエスのようで、俺が唱えるとさぞ滑稽に見えるだろう。目の前に神様がいるのに、俺を救おうと尽力してくれているというのに、どうして神は私を見捨てられたのですか、とは、笑止千万、ちゃんちゃら可笑しいではないか。そのような馬鹿馬鹿しい台詞は、たとえ俺が死のうと世界が終わろうと、口にすることは未来永劫必然完璧確実にないだろう。それほどに俺は茜に恩義を感じるし、崇敬してもいるのだ。
「なにが不安なものか。茜が俺のことを考えて言ってくれているのなら、それを信じずになんとする。俺がそれを唱えるなんて、恩を仇で返すようなものだろう?」
「ふ、ふん。口だけは達者になりおってこの若造めが」
どうやら照れてしまったらしく、目を逸らされる。中身こそあれだが、見た目は美しい少女なので、赤面する姿は(それが酒に酔ったせいか、俺の発言によるものかどうかはともかく)、なんというかこう、魅せられるものがある。それでも、外見年齢十歳ほどの少女に劣情を催すようなことはないのだが。
「そうと決まれば善は急げだ。といっても、俺が俺の落とし前をつけるだけで、善でなく、悪の潰滅って感じなんだがな」
「うむ、いくら早くやっても早すぎるということもあるまい。それと、儂がああせぇこうせぇと言っておいてなんじゃが、準備に関しては儂が引き受けよう。お主に任せて失敗されて、儂のせいにされてはかなわんからな。ま、先刻の言葉が本当ならば、そのようなこともなかろうが」
そう言って俺の決意を試すようにこちらを横目で見てくる。俺はただ正面から見返した。それに満足したのか、茜はにっと笑みを浮かべる。そして皿に残っている神酒を呑み干すと、ぺろりと舌なめずりをしながら賽銭箱から降り立つ。
茜は目を閉じ両手を組み、まるで何かに祈るような仕草を見せた。すると茜のお尻で揺れていた尻尾が九本に増えた。今のは、茜なりの精神統一か何かだろうか。目を開くと、先ほどの人間めいた幼けない眼からは打って変わって、針のような瞳が紅く光っていた。いや、光る、というのはあくまで俺の錯覚なのだろうが、それでもその眼は、その表現に値する美しさを備えていたのだ。強靭にして峻厳なる雰囲気を纏う、九尾の稲荷。
忌々しい力のお蔭か、なんとなくだが普段感じている神威が、今はっきりと周囲に張り巡らされたのを感じた。
綺麗だ、と、心の底から思う。
「さて、始めるぞ人間」
俺の中の何もかもを見透かすように、彼女は不敵に笑った。