序章ーはじまりー
まだ陽の昇りきらない暗がりの朝。春といってもまだ迎えたばかり、底冷えの寒さが身を燻る。こういう時は温かな布団の中で微睡みの夢に浸っていたくなるものだが今日だけはそんなことも言ってられない。この屋敷にお客様がお見えになるのだから。
いざっと心地良い布団をバサリと身から剥がして上体を起こす。あぁ、寒い寒い。ブルブル震える肩を抱いて立ち上がると木彫りの箪笥から着物を取り出す。さっさと着替えて動き出してしおう。きっとその方が温かい。
なんの音もしない静かな部屋の中、響くのは布の擦れる音と小さな私の息遣いだけ。
「さて、準備準備」
着物に着替え、髪も結い終わり化粧も終わると障子をそっと開けて新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。
また朝が始まる。
忙しい一日が幕を開ける。
今日はどんな一日になるだろうか。
楽しくなればいい。
小さく微笑みを浮かべながら部屋を出た一人の少女はこれから自分の身に降りかかる運命のことなど知る由もなかった。
ただただ、輝く日々を生きていただけなのだから。
トントントン。
軽い音が屋敷中に広がる。温かなでどこか懐かしい香りとほかほかと湧き起こる湯気の中に彼女は立っていた。
「おはよう、穂。今日はずいぶん早いんだね」
台所に立つ彼女を後ろからそっと抱きしめたのはこの広いお屋敷に住まうご主人。彼女の大切な旦那様だ。
「おはようございます。だって今日は徹さまの古くからのお友達がお見えになる日ですもの。準備は万端にしておかなくては」
「そんなに気を遣わなくても大丈夫だよ。インチキ占い師が一人来るだけさ」
「まあ、そんな言い方をして…」
クスクスクス、小さくおかしそうに笑う彼女の仕草に徹はやんわりと笑みを浮かべる。はたから見ても和やかな雰囲気。ここ、英家はご近所でもおしどり夫婦としてすこし有名だった。ここら一帯をまとめる心優しい藩主様に嫁いだ陽だまりのような町娘。いいとこのお嬢様でもない彼女だが周りの人たちに愛され、優しさと愛の溢れる環境の元育った彼女は誰に対しても愛を持って接することが出来る心も見た目も魅目麗しい女性へと成長した。そんな彼女が徹に見初められたのはもう3年も前のことになる。
”ドンドンドン”
屋敷の戸を大きくたたく音が響く。
「あら、もうお越しになられたのかしら?」
予定よりも随分と早い時間。濡れた手を手拭いで拭いながら門の方へ歩き出そうとしたが徹が彼女の腕を取ってそれを制す。その表情はいつものようなおおらかさはなく、少しこわばっているようにも見えた。
「徹…さ、ま…?」
「穂は広間の方で待っていてくれるかい?もしかしたら仕事関係の使者かもしれない」
「ですが…」
徹は彼女の返事を聞く前に歩き去ってしまった。そんな彼の後姿を見ながら小さく首を傾げた彼女だが台所の火を消して彼の言った通り広間で大人しく待つことにした。あの引っかかる表情についてはあとで聞けばいい。
そう、思っていたのに…