人魚の檻
『透明な海の中。波の振動さえ届かない程に深い場所。光も最早届くことはない。
その奥底で、彼女たちは静かに息づいていました。
海の底で、彼女たちは穏やかに、優しく暮らしていました。
本当に静かな凪の月の夜に、彼女たちは時として水底を離れて水面に昇って行きます。それは、彼女たちのちょっとした冒険でした。遠い昔は彼女たちの先祖はよく水面に顔を出したと聞きますが、今ではそのように人間に見つかる危険を犯してまで度々顔を出す事はできません。それでも、時として彼女たちにはどうしても堪えきれない衝動が襲ってきます。それは、月の光や空気の粒や、そういったものが彼女たちの中に昔から受け継がれている何かを騒がせるためだったのでしょう。
そんな時、彼女たちは人間に見付からないようになるたけ用心して、暗い夜の海へと昇って行くのです。
夜の闇とて月や星がある限り、海の底ほどに暗くはありません。彼女たちにとっては月の光はとても眩いものでした。その優しい光が彼女たちの滑らかな白い肌を滑るように流れていくと、彼女たちは心が弾み、力が湧いてくるのを感じました。海の底よりも軽くて柔らかい空気の粒は、吸い込むと胸の中できらきらとはじけます。そうして思う存分にそれらを味わうと、彼女たちはまた、陸地に憧れを持ちながら、深い深い海の底へと潜っていくのでした。
そんな彼女たちの一人が、ある日、人間に出会いました。』
ざざん、ざざん、と。絶え間なく潮騒が続いている。
バルコニーに置かれた椅子に座った私は、海辺を歩く長身の男の後姿を、ただ眺めていた。
秋も近づいた海は閑散としている。肌寒いと感じるようになるまでに冷たくなった潮風は、波を微かに荒くしていた。浜辺に散らばった貝殻や、遠く空高くで風に乗って進む海鳥の声。どれを見ても、微かな寂寥感がつきまとい、それこそが、この季節特有の物なのだ、といった男の言葉をなんとはなしに思い出した。
始終ここに座って潮風を受けているから、海の底のわかめのように波打つ髪は、絡まり合って吹く風に合わせて顔にまとわりつく。黒いものが視界を覆う度、私は煩わしくそれをぞんざいに払い除けた。
男は波打ち際に沿って歩く。長い足がつけた足跡は、途端に波が攫って行く。こちらを一度も見ることなどない。彼の視線は常に、遠い海の底へと向けられている。
舟さえ通ることのない海は、ただ青い地平線をそこに曝け出しているだけなのに、彼は何かを見出そうと、ずっとそちらを見つめている。ずっと、ずっと。
私は、半ばまどろむ様な倦怠感を感じながら、バルコニーの手すりに腕を乗せて、その腕に顔を寄りかからせて、そんな彼の後姿を、ずっと眺めていた。
突然、その辺りの空気をすべて引き裂くような、けたたましい、場違いな、無遠慮とも思えるような音がその場に鳴り響いた。潮騒も、鳥の声も全て打ち消すような、大きな音。彼はその音で、ようやく海から視線を逸らした。名残惜しげに踵を返して、こちらへ向かって歩いてくる。
海辺に立つ彼の家に。私の座る椅子のある、バルコニーに。
そして、彼は私の隣を横切って、側のテーブルの上に置いてあった目覚まし時計のスイッチを、静かに長い指で押す。
まるで今までのけたたましさが嘘だったように辺りには静けさが残り、耳の音でまだ煩く鳴る目覚まし時計の余韻を包み込むように、静かに潮騒が迫ってきた。
そのまま、彼は私に視線を向けることもなく、家の中に入って行く。私と彼と、2人分の食事を作るために。
私はただ、彼のその、背の高い背中を見送った。
「アイツが生きていられるのは、君のお陰だよ。本当に、助かってる」
そう言ったのは週末ごとに来る、彼の友人という男だった。いつも少しくたびれたスーツで、重そうな鞄を持って、でも、必ず週末にはここを訪れた。
私は彼の事は何も知らなかったけど、この男から仕入れた情報で、少し知ることができたのだ。
男は、人の良さそうな顔でにこにこと笑いながら、時々気遣わしげな視線を彼に送った。彼がまた、自ら命を絶とうとするのではないかと、見張っているように見えた。
目覚まし時計の音も、暇さえあれば海ばかり見つめていて、食事も睡眠も忘れる彼を心配したこの男が考えた事。人形のような表情をした彼は、お節介なこと男の言葉を反対もせず、賛成もせず、ただ煩わしい小言を耳に入れるのを厭うという理由だけで、この男の指図に従っていた。
彼は、元はこの男と同じ場所に勤めていたという。将来有望な、ビジネスマンだったと。絵を書く事が趣味で、よくここに遊びに来ていたこと。そんな事を、男は彼の後姿を見ながら私に語った。
私は彼の言葉を聞くことがなかった。彼はこの男の指図で私の世話をするけれど、私など目に入っていなかった。
私は、ちらりと部屋に飾ってある写真立てを見る。そこに映っていたのは、笑顔の女。波打つ髪は、私のようにわかめさながらにべったりと張り付かないで、ふわりと揺れている。甘い、幸せそうな笑みは、それを撮った人間に向けられているのだろう。この海を、この家を背にして、彼女は、とても幸せそうだった。
「ごめんね、せっかく綺麗なストレートヘアだったのに」
男が私に言った。彼女のような髪型にしてみないか、と私に誘いかけた男が。
夜、物音に目覚める時は、大抵彼が部屋を抜け出す時だった。
月の明るい夜が大抵で、彼はふらふらと海のほうへ歩いていく。細い体は頼りないシルエットとなって、薄く浮かび上がる。
私は灯りもつけないで窓に腕をもたせかけて、顔をその上に乗せて、彼の姿を目で追う。
彼は海辺を何度も何度も歩きながら、何かを探すように周囲を見渡す。時に、波が足を濡らすのを気にもせず、海の中へ突き進んでいく時もある。
でも、私は知っているから動かない。彼が決して、その先には行かない事を。
あの男がいれば別だ、彼はもっと深くまで進んで行くのかもしれない。だけど、彼を見ているのが私しかいないのならば、彼は先には進まない。
彼の黒い影は長い手で顔を覆って、膝を地に付けて這い蹲る。月に照らされた影絵の嘆きを、私はただ眺めている。
こうして暇をしているのもなんだから、と男が私にノートと鉛筆をくれた。何か、好きなものを書くと良いよ。
私には、彼のように絵は描けない。だから、私は文字を書くことに決めた。
彼らの読めない文字で。彼らの知らない話を書くことにした。
それは、海の底。彼らとは別の生き物の話。
彼らとは別の生き物と、彼らと同じ生き物が出会う話。
『月の明るい晩でした。
水面を彷徨っていた彼女は、二つの足を持った人間が歩いてくるのを見つけました。彼女はとっさに隠れたけれど、その人間は彼女の隠れているのに気付かないで、彼女の側に座りました。
逃げなければ、と彼女は思いました。人間に見つかってしまっては大変です。
だけど、その人間の顔は自分たちと全く変わらない気がして。少なくとも、目が二つあるのも、鼻が一つなのも、口が一つなのも一緒で。
だから、ふと、どうして逃げなければいけないか分からなくなりました。自分と相手との違いなど、尾ひれがあるか二本の足があるかと言う違いだけなので。
だから、彼女は恐る恐るですけど、話しかけてみたのです。その、人間に。すぐにでも逃げられる準備をしながら、それでも、好奇心に瞳を輝かせて___。』
彼の生活は単調だった。
朝、日の昇る頃に目覚めると、すぐに浜辺へ出る。私は目が覚めて、それを確認すると、男に指示されたとおりに、目覚まし時計を1時間にセットして、バルコニーのいつもの位置に座って彼の背を見ながら待つ。
目覚ましが鳴ると、彼は部屋に戻って来て、朝食の準備をする。機嫌の良い日はその後、何か四角い機械に向かって『仕事』をするが、駄目な時はまた、海辺をふらつく。
私は朝食を食べ終わるとすぐに正午に目覚まし時計をセットする。
そして、目覚まし時計が鳴ると、彼は今度は昼食を作る。
その後は、午前中と一緒。
私は今度は18時に目覚まし時計をセットする。そしてかれは夕食を作る。そのまま、入浴と身支度を済ませると、また彼は『仕事』か海に戻る。
そして、23時に仕掛けた目覚まし時計が鳴ると、ベッドに入って就寝。
この時だけは、私は目覚まし時計をかけない。男に指示されたとおり。彼は、寝れる時は寝たほうがいいのだ、と男は言った。
私はまさに目覚まし時計を掛けるためだけに、彼の家に居るようなものだった。それが、私に与えられた唯一の役割だった。
そもそも、何故私が彼の家にいるのかという問題だが、私は彼の家の居候なのだ。
月の明るい夜に、彼に拾われた。彼の失った物の代わりとして、そのまま家に居ついただけ。
私は、海で拾われた。
文字通り、海の中から。
彼の愛する人が掻き消えた、その場所から。
だけど、私は彼女ではなかった。だから、代わりにさえなれなかった。
だから、彼の目には私は映らない。
『人間は、始めはとても驚いていたようでした。だけど、彼女が恐れていたような事は起こらずに、人間は彼女を殺そうともせず、叫びもせず、物珍しそうに彼女を見ました。そして、今度は自分から色々と話しかけてきました。
彼女は人間の話がとても面白くて、もっともっと、人間について知りたくなりました。だから、彼女は約束をしました。次の日も、その場所で遭うことを。
人間は、次の日もやってきました。そして、彼女は、次の日も人間と話しました。』
男は彼が手首を斬ったり、海に向かって歩いたり、食事を抜かしたり寝るのを忘れたりしていると、本当に動揺する。文字通り、顔を蒼白にして。時にその手は震えだす。
ある夜、男は彼の寝顔を見ながら、ぽつりぽつりと話して聞かせた。
彼女が沈んだ夜のこと。
その日、彼と男と彼女は3人で、この男の別荘であるこの家に来ていた。
月の綺麗な夜だった。
男の誘いで、3人はバルコニーに座ってワインを飲んだ。男はそれがとても洒落た行いだと思った。彼と彼女は婚約者同士で、結婚も間近に迫っていて、祝福のつもりだった。
酔った彼女は波打ち際を歩き出す。彼が陽気にスケッチブックを取り出した。
男はただ幸福そうな2人を眺めていた。
月が、海を明るく柔らかく照らしていた。
暖かい夜だった。彼女はワンピースの裾をたくしあげ、笑いながら海の中へと入って行く。彼はスケッチブックを片手に、もう片手に鉛筆を持って、離れたところにいる彼女と話しながら、しきりと鉛筆を動かしていた。
そして、そして……。
歩いていた彼女は突然消えた。吸い込まれるように、まるで魔法のように。
月明かりに照らされた海の上、白い腕が、虚空を掻いた指先が残像のように一瞬残って、それさえすぐに海に飲まれて。
何が起きたか、2人とも全く理解できなかった。理解の範疇を超えていた。
一瞬で、彼女が消えた。幸福な空間の真っ只中にいた彼女が、瞬きをする瞬間のように短い時間であっさりと、消えてしまった。
2人が我に帰って海に駆け寄った時は、もう、彼女の姿はどこにもなかった。いくら探しても、波に攫われた彼女は、どこにも見当たらなかった。
「この辺りは、底が急に深くなっている場所だったのに」
知っていたのに、どうして自分は彼女の戯れを止めなかったのだろう?
男は苦しそうにそう言った。
その時以来、変わってしまった彼の後姿を見ながら。
波打ち際を彷徨う彼は、私を振り返らず、陸地を振り返らず、ひたすら海ばかりを冀う。影のようにひっそりと歩きながら。最低限の食事と睡眠の他は、いつも海に焦がれている。
彼女の消えた海から現れたとしても、彼女のように柔らかいふわりとした髪でもなく、幸福そうな笑みを浮かべる事のできない自分には、彼を振り向かせる事はできない。日々、私の視線は一方的に彼の背中を追うばかり。
一方通行の想いは身に重く、時に彼にとっては甚だ不当だと分かっていても、恨めしくなる。どうしてその視線を一瞬でもこちらへ向けてくれないのかと。そして、胸の奥底、肋骨の奥の方から、鈍い、漠然とした衝動が湧き上がる。それは、少しずつ胸の奥に溜まって、体に染み出してくる。だんだんだんだん、私を侵食する。
それは、段々と私の行動にまで、染み出してくる。
彼のいない彼の部屋を苛々と徘徊しながら、私は彼が海に魅せられて不在なのを良いことに、手当たり次第に彼の持ち物を漁りまわる。何か決定的な物を探し回っている。 彼に彼女が死んだのだと、もう戻ってこないと悟らせるために。
ふと、私は、机の隅に押し遣られていた彼のスケッチブックを手に取った。
そこで、私は見つけてしまった。自分の探していなかった物。逆の意味での決定的なもの。私が彼を傷つける動機となるに足る、充分なもの。それだけ、彼の彼女に対する想いに溢れた物。
ページを繰っても繰っても、彼女の姿が描かれていた。他のものなど入る隙間などないくらいに。彼女だけが描かれていた。
彼の心の中に、私の入る隙間など始めから作る気さえ彼にはない。
私はそれで、彼に視線を向けてもらえないことの仕返しをしようと決意した。彼の弱点など、もうとうに、気付いていた。
月の照らす浜の砂は、ゆっくり歩く私の足を微かに飲み込みながら延々と続いていた。
私は前方に揺れる長身の黒い影に向かって、ゆっくりと歩いて行く。彼女のものだったというワンピースを着て。彼女の真似事をした不器用な髪型で。
彼はこちらを向かない。私が隣に立っても、こちらを向かない。
ただ、海を眺めている。
海に焦がれている、ふりをしている。
それが、演技であると言う事を、私はとうに見抜いている。
大切なものを失って、正気を失っているふりをしているという事を。彼女の後を追って、自分も死にたいと思っているふりをしているという事を。
私は気付いている。
と、私は彼の隣に立って、囁きかけるような、淡々とした言葉で語った。
だって。本当に死ぬ気であるのならば、何故友人が来た時だけしか、自殺未遂をしないのかしら。
本当に狂ってしまっているのなら、何故あなたの瞳はそんなに苦悩に歪んでいるのかしら。感情を失った瞳じゃない。その目は、何かを恐れて、苦しんでいる瞳だった。
違う。と彼は叫んだ。
違う違う違う違う……。
悲痛な声が夜の海に響き渡る。つかまれた肩に食い込んだ指が、酷く震えていた。
彼が、初めて私を見た。恐怖に引きつった瞳で。
私はとてもとても嬉しくて、彼の視線が私に向いた事がとても嬉しくて、内心で得意になってさらに続けた。
ええ、違うのでしょう。友人を欺いたつもりでなく、貴方は自分を欺く道具に友人を使っているだけですものね。自分は彼女なしでは生きていけないと。彼女が死んだから、狂ってしまうのだと。彼女のためなら命も正気も惜しくはないと。そんな自己陶酔に溺れたいがために。友人の向ける不安な瞳は、あなたの気分を盛り上げるのには格好の舞台装置だった。
違う、違う、そんなんじゃない。
あなたはとても正気なのに。どんな日に海に行けば友人の目に不安定に映るか、海の中をどれくらい歩いたら死なないですむか、きちんと計算をしている___。
突然、破裂音がして、私は頬に酷い痛みを感じた。
荒い息をして、彼が私を睨んでいる。昏い、激しい感情を宿した瞳で。
だって、と彼は吠えるように言った。
だって、俺は、何もしなかった。あいつがいなくなるのを、いなくなっても、ただ呆然と立っているだけだった。あいつが全てだと思ってたのに。死ぬほど大切だと思ってたのに。なのに、どうして俺は狂わない? 変じゃないか。あんなに大切にしていた彼女がいなくなったのに、平然としている俺はなんなんだ? 本当に愛していたのに、彼女を失っても、命を絶つこともやっぱり恐ろしくて、狂うこともできない俺はなんなんだ? じゃあ、俺の彼女への愛は偽りだったのかと、そんな事は認められないじゃないか、無理にでも狂ったふりをしていればいつか本当に狂える日が来るかもしれないと、そうすれば彼女への愛が立証されるというのに、どうしてお前はそんな俺の企みを無に返そうとするんだ。
悪魔、と彼は私を呼んだ。憎憎しげな口ぶりで。
お前なんか拾わなければ良かったと。
私は唇にほのかな笑みが浮かぶのを感じた。悪魔、とは言いえて妙だ。こんなに私に相応しい言葉もない。
なんだ、壊れたいのなら、言ってくれればよかったのに。
私は、晴れ晴れと笑った。彼の前でこんなに清々しい笑みを見せたのは初めてだ。もしかすると、その表情は、少し彼女に似ていたかもしれない。あの、幸福そうな笑みに。
私なら簡単に貴方を壊してあげられたのに。
絶え間なく、潮騒の音が響いている。
私はふらふらと海辺を彷徨う長身の影をバルコニーの手提げに頬杖ついて見守っていた。冷たい風が頬を撫でる。パーマの落ちかけた髪は、そろそろもとの状態に戻ろうと頑張っている。
もう彼は、目覚ましがなってもこちらを振り向くことがないだろう。彼の心はもう、どこか彼方へ行ってしまった。
私は軽く目を伏せて思いを馳せる。
数ヶ月前の自分。彼に拾われる前の自分を。
海の底、月の光も、日の光さえも手の届かない場所で暮らしていた存在。月の明るい夜にだけ、海面に上がってきて月の光を浴びていた。そんな存在。
『彼女は人間がとても幸福そうに笑うのが羨ましくなって、人間に尋ねました。「どうしてあなたは、そんなに幸福そうなの?」すると、人間は答えました。
「私は、ある人から幸福を貰っているの。その人がいれば、私はいつでも幸福になれるの」
それを聞くと彼女はますます人間が羨ましくて、自分もそれが欲しくなりました。欲しくて欲しくて、たまらなくなりました。彼女は自分も幸福になって、人間のように笑いたかったのです。「それ、わたしもちょうだい」彼女は人間に言いました。「私のは駄目よ」人間は笑ってそう言いました。
断られてしまったので、彼女は仕方なしに、それを奪うことにしました。
油断している人間の細い足首に手を伸ばして、人間を暗い、暗い海の底へ引きずり込みました。
そして、彼女は手に入れたのです___。』
海鳥が遠くで鳴いている。
彼も、愚かだ。普通の人間と同じように涙を流して、深く悲しんで、それで万事を済ませてしまえればよかったのに。自分の愛の深さを過信して、より高次元の悲しみの表現を求めてしまった。それをするような性質の持ち主ではなかったのに。別に、愛の深さがそれイコール悲しみの深さではないのに、彼にはそれが理解できなかった。それでも、彼は狂うことができなかった。
彼を本当に狂わせることができるのは、他人の痛みではなく、自分の痛みだ。過度の身体的痛みを与えると、彼はあっさりと自我を手放した。そして、そんな彼の元には、もう友人の男も訪ねて来ない。
今、私は正気を失った盲目の男と、二人きり、海辺の別荘で静かに暮らしている。