雨の降る街
雨が降っている。
最初に頭に浮かんだのはそれだけだった。
降りしきる雨の中、私は街を歩いていた。
靴底が妙に重く感じる。
どこへ向かっているのかは分からなかった。
けれど、戻る場所だけはない気がした。
以前、どこかに帰っていた気がする。
玄関の形も、部屋の広さも、ぼんやりとは浮かぶ。
ただ、
そこにいたはずの誰かの姿だけが、
思い出せなかった。
周りを見渡すと、
建ち並ぶ家々は一様に窓を開けている。
灯も、人影も、
家の奥に確かにあるはずだと分かる。
けれど、雨音の向こうで、それらは遠く、
ぼんやりとでしか感じ取れない。
「おーい」
試しに声をかけてみる。
灯はそのままに、影は揺らめき、奥に引いた。
……。
少し、やりすぎたかもしれない。
そう考えていると、
ごそり、と音が響いた。
音を辿ると、窓から顔が遠慮がちに覗いていた。
にこやかな笑みを浮かべ、私を見ていた。
軽く会釈をする。
心が緩んでいく。
私はここにいていい。
そう、許された気がした。
雨は止む気配を見せなかった。
通りを歩いていると、
軒先から声が投げかけられる。
「今日はずいぶん降るねえ」
声の方を見ると、軒先で洗濯物を干す老人がいた。
「そうですね」
声をかけられたから、返事をした。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
「この分だと、三日くらいは続くかもしれん」
「三日?」
老人は肩をすくめる。
「まあ、今年は短い方だよ」
返事をしようとしたが、
すぐに雨音に紛れてしまった。
通りの向こうでは、
子供たちが水たまりを踏みつけている。
ぱしゃり、ぱしゃり、と軽い音が響く。
動きに合わせて、身体から飛沫が飛び散る。
「ほら、走ると危ないよ」
通りに面した窓から、女の人が顔を出す。
叱る声はやわらかく、どこか眠たげだ。
「だって、雨で重いんだもん!」
意味の分からない返事に、
女の人は困ったように笑った。
「ほら、もうすぐご飯だから」
「はーい」
子供たちは素直に家へ戻っていく。
靴底にまとわりつくものを、気にする様子もない。
自分も、子供の頃はこういうものだった気がする。
ふと、空腹を覚えた。
そういえば、朝から何も口にしていない。
近くの家から、
湯気のようなものが立ち上っている。
匂いは、よく分からない。
それでも、不思議と嫌な感じはしなかった。
「……後で、何か食べよう」
そう呟いた自分の声が、
雨音にすぐ溶けていく。
街は、変わらずそこにあった。
雨の中、形を保ち、
人々はそれぞれの暮らしを続けている。
——それが、当然のことのように。
私はその中を歩きながら、
なぜか、
どこにも行く必要がない気がしていた。
——
通りを折れ、小道に差し掛かったあたりで、
我慢できない空腹に襲われた。
喉も……ひどく乾く。
顔を上げると、
「飯」とだけ描かれた暖簾が垂れていた。
暖簾は風もないのに、少しはためいている。
文字は掠れ、どこか投げやりだ。
それでも、不思議と目を引いた。
軒下に立つと、雨音が少しだけ遠のく。
中から、とんとんとん、
とリズミカルな音が刻まれている。
人の声はない。
暖簾に手を伸ばしかけて、少しだけ迷う。
開いているかどうかより、
ここに入っていいのかが、分からなかった。
けれど、空腹は思考より正直だ。
胃の奥が、きゅうと縮む。
私は暖簾をくぐった。
中は思ったよりも狭く、
木のカウンターと、
奥に小さな竈がひとつあるだけだった。
客の姿はない。
湯気の向こうに、人影がある。
「もし」
一緒の静寂。
「いらっしゃい」
声は低く、落ち着いていた。
顔はよく見えないが、
そこに“誰かがいる”という事実だけで、
妙に安心する。
「何にする?」
問いかけは簡潔だった。
献立を示すものは、どこにも見当たらない。
「……何が、ありますか?」
そう返すと、少し間があった。
湯の沸く音が、その沈黙を埋める。
「今日は、あったかいものだけだよ」
それで十分だった。
私は頷き、カウンターに腰を下ろす。
しばらくして、
木の器が、ことり、と静かに置かれた。
立ちのぼる湯気が、視界を白くする。
どこか懐かしい匂いがした。
器には、
いくつもの野菜や何かが浮かぶスープがあり、
食欲がそそられる。
ひと口すすると、
熱が、喉から身体の芯へと染み渡っていく。
——ああ、と思う。
外では、雨が変わらず降り続いている。
けれど今は、
その音さえ、遠い出来事のようだった。
——
だんだんと街に暗がりが増えてきた。
ふと、自分に今日の寝床がないことに気付く。
探すべきなのだろう。
窓に灯る明かりを頼りに彷徨い歩く。
一軒、宿と思しき構えをした建物が見える。
「……あれは?」
確信はない。だが、自然と足が動く。
あれが今日の棲家であると。
「一人、泊まれますか?」
玄関を開け、その場で声を落とす。
返事はない。
もう一度と、吐き出しかける。
「……一人ですね」
澄んだ声が奥から反響し、私に染み渡る。
そろり、と人影が現れる。
女だった。
年の頃は分からない。
若いようにも見えるし、そうでないようにも見える。
灯りの加減か、雨のせいか、よく分からない。
深い色の衣をまとい、
じっと、こちらを見ている。
「……泊まれるなら、それで」
女は小さく頷く。
「部屋は空いています。
食事は、もうお済みですか?」
「はい」
それだけで十分らしい。
名前……は必要ないのか。
そう思った瞬間、
胸の奥に小さな違和感が生まれた。
普段なら、自分から名乗るのだろうか。
それとも相手が尋ねるのを待つのだろうか。
そのどちらも、思い出せなかった。
そう思ったはずなのに、
なぜそう思ったのかは、すぐに分からなくなった。
女は踵を返し、奥へと歩き出す。
「こちらへ」
促されるまま、後に続く。
廊下は細く、板張りの床がピンと張り詰めている。
歩くたび、ぎしり、と鈍い音が足元で鳴った。
途中、いくつかの扉を通り過ぎる。
どの部屋からも、人の気配は感じられない。
だが、空っぽだとは思わなかった。
ここにも、誰かの暮らしがある。
今はただ、眠っているだけだ。
突き当たりの一室で、女は立ち止まった。
「ここです」
扉を開けると、
小さな部屋に、ベッドと低い机、
それから寝巻きが一組。
窓は小さく、
外の雨はぼんやりとした影に変わっている。
ここで……。
「……十分です」
思わず、そう言っていた。
女は部屋の中へは入らず、
戸口に立ったまま言う。
「では、ごゆっくり」
「分かりました」
言葉を交わすたび、
自分がこの場所に溶け込んでいく感覚があった。
引き戸が静かに閉まる。
女の足音は、すぐに雨音に紛れて消えた。
ひとりになった部屋で、
私はその場に立ち尽くす。
不安は、ない。
ただ、少しだけ不思議だった。
なぜ、ここまで自然に受け入れているのか。
椅子に腰を下ろし、ベッドに手を触れる。
乾いていて、温もりが残っていた。
シーツには、他人の形の癖がある気がして、
纏わりつくシーツを払うように、
手を引き抜きかける。
だが、それを嫌だとは思わなかった。
その事実に、
自分の中で当然のように収まっていることが、
なぜか、心地よかった。
ただ、手首だけ妙に重かった。
横になり、天井を見上げる。
木目の隙間から、微かに灯りが漏れている。
雨音が、また少し強くなった。
ぽつ、ぽつ、から、
ざあ、という連なりへ。
街は眠らない。
雨の中でも、人は暮らしを続けている。
その一部として、
今夜の私は、ここにいる。
瞼が落ち、
意識がゆっくりと沈んでいく。
夢を見る前に、
ひとつだけ、思った。
——もし、明日も雨が降っていたら。
その続きを考える前に、
私は眠りに落ちていた。
雨音に包まれながら。
——
こんこんこん、
扉を叩く音で微睡から引き上げられる。
すぐには、身体が動かなかった。
夢の縁に、まだ指先が引っかかっている。
もう一度、こん、と乾いた音がした。
強くはない。急かす気配もない。
「……はい」
返事をするつもりはなかった。
ただ、
身体がいつの間にかその問いかけに反応していた。
「朝食の準備が出来ました」
女の声。昨晩の彼女だろうか。
もぞもぞと身を捩り、頭をもたげ上げる。
包んでいた布は滑り落ち、軋む身体が軽くなる。
眠りから私を捉えようとするかのごとく、
ベッドに着いた手がシーツに沈み込んだ気がした。
ぬかるんだような感触が一瞬だけ掌に残る。
「今、行きます」
そう返すと、扉の向こうで気配が一歩遠のく。
足音は、昨夜と同じように雨音へ溶けていった。
顔を洗おうとして、タオルを探す。
机の上に、きちんと畳まれて置かれていた。
タオルを手に取り、頬を拭う。
じんわりとした重みを手に感じ、心地が良かった。
身支度を整え、扉を開ける。
廊下の空気は、夜と変わらず生暖かい。
雨は、まだ降っているらしい。
案内されるまま、食事処へ向かう。
昨夜通った廊下と同じはずなのに、
少しだけ長く感じられた。
食事処には、すでに湯気が満ちていた。
低い天井の下、いくつかの卓が並び、
そのいくつかには、人の姿がある。
昨夜はいなかったはずなのに、
今は、皆そこにいる。
静かな声で話す者。
黙々と器を傾ける者。
誰もこちらを気に留めない。
女が一つ、席を示す。
「こちらへ」
腰を下ろすと、ほどなく器が置かれた。
他の机に残された器を手に取り、
女はそのまま立ち去っていった。
白い湯気が立ちのぼり、
鼻先をくすぐる。
見覚えのある献立だ。
野菜が入り、汁気の多い、素朴なもの。
「いただきます」
自然と、そう言っていた。
匙ですくい、口に運ぶ。
温かい。
身体の内側に、静かに広がっていく。
味は……よく分からない。
だが、身も心も確かに満たされていく。
もう一口、汁を啜った。
汁が口に触れるたびに、
身体はそれを吸い込んでいく。
器の中身は、いつの間にか少なくなっている。
匙を動かした記憶は曖昧だ。
周囲の人々は、
食べ終えると静かに立ち上がり、
雨の音に吸い込まれるように去っていく。
挨拶も、別れの言葉もない。
器を持ち、最後の一口を飲み干そうとする。
片手では持ち上がらず、両手で包むように支えた。
それでも、不思議とは思わなかった。
縁に口を付け、残りをゆっくりと吸い込む。
「ごちそうさまでした」
声に出すと、
それは湯気に溶けて、すぐに形を失った。
女が近づき、器を下げる。
その指先が、ほんの一瞬、
私の手に触れた。
冷たくも熱くもない。
だが、確かに“触れられた”感触が残った。
「今日は、どうなさいますか」
投げかけられた問いは、
私を通り越したような気がした。
「……少し、外を」
雨音に誘われるように、
宿から外に足が動いていった。
降りしきる雨の中、私は街を歩きだした。
歩くたびに、乾いた靴が重みを増していく。
「おーい」
声を投げかけられる。
音を辿ると、窓に顔がもたれかかっていた。
にこやかな笑みを浮かべられ、
私も頭を深く下げる。
通りを歩いていると、軒先に老人が佇んでいる。
「あと二日ですか?」
老人は頷き、肩をすくめる。
話を続けようとしたが、
老人はこちらを振り向かなかった。
通りの向こうで、
ばしゃん、ばしゃん、と音が響く。
何かの動きに合わせて、身体から飛沫が飛び散る。
「うわっ」
何者かの悲鳴が上がる。
気付くと、小道には男がいた。
巻き上げられた飛沫から、
身を捩るように駆け出している。
水たまりを跨ぐたび、
靴底が空ぶっているように見える。
子供たちから離れた男は肩を上げ下げして、
喘いでいる。
一瞬、男と目が合った気がした。
男のくっきりとした輪郭に、
こちらを引き寄せられそうになる。
ゆっくりとした足取りでこちらに近寄ってくる。
私は立ち止まったままだった。
「すいません。ここって、どこでしょうか?」
少し早口だった。
ただ、そこに感情の揺れは見えない。
男は目を見開き、私を捉えて離そうとしない。
「……街、です」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
男は一瞬、きょとんとした顔をする。
それから、困ったように眉を寄せた。
「いや、それは……そうなんですけど」
少し間を開けて、
男は歯を僅かに打ち鳴らしながら続ける。
「名前、みたいなものは……」
男は名前を尋ねたあと、
返事を待たずに、靴底を拭い、手を払った。
名前……。
記憶をたどろうとするか、
なんの引っ掛かりもない。
「……」
私は首を振るしかなかった。
手を擦り合わせながら、男は俯き、押し黙る。
少しして、
頭を振り上げ、私の目をじっと見つめてくる。
「あっ、もしかして、あなたも旅の人?」
ここを訪れてから、考えたことは一度もない。
……訪れる?
自分の中に浮かんだ言葉を、
上手く飲み込めなかった。
だが、ここの住人ではない。
理由のない確信だけはあった。
「……たぶん」
自分が思うよりも掠れた声で、小さく応えていた。
すると、男の口角が少し上がり、
一歩、二歩とこちらに歩みを進めてくる。
足を踏み出すたび、男の身体はゆらゆらと揺れる。
それは、雨のせいだけではない気がした。
「……よかった。
あの、宿って、どこにありますか?」
雨音に混じって、男の問いかけは、確かに届いた。
「……宿、ですか」
自分の口が動いたことに、少し遅れて気付く。
つい先ほどまで、私もそこにいたはずなのに、
場所を思い浮かべようとすると、
思い出せるはずの道筋がぼやけていく。
男は身を乗り出すように、私の返事を待っている。
期待とも焦りともつかない光が、
その目の奥にあった。
「ええ。さっきから、
ずっと歩いてるんですけど……」
言葉を切り、男は喉を鳴らす。
「どうにも、それらしき場所が見当たらなくて」
それは、奇妙な告白だった。
けれど、この街では、
取り立てておかしなことでもないように思えた。
私は、来た道を振り返る。
雨に濡れた石畳は、どこまでも同じ色をしている。
窓の灯りも、人の気配も、少し前と変わらない。
「……あそこ、だったと思います」
言いながら、指さした方向に確信はなかった。
ただ、身体が覚えている重みだけが、
そちらを向いていた。
男はその先を見つめ、
ほっとしたように息を吐く。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる仕草は、
街の人々とは少し違って見えた。
髪が額に不自然に張り付き、
雫が雨に紛れて落ちる。
「あの……案内していただくことは、なんて」
震える声だった。
一瞬返事に詰まる。
だが、断る理由は見当たらない。
「ええ」
短く答えると、男は小さく笑った。
それは、
雨の中で初めて見る、はっきりとした感情だった。
先を歩く私の背後から、
ぐちゃ、ぐちゃ、という音が聞こえる。
振り返らずとも、
男が付いてきていることは分かった。
音は近くなり、遠くなり、
まるで水面に打ち寄せる波のようである。
目の前には、私の住処があった。
立ち止まる私に、男がお辞儀をする。
「ありがとうございます」
「……いえ」
何かを言いかけるが声が出ない。
代わりに、何かを求める感覚だけが残った。
だが、抗いがたい、というほどのものでもない。
ただ、そうなる気がした。
「私は——」
男の声が遮る。
「あの……お名前は?」
——名前。
なぜ、同じ問いかけを繰り返すのだろう。
ただ、その言葉に反応するように、
腕、手首の辺りがひどく重く感じた。
慣れないことをして疲れたのだろう。
軽く会釈をすると、足が動き出した。
慌てた様子で、
男は再び深いお辞儀を繰り返していた。
歩くたびに、雨は私を包み込み、
耳に残る男の声が流されていく。
——
「飯」と描かれた暖簾を潜る。
いつの間にか、開かれていた入り口を跨ぎ、
私の席に向かう。
「……」
腰掛けた途端に、
湯気の向こうから器が差し出される。
「……」
ごとり、
と置かれた器から真っ白な湯気が立ち上っている。
一口すすろうとする。
口に運ぶことが出来ない。
身体が右に傾き、匙が持ち上がらない。
器に顔を預ける。
器の縁が、頬に触れている。
熱はもう、はっきりとは分からなかった。
ただ、
白い湯気だけが視界の中でゆっくりと揺れている。
雨音は、ここには届かない。
いや、届いているのかもしれないが、
それ確かめようとも思わない。
身体が、少しずつずれていく。
右に傾いたまま戻らないのは、
重さの問題ではない気がした。
何かがぶら下がっている。
店の奥で、湯の沸く音がした。
どん、どん、どん、叩くような音もする。
客の気配がないような気もするし、
ずっとそこにあるようにも思える。
——あぁ。
その言葉だけが、喉の内側に残っている。
意味はもうない。
けれど、消えることもない。
器に触れたまま、視界が少しずつ傾く。
天井の木目が、ゆっくりと横に流れていく。
雨が降っている。
たぶん、ずっと。
街はそこにある。
窓は開いている。
人は暮らしている。
呼ばれれば、返事をしてしまうだろう。
案内を頼まれれば、歩いてしまうだろう。
ただ……名前、それだけが。
器の縁から、力が抜ける。
雨に流されていく。
最後に残ったのは、
満たされた感覚だけだった。
それが何によるものかは、
もう考えなくてもよかった。
——あぁ。
——
雨の中をぼんやりと彷徨う。
辺りに灯りはないはずなのに、
引き寄せられるように、足が動く。
暗がりと雨音で、どれだけ進んだかが分からない。
ふっ、と鈍い光が差し込む。
目の前には、
いつからか帰ることになっていた場所があった。
歓迎するかのように開いた口を通り過ぎる。
玄関に降り立つと、
ずるり、とした音と共に何かが現れる。
「……」
床にまで垂れ下がった袖を持ち上げ、
細長く続く廊下をそれが指さす。
独り、廊下を歩くたび、
みしり、と軋む音が足元で鳴った。
途中、いくつかの扉を通り過ぎる。
人の気配がする。
部屋の片隅でうずくまる人がいた。
私の足音に反応するように、
薄暗い部屋に目だけが浮かぶように現れる。
視線が私とぶつかると、その人は顔を上げた。
そこには、あの男がいた。
「……こんばんは」
会釈をし通り過ぎようとする。
「あの……少し話を……」
壁を手に掛けながら立ち上がった男は、
口をもごもごと動かしている。
窓を叩きつける雨音に、男の声が紛れていく。
気付けば、私は男を視界から外し、
廊下の奥へと足を進めていた。
「ちょ、ちょっと待って——」
ずりゅっ、
と滑るような音と共に右腕を掴まれ、
引き寄せられる
掴まれた箇所に、遅れて確かな熱が滲んできた。
腕をまとっていた布が滑り落ちていくのを感じた。
首を回すと、男が隣にいた。
しかし、男の視線は私には向いていなかった。
「……すいません、つい」
掴まれた腕が、
男によりゆっくりと元々あった場所に下される。
手を離したかと思えば、
私の行手を阻むように、男は正面に躍り出てきた。
その顔はひどく青白く、唇はひび割れている。
「それ——」
男は震える手で、
ついさっきまで掴んでいた箇所を指差している。
暗がりで、指し示す先はよく見えない。
「もしかして」
男は咳払いをし、しわがれた声で言葉を続ける。
「レノールさん、ですか?」
レノール——知らない名前だ。
知らないはずなのに、
その名前だけは雨音より近く聞こえた。
呼吸が一瞬止まる。
何かを胸の奥で疼いた。
だが、男の声は雨音の向こうへ遠ざかり、
再び呼吸が動き出す。
ただ、その言葉だけが頭にこべりついたまま、
流れ落ちなかった。
だからといって、
私の中で何かが変わるわけでもなく、
正面に立つ男を避け、私は寝室へ向かった。
なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。
通り過ぎながら、男の顔を一瞥する。
その顔には、いつの間にか僅かな色が戻っていた。
それから振り返ることも、
男に引き止められることもなく、
私は部屋にたどり着いた。
今日は疲れた。
投げ出した身体がベッドに埋まる。
微睡が私を浸していき、意識を明け渡す。
頭の中で、誰かの名前だけがこだまし続けていた。
——
がたがたがた、何かを揺らす音で目が覚める。
……まだ起きる時間ではないはずだ。
しばらくの静寂。
なんだったのだろう、まあいいか。
がん、
と何かが打ち付けられる音に身体が硬くなる。
扉の方から軋む音が響く。
鍵は掛けたはず。
そんな願いも虚しく、
床を踏み締める音が近づいてくる。
枕元で音がパタリと止む。
逃げたい。
だが、被さった布団で、思うように動けない。
急に身体から重力を感じなくなる。
「ここから、逃げましょう」
薄く開けた視界の先には、
目の下にクマをたたえた男がいた。
逃げる、なぜ?
ここは私のいるべき場所なんだ。
放って置いてくれ。
身を守るために、身体をくの字に丸める。
身体を動かすたびに、
崩れてしまいそうな感覚に襲われ、
悲鳴をあげそうになる。
「あぁ……動くなよ……くそっ!」
男は悪態を吐き捨てている。
ベッドがさらに沈み込むのを感じる。
止めろ。
そんな希望は通じることはなく、
身体が布で覆われ、
よじられ、包まれていくのを感じる。
抵抗しようとする、が身体は言うことを聞かない。
「ふー」
息を吐き出す音。
次の瞬間、身体が浮き上がる。
私は滑り落ち、捉えられる。
頭はごつごつとした生ぬるい壁に押し当てられ、
何も見えなくなる。
上下に揺れだした。
揺れに合わせて、身体から何かが落ちていく。
暗闇の中、耳でしか世界を見ることが出来ない。
男の荒い息遣い。
リズミカルに響き渡る、ぬかるみを蹴り上げる音。
時折、左右に振られる感覚を味わいながら、
私はじっとすることしか出来ない。
そういえば……雨音が少ない、そんな気がする。
揺れるたびに、何かが落ちていく。
その度に身体が軽くなる。
揺さぶられるたびに、何かが抜けていく。
どれだけ身体から出ていったのか、分からない。
気づくと身体が投げ出され、宙を舞っていた。
ほんのりと明るんだ空と地面が視界を巡る。
次の瞬間、地面が迫り、
身体はそのまま叩きつけられた。
横たわった視界は、そのまま地面を映している。
身体を捩ると、
触れた場所からぬるりとした感触が返ってきた。
滑る地面の上で、男の姿を探す。
視界の端に、人影があった。
男だった。
顔を地面に突っ伏したまま、微動だにしていない。
しばらく、何も動かなかった。
雨音だけが、遠くでわずかに響いている。
やがて、男の指先がわずかに動いた。
ゆっくりと手を地面に突き立てる。
何かを吐き出すように咳き込みながら、
身体をゆっくりと地面から剥がしていく。
顔を上げた男の姿は、記憶とは違っていた。
髪には茶色いものが絡みつき、
服は垂れ下がっている。
その姿を見ても、不思議と恐怖はなかった。
ただ、先ほどまで私を運んでいた男が、
地面の上に倒れていた。
その事実だけが、妙にはっきりと残った。
「大丈夫ですか!?」
男はそう言うと、
ゆっくりと身体を起こし、
おぼつかない足取りでこちらに近寄ってきた。
「……」
唇を噛み締めながら、
男は私の身体を見つめていた。
何かを言おうとして、
言葉を飲み込んでいるようだった。
雨はもう降っていない。
身体はどうしようもなく軽かった。
こんな時になって、
初めてその男のことを知りたいと思った。
「……あなたは?」
自分のものとは思えない、ひび割れた声がした。
男は目を大きく見開いた。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「私は……あなたを探すように……頼まれた者です」
誰に、そう言いたかったが声が出ない。
ゆっくりとこちらに近づき、
私の右腕を優しく掴む。
その手つきに、覚えのある感覚があった。
以前なら、誰かに触れられることなど、
気にも留めなかったはずなのに。
男の視線が、私ではなく、
その先へ向いていることに気付く。
右腕が視界に映り込む。
そこには、私が知っているはずの腕があった。
けれど、何かが違った。
指先から、薄い膜のようなものが剥がれている。
雨に溶けた跡のように、
ふやけて、崩れ掛けていた。
崩れかけた手首の奥で、銀色のものが光った。
ブレスレットだった。
私の視線に気づいた男が声を絞り出す。
「それ……」
男は震える声で続ける。
「それは……あなたのものです」
「ずっと、
あなたが持っていたものだと……そう聞きました」
男の言葉を頼りに記憶を辿る。
だが、何も見つからない。
思い出せないことに、少し寂しさを感じた。
だけど、胸の奥に空いていた場所へ、
何かが収まった気がした。
私はレノール。それだけで十分だった。
そう考え、ふと気付く。
——名前。
「名前……あなたの名前は?」
私の視界に合わせるように、男はかがみ込む。
「私は……ライルです」
久しぶりに。
そんな気がした。
「ライルさん。
これを」
崩れかけた手首からブレスレットを取り出し、
彼に手渡す。
「お願いします」
彼は何も言わず、それを受け取った。
その手だけが、強く握り締められている。
欠けていく視界の中で、
彼は肩を震わせ俯いている。
「ありがとう」と伝えたかった。
もう、声も出ない。
彼に触れようとした。
いつものように、手を伸ばしたつもりだった。
けれど、指先に返ってくるものはなかった。
顔を上げた彼と視線が交わる。
私はただ首を振ることしか出来なかった。
何かを言いかけ、口を紡ぐ。
そのまま彼は立ち上がり、私を背に向け走り出した。
遠ざかっていく背中を眺めながら、
欠けていく視界の中で、私は最期に、
——あぁ、と思った。
読んでいただき、ありがとうございました。
自分のキャラクターを使った短編です。
これは、普通の冒険譚だと思っていたけど──たぶん僕だけがそう思っている
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