されど商隊は行く
上空は見事な星月夜で澄み切った大気に星は瞬くこともなく、ちょうど月齢3日目の月が中天にかかっていた。
砂漠の夜は静寂というより、音がすべて吸い込まれていくような深い沈黙に満ちている。ラクダの吐息さえ、どこか遠くの出来事のように感じられた。
隊商の一行から少し離れた場所で、青年サミールは砂の上に腰を下ろし、月を見上げていた。彼は見張り役でもなければ、特別な使命を帯びているわけでもない。ただ、眠れなかった。
理由はわからない。だが胸の奥に、砂粒のように小さく、しかし確かに存在するざらつきがあった。
砂漠の冷気が頬を撫でる。遠くで風が砂丘を削る音がした。
サミールは肩にかけた薄布を整え、背後に広がる隊商の影を振り返った。荷馬車の影、積まれた絹の包み、香辛料の匂い。どれも見慣れたものだ。
だが今夜は、それらがどこか現実味を欠いて見えた。
「眠れないのか、サミール」
背後から声がした。振り返ると、隊商の古参である年配の男、バフティヤールが立っていた。月光に照らされたその顔は、皺の一本一本までが砂漠の地図のようだった。
「ええ、少しだけ」
「砂漠では理由のない不安ほど厄介なものはない。放っておくと、夜明けまでつきまとってくる」
バフティヤールはサミールの隣に腰を下ろした。砂がわずかに沈む。
「理由がないわけじゃない気もします。ただ、言葉にできないだけで」
「言葉にできないものほど、砂漠ではよくあることだ」
バフティヤールはそう言って、腰の水袋を差し出した。サミールは礼を言って受け取り、一口だけ飲んだ。冷たさはないが、喉を通る水は確かに生き返る感覚をもたらした。
「足跡を見たか」
「足跡?」
「昼間、砂丘の北側にあったやつだ。人のものではなかった」
サミールは眉をひそめた。
「獣の足跡なら珍しくないでしょう」
「そうだが、あれは獣でも人でもない。形が妙だった。まるで……砂そのものが歩いたような跡だった」
サミールは笑おうとしたが、喉の奥でその笑いは消えた。
砂そのものが歩く。そんな話は聞いたことがない。だが砂漠には、説明のつかない現象がいくつもある。蜃気楼、砂嵐、夜にだけ現れる光の帯。
そして、旅人たちが語り継ぐ「砂の影」。
「迷信ですよ」
「迷信ならいいがな」
バフティヤールは立ち上がり、隊商の方へ戻っていった。
サミールは再び月を見上げた。
胸のざらつきは、さっきよりも少しだけ大きくなっていた。
翌朝、隊商は夜明けとともに出発した。空は薄い青に染まり、東の地平線から太陽が顔を出す。
砂漠の朝は冷たく、そして一瞬で熱を帯びる。
サミールは荷馬車の横を歩きながら、昨日の足跡のことを考えていた。
バフティヤールが言った「砂そのものが歩いたような跡」。
そんなものが本当にあるのか。
「サミール、ぼんやりしてると置いていくぞ」
隊商長の女性、ライラが声をかけてきた。彼女は鋭い目つきをしているが、判断は常に冷静で公平だった。
「すみません。少し考え事を」
「砂漠で考え事は危険だ。足元を見ろ。砂は人の心より気まぐれだ」
サミールはうなずき、歩調を整えた。
そのときだった。
風が吹いたわけでもないのに、砂丘の斜面がざわりと揺れた。
まるで何かが、砂の下を通り抜けたように。
「見たか」
ライラが低くつぶやいた。
サミールは息を呑んだ。
砂が、動いた。
「……あれが、砂の影?」
「名はどうでもいい。問題は、あれが私たちの進路を横切ったということだ」
隊商は足を止めた。
砂丘の斜面には、確かに跡が残っていた。
だがそれは足跡ではなく、波紋のような模様だった。
砂が一瞬だけ液体になったかのような、奇妙な曲線。
サミールは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
隊商は進路を変え、砂丘を大きく迂回することにした。
だが迂回しても、砂の揺れは何度か現れた。
遠くで、近くで、時には隊商の真横で。
「追われているようだな」
バフティヤールがつぶやいた。
「追われている?」
サミールは思わず聞き返した。
「砂の影は、動くものに興味を持つ。特に、音と振動にな」
サミールは自分の胸の鼓動が早まるのを感じた。
砂の下に何がいるのか。
それは生き物なのか、自然現象なのか。
誰も知らない。
だが確かなのは、
砂漠が彼らを見ている
ということだった。
その夜、隊商は岩場の近くに野営した。砂よりも固い地面なら、砂の影も近づきにくいと考えたのだ。
サミールは焚き火のそばで、砂漠の闇を見つめていた。
昼間のざわめきが嘘のように、夜は静かだった。
「怖いか」
バフティヤールが隣に座った。
「怖いというより……気になるんです。あれは何なんでしょう」
「砂漠そのものだよ」
サミールは目を瞬いた。
「砂漠は生きている。風も、砂も、熱も、冷気も。すべてがひとつの大きな生き物のようなものだ。
あれは、その呼吸のようなものだ」
「呼吸……」
「人が理解できるとは限らん。だが、害を加えるつもりがないなら、砂漠もまた害を加えはしない」
サミールは胸のざらつきが、少しだけ和らぐのを感じた。
砂の影は脅威ではなく、ただ砂漠の一部。
彼らが通り過ぎるのを、ただ見ていただけなのかもしれない。
サミールは夜空を見上げた。
月齢4日目の月が、昨日よりも少しだけ太っていた。
翌朝、隊商は再び歩き出した。
砂の影は現れなかった。
砂漠は静かで、ただ広大だった。
サミールは歩きながら、胸のざらつきが消えていることに気づいた。
砂漠は何も語らない。
だが、語らないからこそ、そこに確かな答えがある。
「サミール、急げ。次のオアシスまではまだ遠いぞ」
ライラの声が飛ぶ。
「はい、すぐ行きます」
サミールは軽く息を吸い、砂の匂いを胸いっぱいに満たした。
砂漠は今日も生きている。
そして彼らもまた、その上を歩き続ける。
旅は続く。
砂の影とともに。




