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サンザシの渇望

作者: Ono
掲載日:2026/03/08

 夜の帳がおりるたびにジェードは自分が何者であるかを思い知らされる。

 石畳の路地に落ちる月の光を踏みつけながら、今夜もコートの襟を立てて闇の中を歩く。喧騒の消えた貴族街の外れへとふらふら迷い込んだ酔漢の首筋に、素早く牙を突き立てた。

 ほんの一瞬。男は夢でも見ているような顔で壁にもたれかかると、そのまま眠りに落ちた。

 ジェードは唇の端を指で拭い、長い息を吐く。


 満たされない。いつもそうだ。自分にとって何ほどでもない、見知らぬ人間の血を啜るたび、これで今夜をやり過ごせると安堵する。しかし翌朝にはもう渇いている。

 蜃気楼の漂う砂漠に心許ない一滴の水を垂らすような無意味な行為だと、何百年も繰り返すうちにとうに悟っていた。

 それでも――飲まなければ死ぬ。


 ジェードは人間社会に紛れ込んで生きる吸血鬼だった。表向きは地方から出てきた没落貴族の青年として、この街でもう十年ほど暮らしている。

 じきにまたどこかへ旅立つか、あるいは庇護をくれる誰かを探す必要があった。

 不老の身体を世間から隠すため、数年に一度は名前と住処を変えなければならない。それが彼の孤独な生の繰り返しだった。


 邸宅に戻り、書斎のソファに投げ出すように身を沈める。部屋を春先のまだ冷たい空気が満たしているにもかかわらず、暖炉に火をともすことはない。

「ジェード」

 扉をノックもせずに開けたのはルチルという女性だった。

 淡い金髪を結い上げて、目の覚めるような青いドレスを纏った令嬢。彼女はジェードの婚約者であり、今のところの庇護者である。

 より正確に言えば、選ばざるを得なかった婚約相手、とでも言うべきものだった。貴族として社会に溶け込むには「令嬢の婚約者」という体裁が都合よかったのだ。

 そしてルチルは優しく賢い女性で、ジェードの事情を一切問わず、彼の秘密を守ってくれていた。


「こんな夜更けに、どこへ行っていたの」

「……少し、夜風に当たりに」

 ルチルはジェードの顔をしばらく見つめ、困ったように首を傾げた。彼女には目敏いところがある。血の匂いに気づいているだろうと思ったが、彼女は何も言わなかった。

 それがジェードにはいつも少し苦しかった。


 ルチルは善人だ。穏やかで知性があり、それを誇示することなく他者を思いやる誠実さを持っている。彼女はジェードの素性に感づいているが、分かっていながら彼を守るために、婚約関係を受け入れてくれた。

 彼女の優しさを甘受するたびにジェードは自分の罪深さを突きつけられるようだった。

 ルチルの性質は本質的に光があった。吸血鬼の感覚で言えば、それは聖なる断罪の気質だ。清廉で傷のない魂。

 純度の高い人間としての清らかさはとても美しいが、闇を生きる吸血鬼には毒だった。


 もし本当の意味で彼女と結ばれたとすれば、ジェードはおそらく内側から焼かれて死ぬ。あるいは、死ぬよりも長く、永遠に渇き続ける。

 恋はできない相手だった。友として敬うことはできる。しかし、愛することだけは叶わない。

 それがジェードとルチルの関係だ。


「ジェード、最近なんだか顔色が悪いわ。ちゃんと食べているの?」

「……心配をかけて申し訳ない」

「謝らなくていいのよ。ただ……」

 ただ、あなたには幸せでいてほしいから。

 そのルチルの優しい言葉が、サンザシの棘のようにジェードの胸を抉った。


 翌日の昼、ジェードの邸宅に予期せぬ客が訪れた。玄関先に立っていたのはルチルによく似た、しかし彼女よりもやや硬質な線を持つ青年だった。

 碧い瞳が人懐こく輝き、無遠慮なくらいの笑顔がジェードに向けられる。

「ジェード、なんか久しぶりだね! 元気だった?」

「……スフェン」

 スフェンはルチルの弟であり、ジェードは彼が幼い頃から兄代わりのように共に過ごした幼馴染だった。尤も、それほど親しい間柄ではない。

 出会った頃まだ幼かったスフェンとあまり近しく接すれば、月日が経つごとにジェードが不老であることに気づかれてしまう。ルチルを通じて時々交流のある弟、それだけの関係ではあった。

 スフェンのほうがいつも明るく話しかけてくるのをジェードは適当にあしらっていた。


「何か用か」

「ん。姉さんに荷物を届ける用があって、ついでに寄ってみたんだ。迷惑だった?」

「いや」

「相変わらず素っ気ないなあ」

 スフェンは気にした様子もなく笑った。

「それで、姉さんいる? ちょっとあがっていいかな」

「ああ」

 ジェードは少し体を避けてスフェンのために扉を開けた。


 客間に通してルチルを呼んでやり、しばらく待たせている間、ジェードは廊下に立ち尽くして奇妙な感覚を持て余していた。

 スフェンの気配がなぜか気になるのだった。彼が屈託のない笑みを見せる時、胸の内が奇妙に疼く。ルチルと同じ光の性質のせいだろうか。

 なぜだろうと思いながらも、ジェードはそれを考えるのをやめた。

 その時は、まだ単なる気のせいだと思っていた。


 ***


 数ヵ月が経ったある日、ジェードはルチルと彼女に寄り添う精悍な青年を前にして、静かに告げた。

「ルチル。君と俺の婚約を解消しよう。そして君がユークレースと結婚することを、俺は祝福する」

「ジェード……」

 ユークレースは数少ない人間社会でのジェードの友人だった。社交界においてジェードのフォローをしてくれるうちに、ユークレースは長い時間をかけてゆったりとルチルと互いを知り合ってきたようだ。

 二人を繋いだのはジェードだった。それが自分のためでもあった。ルチルが幸せになれる相手は自分ではないと分かっていた。


 一度、隣のユークレースと見つめ合い、ルチルは目を潤ませてジェードに向き直る。

「だけど、ジェード。あなたはどうなるの?」

「俺のことは心配しなくていい」

 彼女との婚約を解消することはジェードにとって解放だった。常に聖なる光に晒される緊張感から逃れられるのだ。

 そして歪な関係に終止符を打ち、彼女とただの友人に戻ることができる。むしろほっとしているくらいだった。

 どうせもうじき、この街を離れる日がくるだろう。

 だからスフェンに声をかけられた時、ジェードは状況が飲み込めなかった。


 夕暮れに燃え上がる邸宅の庭先でジェードは一人、夜を待ちながら佇んでいた。そこへスフェンが駆け寄ってきたのだ。彼はひどく真剣な顔をしていて、いつもの軽さがなかった。

「ジェード」

「どうした、スフェン」

「……姉さんとのこと、聞いた」

 ジェードは何も言わなかった。心から痛ましげに消沈しているスフェンの様子が不思議だった。「つらかったね」とスフェンは言う。低い温度を持つ声。

「姉さんのこと、好きだったんでしょ。なのに……あんなの、ひどいよ」

「スフェン、俺は――」

 べつに()()()()()()でルチルを好きだったわけではない。ある種の政略であり、今、ルチルとユークレースはいわゆる真実の愛で結ばれた形だ。だから姉貴をそう責めてやるな。

 口にするには妙にお仕着せがましく思われてつい押し黙る。


 ジェードが戸惑っている間にスフェンは深く息を吸った。夕焼けの赤い光が彼の頬をゆるやかに染め、ジェードはその瞬間に時が止まった気がした。

「僕は、誰がなんといってもジェードが好きだよ」

 それは音もなく滴り落ちて、そのまま弾け散ってしまうような声だった。

「ずっと前から……ジェードが好きなんだ」

 ジェードはしばらく言葉を失った。スフェンはそれ以上何も言わず、真正面からジェードを見ていた。恥じらいはあるが、言ったことを後悔している様子はない。

 逡巡はとうに乗り越えたという顔だった。


 ジェードはこの時に初めてスフェンという人間を見た気がした。

 彼が幼い頃から知っていた。いつも明るく屈託がないルチルの陰に隠れながら、少し人見知りが激しいところのあるスフェンは、ジェードには懐いていた。血縁ではない心安さ、遠いからこその憧憬、そんなものだと思っていた。単なる幼馴染、半ば空気のような存在。

 しかし燃える夕焼けの中で覚悟を持って立つ青年は、軽く流れてゆく空気などではなかった。


 ジェードの鼻腔を何かがくすぐる。芳しい香り。以前から薄々と感じていた気配の正体がはっきりと感じられた。スフェンの身体、あるいは魂から漂う血の匂い。それは今まで嗅いだどんな人間の血よりも深く複雑で、抗い難いほどに甘美だった。

 押し潰された恋心。秘められた渇望。長い時間をかけて積み重ねられてきた、報われることを諦めた愛情。それでも誰かを想い続けた執着の芳香。

 吸血鬼にとって、痛みは極上の餌食だった。


 ジェードは内側からの衝動を必死に抑え込む。今すぐ眼前の青年に飛びかかりたい衝動と、断じてそんなことをしてはならないという理性が、胸の中で激突した。

「スフェン」

 絞り出した声は掠れていた。

「俺は、お前が思っているような人間じゃない」

「思ってる通りの人間なんていないよ」

 そう、スフェンはあっさりと答えた。

「でも、僕はジェードが好きなんだ。ここにいる、君っていう存在が」

「……」

「答えをくれなくてもいいよ。ただ伝えたかっただけ……ずっと、言わないつもりだったんだけど」

 太陽が沈み、街に夜が忍び込んでくる。ジェードはその場から動けないまま走り去ってゆくスフェンの背中を見つめていた。


 ジェードがスフェンの告白を受け入れたのは、それから一ヵ月後のことだった。


 ***


 一ヵ月、ジェードは苦悩の淵にいた。己の中の欲望が日に日に膨らむ。スフェンの匂いが頭から離れない。あの一瞬だけ深く吸い込んでしまった血の香りが意識の奥底に棲みついて離れない。

 あまりに危険な状態だった。

 吸血行為は、繰り返すたびに相手の精神を侵食する。何度も血を吸われた人間はやがて吸血鬼に意識をまるごと明け渡し、自我のない眷属と成り果てる。ジェードはそれを知っていた。

 だからこそ今まで誰かと深い関係を結ぶことなく、行きずりに見知らぬ誰かの血を啜って耐えてきたのだ。

 スフェンを操り人形になどしたくはなかった。


 しかしスフェンを拒絶することも、できなかった。

 自分に向けられる真剣な視線。迷いを抱えたまま己の闇を見せられる無防備さ。ずっと、という甘い言葉。

 手放せない。眷属にしたくないという拒絶は、すでにスフェンを想ってしまっている証だった。

 ほとんど無意識のままに、ジェードはスフェンに答えを告げていた。束の間、共に生きてみよう。


 二人が恋人になってから、スフェンは今まで以上によく笑い、よくしゃべり、ジェードと朝食を一緒に食べたがり、夕暮れには散歩に誘った。

 ジェードは長い孤独の中でただ人間の皮を被ることだけに注力し、そういった自然な暮らしを忘れつつあったが、隣にいるスフェンが習慣を取り戻させてくれた。

 彼との暮らしは暖かい。しかし夜になると、その暖かさはジェードの身を焼いた。


 スフェンの体温が近くにある。彼の首筋から香りが迫る。薄い皮膚の下に流れる血の音が鼓膜を打つ。愛おしさと欲望が絡まり合い、ジェードはいつも一線の手前で留まった。

 どうやらスフェンはその理由を、別のことだと解釈しているようだった。

「ジェード、そんなに遠慮しなくたって」

 ある夜、スフェンはベッドの中でジェードにくっついたまま苦笑した。

「僕は男だから、結構丈夫だよ。そんなに我慢しなくても多少のことは平気なのに」

「そういう問題じゃない」

「じゃあ、なに?」

「お前は分かってないんだ」

 スフェンの碧い瞳がしばらくジェードを見つめ、それからそっと手を伸ばした。


「僕、ジェードになら何をされても平気だよ。だって大好きだから」

 心臓に杭を打たれるとすればこのような痛みなのだろう。しかしそれで灰になるならまだ幸せだ。ジェードは形を保ったまま、これに耐え続ける必要があった。

 やはり分かっていない。スフェンは何も分かっていないのだ。自分が今この瞬間、どれほど危険な存在の隣にあるのかを。

 愛しているのなら、愛しているからこそ、触れてはいけないのだと。


 しかし人間の体温は残酷なまでに優しく、スフェンの素直な瞳は無防備で、ジェードの手は気がつけばスフェンの肩を引き寄せてしまっていた。


 月が満ちる夜だった。二人が繋がり、熱に浮かされながら互いを貪っていた最中、ジェードの理性はついに限界を迎えた。

 愛撫の隙間にスフェンの首筋に唇を押し宛てる。口づけの先に自然と牙が、皮膚を割った。

 甘い。それ以上の言葉がないほどに。

 スフェンの血は今まで経験したどんなものとも違っていた。常にジェードを支配していた渇きが癒えてゆく。砂漠の底から湧き水が緑を育むような。

 肉体的な絶頂と精神的な充足が同時に訪れ、ジェードの思考は白く染まった。

 痛みと、それを塗り潰す奇妙な快感にスフェンが小さく声をあげ、その音すらも甘美だった。


 行為が終わり、並んで横たわる中でスフェンはしばらく黙っていた。ジェードは全身から血の気が引くのを感じながら恐る恐るスフェンを窺ってみる。スフェンは恐れておらず、照れくさそうに笑っていた。

「噛みついて興奮するの? ジェードの……変態。ばか」

「す、すまない。もう……しないから。許してくれ」

「ううん」

 スフェンは首を振って、甘えるようにジェードに頬を寄せた。

「ちょっと痛いくらいだよ。ジェードがそういうの好きならいい」

 いつもと何ら変わらないスフェンを見て、ジェードは思わず彼を強く抱きしめた。


 もしかすると、この人間こそが自分に“真実の愛”を与えてくれる存在なのかもしれない。

 心から吸血鬼の性を受け入れてくれる存在。その愛が本物であれば、血への渇望と支配の質が調和し、眷属になることなく人の自我は保たれるのだ。

 スフェンとなら愛し合える。そう信じたかった。彼が未だジェードの正体に気づいていないことに、見ないふりをしながら。


 ジェードはスフェンを抱くたびに彼の血を求めた。人生で初めて、渇くことのない夜が続いた。


 ***


 些細な違和感に気づいたのはルチルだった。スフェンが姉の邸宅を訪ねてきた時、彼女は弟と話しながら、じわりと広がる不安を覚えた。

 スフェンはいつも通り明るく笑っている。溢れ出るジェードへの愛情を姉に隠しもしなかった。

 ――弟は、こんなにも明け透けじゃなかったわ。

 幼い頃からのひたむきで一途な想いをルチルも知っていた。だがスフェンから直接聞かされたことは一度もなかった。彼はジェードが姉と結ばれるものと思っていたし、同性から恋情を向けられてジェードが不快に感じるのではないかと恐れてもいた。

 決して愛する人の迷惑にならぬために、自分の恋を押し隠すのがスフェンだった。


 今のスフェンはジェードに関することで少しも躊躇わなかった。嫌なことも怖いこともないかのように、()()()()だけに動いていた。

 ジェードに対するどんな些細な拒絶の感情も見当たらない。まるで従順な操り人形だ。

 弟が持つ柔らかな光と影が今、奇妙な形に歪んでしまっているのがルチルには見えた。

 愛情の部分は本物だ。しかしそれが纏った感情の輪郭がほんの少しずつ愛の形を変えていた。たとえば、忠誠とでも呼ぶべきものが、スフェンの愛を浸食している。

 それは、眷属化の初期症状だった。


 ルチルは迷った末に夫のユークレースに相談した。ユークレースは長い思案の末に重々しく目を閉じる。

「介入していいのだろうか。これは彼らの問題で、余計な世話かもしれない」

「でも、このまま放っておいていいとも思えないの。もしスフェンが眷属になってしまったら、きっと……」

「分かっているよ、ルチル。きっと……ジェードこそが、致命的な傷を負うことになる」

 ユークレースは立ち上がり、窓の外を見た。まだ夕暮れには遠い昼下がりの空。

「ジェードはスフェンを愛している。このままでは愛が彼らを支配してしまう。ジェード自身も気づいていないかもしれない」


 ユークレースは破邪の魔法を持っている。吸血鬼の処し方を知り、眷属化を解く術を知っていた。だからジェードは彼と友人になったのだ。

 自分自身に枷を嵌めてでも人間社会を尊ぶジェードという男に、ユークレースもまた敬意を抱いていた。

 破邪を行使すれば、スフェンは支配されていた事実を思い出すだろう。吸血鬼への恐怖も含めて。

 それでも、とルチルは言った。

「私の弟は、真実の愛を持っている。私はそう信じているわ」

 愛しい妻に頷き、ユークレースは部屋を出た。


 邸宅の庭でスフェンはのんびりと剪定作業をしていた。休眠中の今、慎重に徒長枝を切り払っていたようだ。そこへユークレースが現れる。

「スフェン」

「あ、ユークレース義兄さん。いらっしゃい。……えへへ」

 ジェードの邸宅で自分が客を迎えている事実に照れたようだ。健気な義弟にユークレースの胸がぎしりと痛む。

 それでも、ユークレースはそっと彼の肩に手を置いた。

「……スフェン、ジェードは吸血鬼だ」

「へ?」

 スフェンは愛想のよい笑顔のまま硬直した。義兄が放った言葉の意味が理解できなかった。

「あなたは吸血によって精神の支配を受けている。思い出せ、スフェン。本当に彼の行いのすべてを赦し、受け入れていたのか。本当のあなたがどこにあるのかを」


 ぱきん、と。スフェンの心の中で乾いた音がした。サンザシの枝が落ちてするりと土を突き刺す。

 スフェンは呆然としたまま手をあげて、自身の首筋に触れた。

 噛みつかれた痛み、鋭い牙の感触。一瞬だけ感じた得体の知れない恐怖と、それが甘い快楽によって塗り潰されていったこと。

 ――僕はジェードを怖いと思ったことなんてない。血を吸われてさえ、痛みを与えられてさえ。……なぜだ?


 日が暮れて、ジェードが邸宅に帰ってくるとスフェンは玄関に立ち尽くしていた。その顔を見た瞬間、ジェードは冬が戻ってきたような心地がした。

「ジェード。僕を騙して、操ってたのか?」

 彼の声は震えていた。ジェードがよく知る歓喜の震えとは違う、不安に満ちた怯えがそこにあった。

「違うんだ、スフェン! 俺は……俺は、お前を」

「血が欲しくて、僕を利用してただけ?」


 ジェードは彼から目を逸らし、必死で言葉を探した。違うと言いたかった。愛している、と言いたかった。しかし。

 愛していたのは本当だ。しかし欲がなかったとは言えない。スフェンの恐怖を塗り潰してなかったことにし、ただ彼の血だけを求めていたのは、紛れもない事実だった。

 騙していた。彼のことも、自分自身も。そこに支配があるのを見ないふりして、渇きを満たす幸せな日々を続けていきたかっただけだ。

 スフェンは靴裏にこびりついた土を蹴散らすようにして邸宅を飛び出し、そのまま街を出て行った。


 ***


 絶望に塗れたままスフェンは辺境の村に身を寄せていた。知る者の誰もいない場所だ。スフェンが知る顔もここにはいない。二度とジェードに見つからなければどこでもよかった。

 自分がジェードを見つけることのない場所であればどこでもよかった。

 しかしたった三日で、姉は彼の居場所を見つけ出した。


「もう、馬鹿ね、スフェン」

「……なんで分かったの」

「ほんの小さな頃に、一緒にきたことがあるじゃない。あなたはまだ三歳で……覚えてないわよね。近くの茂みのサンザシで指を刺して、初めて血を流したあなたが『しんじゃうよ、おねえちゃん』と言って泣いてるのを私が見つけたんだわ」

 ルチルは呆れたように言いながら、弟がただ心配で仕方ないという顔でスフェンの頭を撫でた。


 椅子を引いてスフェンの向かいに座ると、ルチルはじっと弟を見つめた。俯いたままスフェンは何も言えなかった。

「ねえ。ユークレースは何もあなたたちを引き離したかったわけじゃないわ」

 義兄の思惑や姉の親切は、正直なところスフェンの心を動かすものではなかった。彼にとっては、ジェードが自分を騙していたことがすべてだった。

「スフェン、ジェードのことはともかく、あなたは? あなたの愛情も嘘だったの?」

「……だって、本当はすごく怖かった」

 声が震えた。自分だけが子供だという証のようで、それがとても悔しかった。

「血を吸われた瞬間、怖かった。なのに怖い気持ちがすぐに消えていったのを覚えてるんだ。それは支配だ。操られてただけで、僕は……」

 愛していなかったと、口に出せなかった。


 ルチルはまっすぐにスフェンを見つめた。慰めるために手を握ることもなく、勇気づけるように肩を叩くこともなく。かつて自分の強すぎる光がジェードを苦しめたのをルチルは知っていた。真実が明らかになる時には痛みを伴うものだ。

「では、聞き方を変えるわ」

 それでも、愛すべき彼らが痛みのあとにある幸せに辿り着けるとルチルは信じていた。

「ジェードが最初から正体を明かしていたら、あなたは彼を嫌いになった?」

「それは……」

「吸血鬼だと知っていても、あなたは彼を好きになった?」

 スフェンは口を閉ざした。考えたくない。しかし考えてしまう。ジェードを初めて意識した日のことを。影の中から焦がれるように光を見ていた人。誰より近づきたかったのに、いつもどこか遠くて、本当はずっと――手を伸ばして、触れたかった。


「愛するように仕向けられたのか、それとも彼を愛しているから“支配されることを望んだ”のか。とても大事な違いよ、スフェン」

「……」

 ルチルの向こうにユークレースの声が響く。思い出せ、本当の自分がどこにあるのかを。思い出せ、本当に彼のすべてを受け入れていたのかを。

 ――僕はジェードが好きだ。彼が何者でも、騙されるよりずっと前から。


 もう一度、試してみればいい。彼の正体を知った今、それでも変わらず受け入れられるかどうか。正気のまま、自分自身の意志で。

「ジェードは、今どこにいるの」

「分からないわ。あなたが去ってから彼も街を出て、それきり行方が知れないの」

 スフェンはすぐに立ち上がり、もう姉に目もくれずに駆け出していた。

「向こう見ずなんだから、もう。……うまくやってね、二人とも」


 ***


 街でも森でも近くの野山でも、スフェンが探せる場所にジェードは見つからなかった。きっと吸血鬼ならば人が寄りつかない場所を選ぶだろうと思い、人里から離れた山道を進んだ。

 険しい崖が続く峡谷の入り口に差し掛かった時、スフェンは立ち止まる。

 気配を感じるのとは違う、何かの予感があった。ジェードが自分に手を伸ばそうとして、なのに寸前で留まる時のような焦燥。


 這い蹲って崖を降り、岩の陰を覗き込んでスフェンは息を呑む。ジェードがそこに蹲っていた。

 コートは泥ですっかり汚れ、白い肌はさらに蒼白に染まり、唇から色が失われていた。目を閉じたまま呼吸は今にも止まってしまいそうなほど浅い。

 震える声で名前を呼んでみても反応がなかった。

「ジェード!」

 駆け寄って、膝をついて、彼の肩を揺さぶった。ジェードがうっすらと目を開いたが、焦点が合っていなかった。

「ジェード、ねえ、ジェード!」

 冷え切ったその身体を抱きしめて、体温を分けようとした。自分が泣いているのに気づいたのは、涙がジェードのコートを濡らしたからだった。

「ごめん……ごめんなさい! お願いジェード、死なないで!」


 闇を漂っていたジェードの意識が俄かに浮上する。その瞬間、ジェードの全身に激震が走った。

 スフェンの体温が近い。愛しい吐息が、存在が、求めてやまない香りが眼前にある。飢餓で崩壊しかけていた本能が蘇る。

 無意識のうちにスフェンを抱き返していた。彼の首筋が目に入る。無垢で健やかな皮膚が。

「俺に触るな……」

 しかし抱きしめた手を離すことができなかった。

「お前を……壊したくないのに」


 スフェンが自分を恐れ、拒絶したのが彼の本心なら、その心を血の支配で塗り変えてはならないのだ。

 もし支配が成就すれば、ジェードの眷属となったら、“スフェン”という存在は永遠に失われる。この腕の中に抱きしめても永遠に届かなくなってしまうのだ。

「お前を壊したくない。スフェン……壊したくないのに」

 譫言のように呟きながら、ジェードはスフェンに縋りついた。


 ***


 スフェンはジェードの声を聞いて、静かに息を吐いた。安堵だった。

 人ならざるものが怖い。支配されるのが怖い。それもまた本当のことだ。ユークレースのおかげで取り戻した正気はスフェンに原始的な恐怖を教えていた。

 しかし同時に、今この腕の中にいる男の真実も知っていた。ジェードがずっと抱えてきた恐怖のことを。


 いつもの思い切りの良さを取り戻して、スフェンはシャツのボタンを外し、首筋をジェードの眼前に晒した。

「やめろ、スフェン。まだ分かってないのか」

「分かってるよ。僕は、誰がなんといってもジェードが好きだ」

 かつてと同じ言葉が、かつてよりも強く耳朶を打ち、ジェードの鼓動を揺らした。

「ずっと前から……今も、これから先も、僕はジェードが好きだ」

「たとえそれが真実だとしても、俺が真実を壊してしまう」

「壊れないよ」


 スフェンはジェードの手を取って、自分の心臓に触れさせた。ジェードと同じほどに高鳴っていた。

「支配されたって関係ない。“僕”は最初からそうなんだ。誰かに仕向けられた気持ちじゃない。もしいつか眷属になっても、それは今と変わらない僕だよ」

 青褪めたジェードの頬を両手で包み、スフェンはそっと額に口づけを落とした。

「僕を好きでいてくれるなら……僕を欲しがって、ジェード」


 ぷつりと棘を刺した指先から血がふくれ、ゆるやかに流れ出す。

 ジェードはスフェンを掻き抱いて、その首筋に牙を立てた。甘く、あたたかく、何百年分の渇きをも癒すような芳しい血がジェードを満たしてゆく。

 少しの痛みと恐怖にスフェンは声をあげたが、決して逃げなかった。それを上回る感情が彼をジェードの腕の中に留めさせていた。


 血流に乗って支配の感覚が駆け巡る。しかしスフェンの自我は消えない。芯から揺らぎ、吸血鬼の意志に溶け込もうとしながら、ただ揺らぎ続けて調和していた。

「スフェン。お前が欲しい」

「僕の全部を、ジェードにあげるよ」

 月は雲に隠れ、峡谷の闇の底には二人の息だけがあった。


 ***


 それから二人は、人間の街には戻らなかった。峡谷を抜けた先の山奥、ひと気のない場所にささやかな小屋を建てた。

 ルチルとユークレースは伝書鳥の知らせで無事の知らせだけを受け取り、居場所は探さないことにした。


 いつもスフェンは朝になると勝手にジェードの腕の中に転がり込んで、耳元で「早く起きろ」とうるさく騒ぎ立てた。ジェードは朝に弱く、毎度うんざりした顔をしながらスフェンの肩口に顔を埋めて唸るのだった。

 夜になるとジェードは時折、山を降りて血を得ようかと考えた。スフェンの身体を案じてのことだ。毎晩のように血を求めるのは心苦しい。確かにスフェンは自我を保ち、眷属化を逃れているとはいえ、単純に肉体的な負担になるのではないかと心配だった。

 しかし――。


「ジェード、どこ行くんだよ」

「いや、少し街まで……」

「だめ」

 スフェンがジェードの腕を掴む。

「僕以外の血を吸っちゃだめ。浮気だよ、そんなの」

「う、浮気!? そんなつもりでは……俺はただお前が心配で」

「僕はいっぱい食べていっぱい寝てるから大丈夫だよ。すごく健康体、ご心配なく」

「そんなことで片づく問題なのか?」

 困惑しつつも、スフェンの奔放な我儘に振り回されるのが嬉しくなってしまう。


「じゃあさ。それでも心配なんだったら、今日は血を飲むの我慢しよっか」

 スフェンはにこりと笑った。吸血鬼よりも悪魔のような笑顔だった。

「ぐっ……そ、それは……。分かった、お前のためだ」

 輝かんばかりのスフェンの笑顔は昔と同じく無邪気だったが、その瞳の奥にある光は以前にはなかった艶が宿っていた。


 ジェードが断食の覚悟を決めるのを見て、スフェンは嬉しそうにキスをする。それからそのまま、ジェードを押し倒した。

「おい、待て。その……行為中に噛みつくのを我慢するのは、難しいんだ」

「そっか」

「そっか、じゃない。分かったなら離れろ!」

「がんばって、我慢するのは吸血だけだから」

「は?」

 まったく悪びれる様子もなく言ってのけるスフェンに、ジェードは思わず天を仰いだ。これが神の作りし生き物だ。


「お、お前、他のやつの血を吸うのは浮気だと言っておいて、俺にこれ以上の苦難を強いるのか」

「だって、セックスと食事は分けないとね? 精神修行だよ」

「吸血鬼に修行なんかさせるな!」

「ジェード、大好き! 今夜もいっぱい愛してね」

「この、~~~ッ!!」

 ジェードは額に手を当てて、峡谷の底よりも深く深くため息をついた。それから観念したようにスフェンの頭に手を置き、乱暴にその金色の髪を撫でる。


「……分かった。好きにしろ」

「やった!」

「ただし、明日は代わりに俺の言うことを聞け」

「えー、それはその時考えるよ」

「お前というやつは本当に……」

 スフェンが笑うと小屋の中が明るくなった。ジェードはそれを眺めて不思議な気持ちになる。


 何百年も血を求めながら血を避ける孤独の中で生きてきた。誰かを愛することも、誰かに愛されることも諦めて、渇きは自分の宿命だと思っていた。

 しかし今、この小屋の中では渇かない。

 スフェンが笑う。ジェードを見る。奔放な自由さで振り回し、まったくもって自分の言うことなど聞かない男、愛しい人間。


「ジェード、何その顔?」

「何でもない」

「幸せそうな顔してる」

 ジェードはふと口の端が動くのを抑えきれなかった。

「……そうかもしれない」

 スフェンがぱっと顔を輝かせた。それからジェードの腕を引っ張り、二人でシーツに沈み込む。

「素直だから、血を飲んでもいいよ」

「お前、そういう使い方をするのか」

「愛の報酬~」

「筋が通っていない」

「でも嫌じゃないでしょ?」

 ああ、嫌ではなかった。


 ジェードはスフェンの肩を抱き寄せ、耳の後ろに唇を寄せた。スフェンが小さく肩を竦める。くすぐっただけではないとジェードは知っていた。知っていて、やっている。

「ジェード、ばか」

「お前ほどじゃない」


 やがてまた朝がきて夜がくる。窓の外に月が昇り、星が顔を出す。山の夜は静かで、遠くで梟が一声鳴いた。

 吸血鬼ジェードは生まれて初めて、夜が好きだと感じていた。


 ***


 吸血鬼というのは、渇くことで存在を証明するかのような生き物だ。満たされた瞬間には再び渇き、それを繰り返して永遠の時を過ごす。

 渇望こそが吸血鬼の命の在り方だった。しかしただ一つの恋を得て、ジェードは今、渇きに別れを告げたのだ。

 愛する人が隣にいる。その人が自分を愛している。その愛は支配の産物ではなく、恐怖への抵抗でもなく、ただスフェンの意志として。

 傷ついた過去を抱えた魂の匂いは今日も複雑な甘さを孕み、その甘さこそ彼がスフェン自身でいることの証明だった。

 彼は忘れ得ない痛みを持っている。その血がジェードを惹きつけてやまない。


 昼になるとジェードはベッドの縁に腰かけ、窓から遠くの山並みを眺めた。スフェンが台所で何かを作っている音がする。おそらく失敗しているだろうという気配も伝わってくる。

「ジェード! ちょっときてくれない!? 鍋が大変なことになってる!」

「何をやった」

「いいからきて! 見たら全部分かるから!」

 ジェードは微笑みを噛み殺しながら立ち上がり、台所に向かった。煙が出ていた。スフェンが鍋の前で困り果てた顔をしている。

「ほら、見たら分かったでしょ」

「見たくなかった」

「怒らないで、片づけるの手伝ってよ」


 ジェードはスフェンの隣に並び、鍋の中を覗き込む。特段怒る気にはなれなかった。スフェンが嬉しそうにしているから。

 永遠の命をただ持て余す孤独の年月が、ようやく報われた気がした。

 渇望の果て、窓の外ではサンザシの白い花が綻びつつあった。

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