南方審議官 イコリ
机の上に、三通の嘆願書が積まれていた。
いずれも南域の諸氏族からのものだ。
南方審議官、神官イコリは、封蝋の跡をなぞった。
内容は読まずともわかる。
干ばつ。備蓄の不足。支援の要請。
「このままでは、不満が膨らむ」
政庁の空気は落ち着かなかった。
西域の遊牧民が、一人の人物のもとに集まりつつある。
彼らはその統率者を「ウル」と呼ぶらしい。
名は、まだ中央三国でさえ表記が揺れていた。
統一ののち、次はエンゲラ国へ。
その見立てが有力だった。
神教国は盟約にしたがい、兵と物資の支援を準備している。
干ばつの影響は自国にも及んでいた。
余裕など、どこにもない。
「南方の件は後回しでよい」
外務長官は地図から目を離さなかった。
食糧管理局への相談は約束された。
しかし調査員の派遣は、先送りになった。
その日のうちに、租税管理局から督促が入る。
「南域からの朝貢が不足している」
長官は、支援策が決まらぬまま、催促の通知だけを各氏族に送った。
記録は残さねばならない。
少なくとも督促したという実績がなければ、長官自身の責任問題になりかねない。
それだけのことだった。
悪意はない。
ただ、彼らにとって、南域は後回しにできる場所だった。
***
イコリは南域に何度か滞在したことがある。
異なる衣。異なる言葉。異なる風習。
だが、接してみるとわかる。
同じ人間である。
最も記憶に残っているのは、とある領主の息子を迎えに行った時だ。
穏やかな顔をした、若い男だった。
南方領の「教化」の一環と言えば言葉は悪いが、
神教国の考え方を理解してもらうことで意思疎通の齟齬を減らす狙いがある。
留学生の招聘である。
各領主の中でも穏健な領で話を通しやすく、
また、息子が優秀で留学を志しているという話を聞いたこともある。
イコリも彼を推した。
そして任務は単純だった。
彼を無事に連れ帰り、身元を保証する。
しかし記憶に残ったのは、見送りの場の静けさだ。
見送る者たちの顔が、あまりにも静かだったからだ。
いや、むしろ何かの感情を抑え込んでいるかのようだった。
なぜだ。
上司を説得し、身元確認を兼ね、こちらから迎えに来た。
礼は尽くしたと思う。
喜んでいないのか?
なら、なぜ断らなかった?
…喜ばしいことと勝手に思っていた。
しかし考えてみたら、彼らにとっては、これも断れない重圧なのかもしれない。
族長の嫁が、じっとこちらを見ていた。
若い女だった。
何かを探るような目だった。
相手の考えがわからない以上、イコリは無表情を保った。
彼らは中央の言葉を解すが、完ぺきではない。
自分も、彼らの言葉を少しはわかるが、「できない」に近い。
日程に余裕はなく、現地に滞在して、じっくり理解しあう余裕がない。
道すがら、話を聞こうとしたが、揺れる馬車の中、世間話しかできなかった。
そして…。
新しい環境になじめず、不養生がたたったのか。
彼は短期間で亡くなってしまった。
中央では伝染病を防ぐため、火葬が一般的である。
しかし、南方では南方のやり方があるかもしれない。
関係者に相談しようとしたが、別の部署の者が共同火葬に回してしまった。
ただ、相談している間に、腐ってしまうので仕方がないとも思えた。
さすがに長官も気にかけて、イコリが寮や学校の事務処理に忙しい間、
別の者に依頼して、彼の死を親元に通知するように手配してくれていた。
だがその後、彼らは何度か「死体を返却してほしい」というような無理難題を言ってきた。
遺族として当然の心情も、神教国側にとっては理不尽に思えた。
忙しい中、それは黙殺された。対応している暇がない。
しかし、ある可能性が頭に浮かんだ。
本当に彼らの心情に配慮した手紙を送ったのか?
火葬したことは伝えたのか?
そして…ある決定がくだされた。
「領主については当面、その妻が代理となすこと。
正式には本国から領主を送る」
イコリはまた悩んだ。
このまま通知すれば、悪く受け取るに決まっている。
現領主の老齢や死体返却を求める手紙に、外務庁として辟易したのもある。
しかし、本来の目的は、もともと神教国の威光を行き渡らせることだ。
それを故人に担ってもらおうと思ったのだが、うまくいかなかった。
もう、中央から派遣してしまえ。
妻に代理を任せるということは、故人に敬意を払うことでもある。
実務は現領主がサポートしてくれれば良い。
表向きの責任がなくなるだけでも、彼への負担は減るはずだ。
隠居させて楽をさせてあげよう。
しかし、南方の当事者たちから見れば、間の論理が飛んでしまっている。
どう説明したものか…。
彼は南方の有力者と直接交渉することが多かった。
相手の顔が思い浮かぶ分、心情にまで思いをはせることができた。
だが、その彼ですら、事の深刻さを十分にわかっていたとは言い難かったのである。
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