第9話 違う答え
ロシア・寒冷地方
2020年1月上旬 朝
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息を吸うと、肺の奥が少し痛んだ。
氷点下の空気は、慣れているはずだった。
それでも毎朝、最初の一呼吸だけは身体が拒む。
「集合だ」
短い声。
それ以上の説明はない。
戦略研究部門所属、セルゲイ・ミハイロヴィチ・ヴォロノフ少佐は、防寒具の襟を立てながら列に加わった。本来なら、彼はここに立つ人間ではない。
戦略研究部門。
評価と分析、そして「最悪の想定」を文書に落とす側だ。
だが今回は――現場を見た者の分析が必要だ、という判断が下されていた。最悪を想定できる者を、最悪に近い場所へ。それはロシア軍にとって、自然な選択だった。
周囲には武装した兵士と、軍用トラック。その向こうに、簡易フェンスで囲われた一角が見える。
郊外。
人の気配はない。
フェンスの内側にあるものについて、正式な名称はまだなかった。
上は「異常空間」。
現場では「穴」。
呼び方はどうでもいい。
重要なのは、何が起きるかだ。
質問する者はいない。
質問は、評価項目に含まれていなかった。
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「侵入班、準備」
命令は簡潔だった。
重装備ではない。
銃器はあるが、弾数は制限されている。
目的は殲滅ではなく、確認。
セルゲイはカメラとセンサーを背負い、歪んだ空間の前に立った。
観測装備を持つ人間が、突入班に含まれている。
それ自体が、この作戦の性質を物語っていた。
空気が揺れている。
見た目は、ただそれだけだ。
「行け」
一言。
セルゲイは躊躇しなかった。
躊躇は、合理性を欠く。
机上で得られるデータは、
最悪の一歩手前で、必ず歪む。
それを知っているからこそ、彼は前に出ていた。
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空間を抜けた瞬間、温度が変わった。
冷たいが、外ほどではない。
湿った空気。
岩肌。
「洞窟……か」
誰かが呟く。
照明が灯される。
第1階層。
後でそう分類される場所だが、今はただの内部だった。
前方で、動くもの。
「接触確認。排除」
銃声。
スライムが弾ける。
潰す、ではない。
撃ち抜く。
魔物の動きは遅い。
だが、数は多い。
慎重な探索は行われなかった。
罠の確認も最低限。
目的は踏破ではない。
反応を見ることだ。
「排除しろ」
踏み潰す。
撃つ。
止まったら、前進。
誰も「危険だ」とは言わない。
危険であることは、前提だからだ。
セルゲイは理解した。
(探索じゃない)
(これは、試験だ)
空間の試験。
兵士の試験。
そして――
組織がどこまで損耗を許容できるかの試験。
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次の角で、負傷者が出た。
カメラが回り、センサーが数字を吐き出す。
兵士の一人が足を取られた。
遅れた一瞬。
「――っ」
スライムが絡みつく。
引き剥がす前に、別の個体が重なる。
「負傷者!」
「続行」
即答だった。
引き金が引かれる。
魔物ごと、兵士の脚が撃ち抜かれた。
セルゲイは眉を動かさない。
判断としては、正しい。
個としては、冷たい。
だが――
ここでは、それが同じ意味だった。
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階段を幾度か超えて進んだ後、死者は二名。
撤退判断が下ったのは、それからだ。
成果は出た。
映像。
データ。
サンプル。
外に出たとき、セルゲイはようやく深く息を吐いた。
誰も迎えに来ない。
誰も労わらない。
回収されるのは、装備と記録だけだ。
人間は、数字の外に置かれている。
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簡易施設の廊下。
セルゲイは装備を外しながら、報告を聞いた。
「次回は進行ルートを変える」
「損耗率は高いが、許容範囲」
「改善点は――」
名前は呼ばれない。
誰が死んだかも、細かくは扱われない。
必要なのは、結果だけだ。
セルゲイは思った。
(あの場所が危険なんじゃない)
(危険なのは、扱い方だ)
だが、それを口にすることはない。
口にしたところで、何も変わらない。
この国は、そういう国だ。
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後で聞いた。
止めなかった国もあるらしい。
様子を見て、
記録して、
人を自由に動かしている場所があるらしい。
だが、この国は違う。
止めなかったのではない。
止まらなかったのだ。
セルゲイは黙って施設を出た。
次の命令が来るまで、
生き残ったという事実だけを持って。
――それもまた、記録の一部だった。




