第8話 観測者の視界
中国・某地方都市
2020年1月2日 午前
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部屋には窓がなかった。
照明は明るすぎず、暗すぎず。時間の感覚が曖昧になるように調整された、よくある会議室だ。
壁際に並ぶ数人は、年始の挨拶も交わさない。すでに仕事の顔だった。
「――未確認空間現象の続報です」
淡々とした声が、室内に落ちる。
スクリーンに映し出されたのは、地図と数字。
赤く囲われた郊外の一点と、その周囲に伸びる監視カメラの視界。
「発生から二十四時間。暴動なし。死者報告なし。周辺住民への影響は限定的です」
誰も驚かない。
誰も身を乗り出さない。
「規制線は?」
「現時点では未設置。必要性は低いと判断しています」
一人が言った。
「理由は」
「第一に年始で初動が遅れていること。第二に、現象が自律的に拡大していないこと。第三に――」
一拍。
「外から見て、“何も起きていない”ように見えることです」
静かな納得が、部屋を満たす。
「事件ではない、というわけか」
「はい。少なくとも、今は」
次のスライドに切り替わる。
侵入回数の一覧。
どれも、低い。
「現在までに確認された侵入者は、十一名」
「大半は一度きりで、その後の再接触はありません」
誰かが頷く。
誰かがペンを動かす。
そのままなら、ここで話は終わるはずだった。
「……ただし」
説明官が、次のページを出す。
一行だけ、色が違う。
同一個体。
複数回侵入。
全回生還。
室内に、わずかな沈黙が生まれた。
「再侵入は二回」
「いずれも短時間」
「行動範囲は第1階層のみ」
名前はない。
顔写真もない。
あるのは、年齢、性別、居住区域、移動履歴。
数字の集合体。
だが、確かに“異物”だった。
「個人識別番号のみ表示しています。一般人。職業不安定。特筆事項なし」
誰かが鼻で笑った。
「“特筆事項なし”が、二回も帰ってくるか?」
「それが、帰っています」
担当者は言い切った。
「行動範囲は第1階層のみ。滞在時間も短い。無理はしていません」
沈黙。
上席が指を組む。
「拘束の必要は?」
「推奨しません」
「理由は」
「こちらが介入すれば、行動が変わります。現象そのものではなく、“対応”を観測することになる」
別の声が続ける。
「それに、彼はコストを使っていません。我々の。
まだ、です。」
それが、この場での評価だった。
脅威ではない。
価値も、まだ定まらない。
だが――
「放置は、しますか?」
「正確には“観測”だ」
言い換えが、なされた。
「封鎖すれば、動きは止まる」
「接触すれば、行動は変わる」
一瞬の間。
「今は、自然に動かせ」
指示は短い。
「記録のみ。追尾はしない。こちらの存在は、悟らせるな」
説明官が補足する。
「防犯カメラと、周辺の固定観測で十分です。個別の尾行は不要かと」
「……いや」
上座の男が、少しだけ考える。
「“完全に気づかせない”必要はない」
視線が集まる。
「勘のいい人間だ。違和感を覚える程度でいい」
それ以上は言わなかった。
スクリーンに、短い映像が映る。
郊外の空き地。歪んだ空間から出てくる、ひとりの男。
一瞬、立ち止まる。
周囲を見回す。
そして、歩き出す。
誰かが、ぽつりと言った。
「……感覚は悪くないですね」
「だからこそ、まだ統計にするな」
即座に返される。
「例外は、数が揃ってから扱え」
報告書のタイトルが、最後に表示された。
『未確認空間現象・経過観測(個人事例)』
仮。
結論なし。
会議は、それで終わった。誰も立ち上がらず、誰も焦らず、誰も感情を見せなかった。外では、いつも通りの朝が始まっている。
その裏側で、 一人の男は、静かに“視界”に入った。
――まだ、数字にするには早い存在として。




