第7話 統計に現れない男
中国・都市郊外
2020年1月1日 夕方
---
屋台の親父が油のはねる鉄板をへらで叩きながら声をかけてきた。
「兄ちゃん、追加いるか?」
「いや、今の一本で十分。胃袋も財布も」
李がそう返すと、親父は「だろうな」とでも言いたげに笑い、串を紙で包んで手渡した。その笑顔は、昨日と何も変わらない。
日常は、何も変わっていない。少なくとも、表面上は。
通りを行き交う人々は、スマホを眺め、家路を急ぎ、正月の夕飯の話でもしているのだろう。
世界が変わり始めている気配は、ここにはない。
---
李宇航は、自分があの洞窟で死にかけたとは思っていなかった。正確に言えば、そう考えないようにしていた。
振り返れば、逃げ遅れてもおかしくなかった。足を取られても、絡みつかれても、助けは来なかったはずだ。
「まあ……運が良かっただけだな」
独り言のように呟き、夕暮れの路地裏を見た。
今朝と変わらず、そこに“それ”はある。歪んだ空間。輪郭の曖昧な膜が、空気の揺らぎとして視認できる。 異常なのに、放置されている。
周囲に警察はいない。兵士もいない。黄色いテープも、立入禁止の看板も、監視カメラの増設もない。
理由はいくらでも想像できた。今日は正月だ。役所は動きが鈍い。このゲートで暴動も死者も出ていない。郊外で、人通りも少ない。――つまり、後回しにされている。
李はそれを、会議資料のような理屈ではなく、肌で理解していた。社会には、優先順位という名の無言の線引きがある。
「止められてないってことは……」
路地裏に一歩、踏み出す。
「行っていいってことだよな」
許可を取る相手はいない。確認も、保証もない。それでも、そう結論づけるのが李宇航だった。
---
空間を抜ける感覚は、もう二度目だ。内臓が一瞬だけ浮くような、気持ちの悪い違和感。視界が歪み、次の瞬間、足元が硬い岩肌に変わる。
「……はいはい」
軽く吐き捨てる。
洞窟。第1階層。前回と同じだった。構造も、湿った空気も、光の届かない暗さも。
違うのは、自分の側だ。足元に注意して、一歩ずつ、確かめるように進む。来たら、踏む。迷わない。
ぐしゃ。
鈍い感触とともに、黒い塵が散った
「……完全に作業だな」
心臓は、まだ速い。恐怖が消えたわけじゃない。ただ、順序が分かった。スライムは絡みついてくる。ならば、絡みつく前に踏めばいい。単純で、残酷で、だが分かりやすい。
次。
また次。
そして――
「ん?」
消えたスライムの跡に、何かが残っていた。
これまでは、結晶か、水の入った小瓶だった。だが今回は違う。テニスボールくらいの大きさの球体。ほぼ透明で、内側に淡い揺らめきがある。
「……前は結晶か小瓶だったよな」
慎重に屈み、拾い上げる。表面に、見慣れない文字が浮かんでいた。
『水系魔法Ⅰ』
「……」
李は、しばらく無言で見つめた。
(いや)
(さすがにファンタジー過ぎるだろ、世界)
冗談だと思いたかった。だが、ここはもう冗談の通じる場所じゃない。
恐る恐る、触れる。しかし、何も起きない。光らない。爆発もしない。ただ――触れた瞬間、妙な確信があった。
“使える”
説明できないが、分かる。歯車が噛み合うような感覚だ。不快ではない。むしろ、力を抜けと言われているみたいに楽だった。
“使う”。
そう意識した瞬間、オーブが音もなく砕けた。同時に、手のひらがひりつく。
「うわ、壊れやがった……って、水?」
ぽたり。指先から、水が落ちた。
「……え?」
もう一度、意識する。
ちょろ。
本当に、ちょろっと水が出た。
「……は?」
李は数秒、無言でそれを眺めたあと、口に運んだ。――普通に、水だった。
「……俺、魔法使いになっちゃった?」
自分でも笑えない言葉が、頭に浮かぶ。
だが現実は冷静だった。攻撃には使えない。量も勢いも足りない。
「……まあ」
手を振って、水を止める。
「便利枠だな」
喉が渇かない。水を買わなくていい。それだけで、生存率は確実に上がる。
「……デカいな、それ」
小さく笑い、ポケットを探る。結晶をいくつか回収して、指先で転がす。
水が出せる。それだけで、心に余裕ができていた。
(ここは危険だけど……)
外よりは、分かりやすい。踏めば倒れる。倒せば、何か残る。
「……欲張ると死ぬな」
今日は、ここまで。
李は素直に引き返した。
---
ゲートを抜ける。
夕暮れの空気が、肌に戻る。何事もなかったような路地裏だ。路地の先からは往来の喧騒が漏れている。
「……生きてる」
息を吐き、歩き出す。数歩進んで、ふと足を止めた。さっき通った路地に同じ色の車が、まだ停まっている。エンジン音はしない。中も見えない。
「……気のせい、か?」
そう自分に言い聞かせ、再び歩き出す。だが、妙に静かだった。静かすぎて――何も見られていない、とは思えなかった。
それでも、誰も声をかけてこない。止められもしない。追ってくる者もいない。
「……まあ」
肩をすくめる。
「派手なことは、してないしな」
---
その日の夕暮れ。
李は、スマホをいじりながら小さな商店街を歩いていた。
個人商店。怪しいが、完全な闇ではない場所。
「……ここなら、いけそうか?」
魔結晶を、少しずつ。目立たない量で。捕まるほど派手なことは、まだしない。
「運がいいなら」
ポケットの中の結晶を指で弾く。
「使わないと、損だろ」
李宇航は、まだ統計に現れない。
だが――どこかで、誰かの視界には、すでに入っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも良いなと思っていただけましたら、
ブックマーク、評価、リアクションのほど、よろしくお願いします。




