第5話 呼吸
日本・ゲート周辺
2020年1月1日 未明
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戻ってきた民間人は、思ったよりも落ち着いていた。
小林氏義三曹は、ゲート前に設けられた仮設照明の下で、その男――鷹宮恒一を、半歩引いた位置から観察していた。目線は自然に、訓練で叩き込まれた確認手順をなぞる。
血は、出ていない。手足も揃っている。歩様に乱れはなく、荷重のかけ方も普通だ。
――それなのに。顔色だけが、明らかに悪い。青白いというより、血が引いたまま戻ってこない、そんな色をしている。
すでにゲート付近には規制線が張られ、最初の騒ぎは嘘のように収まっていた。人の声は抑えられ、無線と足音だけが規則正しく響く。
拠点内の簡易椅子に座らされた鷹宮は、背もたれに深くもたれず、肘を膝に置いたまま淡々と口を開いた。
「……中は、洞窟ですね。雰囲気としては」
軽い言い方だが、視線は宙を泳がず、記憶を正確に辿っている。
「階層構造があって、少なくとも二つは確認できました。最初の階層は……まあ、正直に言うと、そこまで危険じゃない。生き物はいますけど、動きは鈍いですし」
そこで一拍、間が入る。
「警戒していれば、ですけど」
言い切らない。だが、誇張もしない。
小林は、周囲の空気が変わっていくのを感じていた。
(……ああ)
これは、“いける”ときの空気だ。
一人で戻ってきた民間人。怪我もない。しかも「第1階層は比較的安全」という証言。
条件が揃った瞬間、人は無意識に線を引き直す。危険と安全の境界を、自分たちに都合のいい位置へ。
伊藤時信二佐が、短く周囲を見回した。視線だけで、部下の表情を拾っている。
「……第1階層のみだ」
声は低く、抑制されている。
「少人数で確認する」
正式命令というより、現場判断。だが、その場にいる誰もが「自然だ」と感じる決断だった。
「小林三曹、先行を頼めるか」
「……了解しました」
返事は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
未知の場所。限定条件。短時間。災害派遣でも、警備任務でも、何度も通ってきた道筋だ。
(問題ない)
少なくとも、その時点では、そう信じられた。
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ゲートをくぐった瞬間、音が変わった。
正確には、消えた。風の音も、遠くの車両音も、人のざわめきも――すべてが一枚、剥ぎ取られたように消失する。
「通信、断絶」
後続の隊員が淡々と報告する。事前共有どおりだ。誰も声を荒げない。
視界は良好。人工照明は届いている。足元も安定している。
洞窟――だが、自然のそれとはどこか違う。壁も床も、削り出されたように均一で、手触りの想像ができない。
小林は先頭に立ち、銃口をやや下げたまま進んだ。
(……聞いていた通りだな)
床の端に、半透明の塊がある。脈打つように揺れてはいるが、動きは遅い。こちらへの明確な敵意も感じられない。
「スライム、確認」
声は、訓練どおりに出た。誰も引き金を引かない。距離を保ち、隊形を崩さずに迂回する。それで問題なかった――天井を見るまでは。
違和感は、音ではなかった。影でもなかった。ただ、視界が――わずかに暗くなった。
「――っ」
反射的に顔を上げた瞬間、何かが落ちてきた。音は、ない。衝撃も、ほとんど感じない。
だが、次の瞬間、顔面に粘つく感触が広がった。
口に入る。鼻が塞がれる。視界が、奪われる。
(――息が)
吸えない。空気が、来ない。
小林は銃を握ったまま、無意識に後ずさった。だが、足元の感覚が曖昧で、体勢が崩れる。 喉が勝手に開く。だが、吸い込まれるのは空気じゃない。
(――違う、これは)
訓練が、頭の中から剥がれ落ちる。思考が、白くなる。
剥がさなければならない。それは分かっている。だが、手がどこにあるのか分からない。声を出そうとして、何も出ない。
視界の端で、仲間が動くのが見えた。誰かが何かを叫んでいる。だが、意味が入ってこない。息ができない。ただそれだけが、世界のすべてになった。
――乾いた音がした。パン、という短い破裂音。反動で、腕が跳ねる。
次の瞬間、粘体が引き剥がされた。冷たい空気が、肺に流れ込む。
「――っ、は……っ!」
咳が止まらない。胃の奥から、内容物が込み上げる。床に膝をつき、吐いた。
音が戻った。光が戻った。
誰かが小林の肩を掴んでいる。
そして、別の誰かが、倒れている。
「負傷者!」
血は出ているが、致命傷ではない。それでも、確実に“被弾”だった。
床では、引き剥がされたスライムが形を失い、数人分の重量で踏み固められ、やがて、黒い塵のように崩れて消えた。
銃は、本来、必要なかった。だが、一発だけ、出てしまった。
伊藤二佐の声が、低く響く。
「撤退する。全員、今すぐ戻る」
誰も異論を挟まない。小林も、何も言えなかった。呼吸はできている。手足も動く。だが、指先がわずかに震えている。
地上に戻った瞬間、空気が変わった。音が、現実が、重さを持って戻ってくる。医療班が走ってきて、負傷者はすぐさま運ばれていったが、小林は、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
誰も責めなかった。誰も怒鳴らなかった。それが、余計に重かった。
少し離れた場所で、鷹宮と目が合った。一瞬で、分かったのだろう。何が起きたか。
言葉は、なかった。ただ、その視線が言っていた。――第1階層ですら、こうなる。
小林は、ようやく理解した。これは戦闘じゃない。勝ち負けの話じゃない。呼吸一つで、人が壊れる場所だ。それが、この空間の正体だった。
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