第45話 数字が先に動く
ロシア連邦・軍戦略研究施設
2020年4月中旬
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モニタ群の青白い光が室内を切り刻む。画面上の曲線は滑らかに、しかし確実な速さで上昇していた。
セルゲイ・ミハイロヴィチ・ヴォロノフは椅子に浅く座った。感情が表面に出ることはない。彼の顔に現れる唯一の変化は、眉間に入る稀な皺だけだ。それは驚きでも恐怖でもなく、想定が外れたときに出る確認動作にすぎない。
「世界累計――増加率がモデルを上回っています」
解析担当の男が、報告書を読み上げる声は平坦だ。ロシア軍の研究施設において、感情はノイズでしかない。
「過去七十二時間で加速度が二段階目に入りました。現在の推移ですと……三日から五日。遅くともその範囲で、累計討伐数は百万に達します」
室内に、わずかな沈黙が落ちた。誰も声を上げないが、その数字が意味するところは全員が理解している。
セルゲイはモニタを切り替え、各国からの生ログを重ね合わせた。民間系の投入数、オークションにおけるアイテム流通量、SNS上の「需要指標」まで、ありとあらゆる断片が一つの方向を指している。
「……民間が止まりません」
「当然だろう。国家よりも早く死に直面しているのだから」
解析担当たちが低く声を交わす。
セルゲイは内心で式を組み替えた。
初期モデルの仮定――「国家管理下での投入が主体」「民間は限定的」――その両方が崩れている。当初の想定モデルでは、民間探索者の活動は不安定で、政治的摩擦と補給制約により伸びは鈍化する――はずだった。だが現実は逆を行っている。
(我々の想定が間違っていたわけじゃない)
(世界のほうが先に、モデルから逸脱しただけだ)
因子の加重が変化すれば、閾値到達のまでの速度は跳ね上がる。十万という最初の閾は既に世界を大きく切り替えた。百万という数は、同じ切り替えをより荒く、より不可逆的に行うだろう。
(百万は目標でも、称号でもない)
(境界だ)
口には出さないが、その確信はセルゲイの内部で既に言語化されていた。境界とは何か。新しいゲートが増える、階層が再編される、そして何よりも——人間社会の期待と資本の流れが現実の物理現象そのものを押し動かす。数字が世界を再配線する、その瞬間が来るのだ。
その時、室内の空気を切り裂くように、乾いた拍手が響いた。
「いやあ……実に見事な曲線だ」
アレクセイ参謀が、芝居がかった身振りでモニタを見つめていた。軍服は正しく着用しているが、その振る舞いから、どこか舞台衣装のようでもあった。異様に生き生きとした目が、数字を愛でている。
「革命前夜のパン供給量の推移を思い出すな。数字というのはいつも、銃声より先に動く」
愉快そうな微笑。
――アレクセイ・イリイチ・マルコフ。
ロシア連邦軍参謀本部所属。階級は一佐。戦略予測、心理戦、情報操作を専門とし、表向きは陽気な皮肉屋で人心掌握に長けているが、その実、部下に“考えさせているようで考えさせない”話術を使う人物だ。
「我々の仕事は、最悪が起きなかったことを祝うことではない。最悪を想定することだ。そして何より、世界に最悪が起きた時に、我が国が勝利するように道を敷いてやることだ」
軽い調子で、だが重い問いを投げる。
「──では、セルゲイ三佐。最悪のケースとは?」
セルゲイは即答した。
「はい。複数あります。高位モンスターの解禁。ゲート密度の指数関数的増加。既存兵器では対処不能な存在の出現……あるいは、その複合」
「いずれにせよ共通するのは一つ。人類側の準備が、決定的に間に合いません」
「ほう……」
アレクセイ参謀は満足そうに頷く。
「我々は何度それを経験した? 大祖国戦争、チェルノブイリ、九〇年代の崩壊。常に“想定外”は、準備が足りない者にだけ訪れる」
彼は歩きながら続ける。
「だからこそ、情報管理だ。情報は武器だが、同時に感染症でもある。最初の一滴を止められなければ、指数関数的に広がる。――君たちは、つい最近それを見ただろう?」
誰も答えない。感染症への初動失敗。その記憶は、ロシア国家にとって生々しすぎた。
「出しすぎれば市場が暴れる。黙れば噂が国家を殺す。必要なのは均衡だ。アクセス権の再設定、ログの二重化、報告の匿名化」
「科学を止めず、噂を殺せ」
セルゲイは静かに聞いていた。
(有能だ)
(そして――使いやすい)
最悪を前提に語る指揮官は、過剰な権限と予算を正当化できる。
彼が騒げば、こちらは冷静に必要な分だけを確保できる。
「次に資源配分だ」
アレクセイ参謀の声が強まる。
「アイテムが回っているのは研究分野だけではない。既に医療と投資目的に消費されている。HPポーションは消費すればしまいだが、他のアイテム……特に装備品はわけが違う」
「これは単なる財の流通ではない。アイテムが装着者に恒常的な補正を与えるという仮説が実用的価値を持つ以上、その取得効率が“国家的戦力”を決定する!」
机を叩く音が響く。
「確保戦略は即時に立案されねばならない。人員、装備、補給ルート、回収隊の訓練計画を同時並列で起動する。時間が稼げる今こそ、事実上の独占を仕掛けろ!」
参謀の指令に、解析担当たちが一斉に損耗率のシミュレーションを走らせた。投入兵力に対する期待ドロップ数、回収に要する工数、医療補償の想定コスト、そして国益として得られる長期的戦術的優位の価値。数式の結果は感情を一切挟まずに結論を出す。
セルゲイが参謀へ静かに問いかける。しかし、彼自身はその答えを想定していた。
「損耗は想定しますか?」
参謀は一瞬だけ、真顔になって答えた。
「損耗ゼロは幻想だ。我々は幻想で国を守ったことなど一度もない」
「目標は純利の最大化だ。国家としてな」
命令が下る。誰も反論しない。それがこの国のやり方だ。
参謀は視線を巡らせ、念を押すように言った。
「混乱を避けるには、流れを制御するしかない。無秩序な公開も、無策な秘匿も、どちらも国家にとっては毒だ」
「これは欺瞞ではない。安全のためだ。安全のために、必要な分だけを、我々が選んで出す」
セルゲイは静かに頷いた。だが、彼が受け取った命令は、参謀の言葉通りではない。全面公開は市場を暴走させる。完全秘匿は噂を肥大化させる。だからこそ“選別”が必要なのだ。国家が出口を管理し、速度と量を決める。他国には「追いつける幻想」だけを与える。
(英雄的成功談は不要だ)
(必要なのは、管理可能な失敗)
参謀の声が響く。
「これより、百万匹到達時点をイベント発生点として扱う!」
「希望的観測は捨てろ。ワーストケースを基準に動け!」
煽りすぎではないか?──そう考える者はここには誰もいなかった。最初に薫陶を受けていた。──“我々の仕事は、最悪が起きなかったことを祝うことではない”と。
セルゲイは、モニタの上に表示された予測値を見た。百万という数字はまもなく現実になる。達成そのものが善か悪かを問うのは愚かだ。問いは別だ——到達した先の世界を、われわれは如何に利用するのか。
(百万到達は不可避。準備することが我々の任務だ)
世界が数字に引きずられて動くとき、必要なのは喝采ではない。最悪を当然の前提として受け入れ、冷静に秩序を組み直す者だけだ。
それが、この国が生き延びてきた唯一の方法なのだから。
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