第44話 命を救うための討伐数
アメリカ中西部・ゲート周辺施設
2020年4月中旬
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朝露の匂いがまだ冷たく残る空気の中、サムはいつもの野戦テント前に集まっていた。ライトは薄く、装備の金具がかすかに金属音を立てる。朝の静けさが好きだったのは、戦場のように流れる時間のうちでも自分の息と仲間の心音だけが聞こえるからだ。余計な言葉が消えて、やるべきことだけが透けて見える。
サムは三十五歳の元救急隊員だ。救急車を飛ばしてきた日々が、いつの間にか黒い縁取りの穴を越える仕事に変わった。ここ数か月で数百、いや千に届くかもしれないスライムを粉にしてきた。金は悪くない。契約は安定している。だが今はもう、理由が少し変わっていた。
テント内のホワイトボードに、今日の割り当てが書かれている。出撃ルート、目標討伐数、燃料の配分、医療キットの個数。下段には小さく「州支援:燃料補給(50ガロン)/救急薬補助」とスタンプが押されたように記されていた。州のロゴが小さく入った紙が一枚、ボードにクリップで留められている。公式な命令でもなく、直接の契約でもない。だがその紙が示すものは明快だ──黙認の後押し。
「ねぇ、イタリアのニュース見た?」
同じ探索チームでリーダーの女が俺の横で囁く。彼女は元軍人で、手つきが無駄に確かだ。ヘッドランプの下で目が光る。
スマホの小さい画面を覗くと、ニュースのクリップが再生された。白衣の医者が慎重な表情で「一例」と言う。スクリーンのテロップは派手だ。『HPポーションで肺炎患者が回復』。それだけを切り取れば奇跡の見出しになる。だが俺は現場を知っていた。奇跡も偶然も、現場の判断で生まれる。
「一例だろ?」
サムは言う。だが後ろの焚火で飯を温めていた元警備員の男が、ザックのチャックをあおって笑った。
「一例でも十分だ。医者があれで助かったって言うんだ。もし本当なら、討伐で得られるものは金じゃない。誰かの命を買うチケットになるかもしれない」
サムは黙って頷いた。彼の内側にあるのは単純な算術だ。スライムがまれに落とす小さな小瓶――その小瓶が、病院の待合室で誰かの手に渡る。だが彼は数式だけで動く男ではない。彼は救急の現場で、人が瀕死の瞬間に何を優先すべきかを見てきた。目の前で息が苦しそうにする人を助けるのに、躊躇する理由はいらない。
朝のブリーフィングは短い。州の連絡窓口からのメッセージが一言読み上げられる。
「保健局より、HPポーションの臨床報告を注視中。救命用途を念頭に置き、民間と連携して必要物資の優先供給を検討する。暴走は抑制せよ」
法的な命令ではない。だけど、その一文が意味するところははっきりしていた——やれ、とは言わないが、やめるなとも言わない。
俺らのチームは「ゆるく」州と繋がっている。連絡が来るたびに補給が増えるわけじゃないが、燃料や弾薬の手配がつきやすくなる。州警察が隣の私有地との交渉を間に入れてくれる。そういう“便宜”があると、無理はしやすくなる。背中を押されているようで、同時に見張られている気もする。どちらにせよ、正義感は確実にこの背中を押していた。
「医療でHPポーションが必要だ、って話は本当なんですよね?」
新人の男が言う。二十代後半、サムとは別の州からやってきた元救命士だ。現場歴は浅いが彼の目には熱い思いが宿っていた。ニュースに感化された若い連中は増えている。理由は何であれ、彼らの躍動は頼もしい。
「わからん。ただ、俺らの討伐が誰かの酸素を繋ぐ一助になる可能性はある」
サムは務めて冷静に答えた。確かにそうだと信じたかった。救急時に決断を下して人の命を預かった経験が、今ここでの判断と繋がっている。もし薬だと思われるものが、実際に誰かの命を繋ぐなら、俺らは狩るしかない。
出撃の準備は荒いリズムで進む。防弾プレート、ショットガン、スタングレネード、簡易担架、医療キットに加え、今は小瓶用の保冷ケースまでがカタログ入りしている。スライム相手にそこまで緻密な準備が必要かと笑うやつもいるが、ここ数週間の経験で学んだのは──甘く見れば死ぬということだ。致命傷を出すのはモンスターだけじゃない。油断と疲労もそうだ。
「今日は北東の端を目指すわ。他の主要な探索者チームとは、狩場がかぶらないように調整してあるから、回数が稼げるでしょう」
リーダーの女が地図のコースを指さす。ディスパッチの管制は今日も細やかだが、命令ではない。俺らは自主的にルートを承認する。
夜明けの薄い光の下、俺らはゲートに飛び込む準備を整える。今日の俺らが狙うのは、浅層の広がりだ。スライムは効率がいい。相手は個体の耐久が低く、短時間で討伐数を稼げる。数を稼ぐことが、今は価値を持つ。
「数を稼ぐな」──誰かが言い出すかと思った。次の閾値を気にした声が上がるだろうと。だがそんな声はいつだってフードの中に埋もれていった。現場では数の先に何があるかが、肌感覚の判断を決める。心臓は静かに速くなる。救急車のサイレンを聞き続けた日々と同じ高揚だ。今日も誰かが息をするのを助けるためにやる。本質は同じだ。
討伐は淡々と、機械のように進んだ。スライムの動きは遅く、群れたそれらはただの狩場でしかない。俺らは分担して、連携して、素早く切り崩す。弾薬と時間を節約しつつ、目標数を一つずつ積み上げる。そのたびに誰かがカウントを口にする。誰がどれだけ取ったか、ログに刻まれていく。
「今週、俺たちで五千体いったらしいぜ」
元警備員の男が息を弾ませながら言う。誰が数えるのかというと、ゲートが開いて早々に開発されたというアプリだ。こういった仕事はお役所より、得てして有志のほうが早い。各現場が打ち込む討伐数がアプリ内で累積され、外の通信と繋がった途端、世界の総数が更新される。画面の端に小さな数字が踊るのを見るたび、胸の奥が熱くなると同時に冷える。この数字は単なる数でない。誰かの判断が、誰かの生き死にと、世界の地図を変えていく。
昼が近づき、燃料も弾薬も補充のタイミングが来る。だが俺らは休むのを後回しにする。死人が出るわけではないが、疲れは確かに蓄積する。若い仲間の顔が硬くなるのを見るたび、元救急隊員の本能が警鐘を鳴らす。回復は必要だ。でも回復が後回しになっているのは、理由がある。
「各地の医療機関から、州の緊急窓口に要請が殺到しているとのことです。集中治療一歩手前の患者が増加しており、ダンジョン由来の回復アイテム――いわゆるHPポーションへの問い合わせが急増しています」
そのラジオを、彼らはダンジョンに入る直前、装備確認をしながら聞いていた。供給は追いつかない。誰もが分かっている。だが分かっていても、止められない衝動がある。
夕暮れ前、俺らのチームは目標を上回る討伐数を記録する。ログを送信すると、アプリの累計がまた一つ増えた。世界合計が、また一歩、次の区切りに近づく。酒もないのに笑いが出る。誰もが疲れているのに、誰もが少し誇らしい顔をしている。命を救うための数なら、それは誇りの理由になる。
テントに戻ると、焚火の灰がまだぬくい。仲間が缶ビールを開け、俺もそれを受け取る。星が少し見え始める空の下で、誰かが軽く口を開いた。
「百万匹討伐も近いらしいぜ」
その声は軽かった。だが、世界がもうすぐ変わるという確信を含んでいた──数字が現実を動かす瞬間。誰かが数を増やし、世界が応答する。
討伐数十万匹という閾値を超えた後、世界にゲートが増えた。その後の閾値は二十万匹でも五十万匹でもなかった。では、百万匹は? 討伐数百万匹という数字は大きい。
次の閾値は、もうすぐそこに迫っていた。
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