第43話 特効薬という名の神話
イタリア中部・地方総合病院
2020年4月上旬
---
カルテの画面を閉じ、マルコはしばらく天井の蛍光灯を見ていた。夜勤が明ける頃、病棟は眠りを浅くしたまま、けれど確かに静かだった。昨夜、彼が記録し送信した「一例目」のファイルは、院内のデータベースに登録され、保健所に送られ、どこかの誰かの手に渡る――彼にはそれがどう回るか、正確には想像できていなかった。ただ、目の前の患者の呼吸が安定したことを、彼は淡く喜んだだけだ。
朝、コーヒーを飲もうとした矢先、受信トレイがけたたましく鳴った。見慣れない件名が並び、差出人は学会、地方保健所の上席、さらにテレビ局のプロデューサーらしい名前まで混ざっていた。最初に読んだのは、保健所からの短い文面だった
――「貴院より報告のあったHPポーション投与症例について、更なる情報を求む。可能であれば投与前後の血液検査データおよび画像所見を共有されたい」
返信を打ち始める。医学者的な義務が、無言のうちに彼の指を動かす。
だがその直後、担当の携帯が震えた。表示には見知らぬ番号と、大手ニュース局の名前。受話器越しに、女性アナウンサーの声が焦って入ってきた。
「ロッシ先生、こちらはRAI News 8です。先ほど保健所からのリークで、先生の症例がニュースになっています。『ダンジョン由来のポーションで肺炎が回復』と大きく扱われています。コメントをお願いできますか?」
彼は一瞬、頭の中が真っ白になった。医師としての慎重さと、人の生死を目の前で扱う臨床家としての切迫感とが交錯する。報告は事実だ。だが「回復=薬効」という短絡的な結論は、まだ何の検証も経ていない。彼は言葉を選んだ。
「症例は一例です。投与後に呼吸状態が改善したことを記録しましたが、因果関係は確定していません。詳しいデータを整理のうえ、学会を通じて正式に報告します──」
その短い回答は、放送される映像の前に凍りついたように消えた。テレビは短い切り取りを好む。夜のニュースは、テロップに「奇跡の治療薬?」と掲げ、彼の慎重な言葉は画面下の小さな字幕に押し込まれた。
午後になると、空気が変わっていた。病院の受付カウンターに来訪者が現れ始める。好奇心と急いだ喧騒を混ぜた顔つきの人々。携帯を片手に、誰かが話しかける。
「ここでその薬、手に入りますか? どこで売ってるんですか?」
看護師が応対に追われる。院内には短いやり取りが飛び交い、マルコのメールボックスには「メディア取材」「投資家の問い合わせ」「警察からの照会」が相次いだ。彼はカルテの数字に戻る。だが頭の片隅では、テレビの切り取られたフレーズが重く響いていた――「回復」「特効薬」。
翌日、世界の反応は早かった。ワイドショーでは専門家として名の知れた感染症医が電話出演し、「興味深いが症例数が少ない」と慎重に述べる。だがその直後、スタジオのテロップには大きく「特効薬の可能性?」と踊った。視聴者のツイートは削り取られた断片をもとに燃え上がった。#HPPotion のハッシュタグが弾け、短いリール映像が世界中で再生される。
マルコは午前の回診を終えた後、同僚のナタリアに呼ばれて小さなミーティングルームに入る。そこには院長と情報管理担当が顔を寄せていた。院長は眉をひそめる。
「ロッシ、これはまずい。君の報告は正確だが、外に出てからの拡散が想定以上だ。保健所は既に学術的な問い合わせを受けているし、厚生省からも連絡が入っている。メディア対応は広報が引き取るが、院としての統一見解をまとめる必要がある」
情報管理担当が、スマホを投げるように見せた。画面には既に国内外のオークションサイトのスクリーンショット、闇サイトの掲示板、複数のブローカーからの直接メッセージが並んでいる。値段の桁が一段上がり、入札のログが更新される。マルコの胸が沈んだ。治験の慎重な手順は、まるで別世界の話に思えた。
彼らが議論しているうちに、病院の一角から看護師の叫びが聞こえた。外来の小窓越しに、若い男性が押し立てるようにして小瓶を差し出している。小瓶は簡素なラベルが剥がれかけ、「HP POTION」と走り書きされている。男性は目を血走らせ、震え声で言う。
「これを売ってやる。二万ユーロでいい。効くって、聞いたんだ。命の値段だ!」
セキュリティが介入し、男性は取り押さえられた。だがその一部始終が、近くに控えていた見物人のスマホにより撮影され、またたく間に拡散された。価格の情報は瞬く間にコピーされ、他の掲示板で横行する。偽物と本物の区別がつかないまま、憶測と買い占めが市場を動かし始めた。
マルコは一日中、電話とメールに追われた。学会からは「症例集積と倫理的手続きの協力要請」が届き、保健所からは「データの即時提出」が求められる。だが同時に、彼の元へは匿名の脅迫めいたメッセージも届いた。「あなたは情報を隠している」「患者の命を独占するつもりか」。病院の広報はSNSで「当該投与は単発であり、因果関係は不明。個人売買や無許可投与には厳正に対処する」と声明を出した。しかしその声明の文面は、瞬時に切り取られ、引用され、別の文脈で再掲される。
世界の政府は動揺した。各国保健当局の長電話。どの首脳もまず供給不足を確信し、次に優先順位の設定を求めた。ある国の厚生大臣の言葉が、マルコの耳にも届いた。
「重症患者に行き渡らせるのは現実的か? 供給源は? 量は?」
──問いの先にある絶望が、その声に滲んでいた。
だが医療現場からの声は、より生々しかった。病棟のナースステーションには悲鳴に近い問いかけが増えた。
「なぜあの患者は助かったんだ? なんでこの人はダメなんだ?」
「どう説明したら家族は納得するんだ?」
「医療リソースをどう配分すればいいんだ?」
症例が一つ、二つと報告されるにつれ、救われた話は英雄譚のように拡散される一方で、助からなかった例や、投与後に改善せず悪化した例の記録もちらほら上がり始める。だがニュースは前者を追いかけ、後者は短い注釈や匿名のコメントに押しやられる。
マルコは夜、ひとり机に座って医療データを眺めた。投与前後の血液ガス、胸部X線、炎症マーカーの動き。確かに幾つかの数値はポジティブな傾向を示している。しかしその分布はばらついており、初見の患者の病態がそもそも均一ではない。ポテンシャルな説明はあるが、決定的な因果証明には至らない。彼の胃が冷たくなる感覚は、科学者としての警鐘だった。
その夜、彼のもとに短いメッセージが届いた。差出人は、同じ地方の別の病院の医師だった。
「我が院にも1本届いた。重症例に投与したが反応が鈍い。重症化の段階が違うだけかもしれないが、現場は混乱している。これを特効薬と宣伝するのは危険だ。共有できるデータを送る」
マルコは返信を打ちながら、ふと自分が昨夜書いた一行を思い出した――「結論は書いていない」。だが世界は、その一行を待たずに自分の物語を作り始めていた。
翌朝、新聞は「特効薬の可能性、希望の光」と大見出しを打ち、株式市場は医療関連銘柄を上げた。闇市場では値段がさらに跳ね、海を越えて小瓶が動くという噂が出回る。政府は議会で緊急討議を迫られ、医療倫理委員会は公開セッションを緊急にスケジュールした。世界は、証拠の重みよりもスピードを選んでいるかのようだった。
だが医療現場の疲労は深く、冷たい事実が静かに積み上がっている。ある看護師のつぶやきが、マルコの耳に刺さる。
「効いた人は、たまたま炎症が進行中だっただけかもしれない。すでに壊れてしまった肺胞には、届かないのよ」
マルコはその言葉を反芻した。
誰もかれも知らないことが多すぎた。当然だ、いまだゲートが出現してから3か月と少ししか経っていない。ゆえに彼らは知らなかったのだ。HPポーションの本質が「等級に応じて、体を基準状態に戻す」ものであることを。
ウイルスを排除したり免疫を底上げしたりするものではない。そんな細かな機序は、今はどの報道も語らない。世間が「特効薬」の語で得ているのは希望の断片であり、説明責任はまだ先延ばしにされている。
夜、病棟の窓から月を見上げたとき、マルコは小さな祈りを心の中で捧げるように言った。
「僕は正しいことを、しているだろうか」
返事はない。だが彼は翌朝もカルテに向かい、数字を打ち込み、次の症例の観察に備える。世界が何を神話化しようと、医療は冷たい数字の積み上げでしか前に進まない。そしてその数字が、いつか神話の亀裂を白日の下にさらすのだろう――彼はまだそれがいつかを知らなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも良いなと思っていただけましたら、
ブックマーク、評価、リアクションのほど、よろしくお願いします。




