第42話 一例目(ケース・ゼロ)
イタリア中部・地方総合病院
2020年4月上旬
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夜明け前の病棟は、機械音だけが律を刻んでいた。酸素流量計の細かなクリック、モニタの緑の波形、換気回路の低い吐息。窓の外はまだ暗く、廊下の蛍光灯が白々と顔を洗い流す。地方総合病院の感染症病棟は、ここ数週間ずっとこの音で満たされている。疲労は空気よりも濃く、誰もがそれをまとっていた。
マルコ・ロッシは、カルテ端末の薄い光を受けて黙々と数値を追っていた。29歳、ローマ大学の出身だが、研修医時代から田舎の病院を渡り歩き、救急と内科の境界で実務を叩き込まれてきた。研究よりも臨床を選んだ理由はいつも同じだ。目の前の患者を生かすこと──それだけが彼を動かす。
ベッドのひとつに、呼吸を浅く速くする中年の男がいた。酸素飽和度は85%台をうろうろし、鼻カニューラからの酸素を増やしても改善は鈍い。胸部の透過音は濁り、呼吸音は粗い。何度も過去に似た波を見送ってきた。人工呼吸器をかける――それが選択肢だ。しかし ICU は満員、近隣施設にも空きはない。挿管を行えば、その場で命をつなげる可能性は上がるが、その先の管理を担える場所がない。
「サチュレーション、下がってます」
「RR は 28、呼吸仕事量が増えてる。血圧は保たれてるけど……もう一段介入を考えないと」
看護師の声が低く響き、マルコは患者の胸に手を当てた。鼓動は速い。彼は眼鏡の鼻を押し上げ、短く息を吐いた。今夜もまた、選択が迫っていた。
そのとき、若い看護師が小さく声を上げた。手にした小さな封筒を差し出す。
「ドクター、外来の知人が……持ってきたって。『使ってみないか』って。説明書はないけど、ダンジョンで軽微な外傷に使われてる、あの、“HPポーション”。」
封筒は折り畳まれた紙に包まれ、印字は乱暴だった。中には小瓶が一本。一見して透明の液体がゆっくりと揺れる。ラベルには「HP POTION」とタイプ打ちのように書かれていて、その下に小さく英字で「for first aid?(応急処置用?)」と走り書きがあるように見えた。正式な承認の匂いはどこにもなかった。
マルコは小瓶を手に取った。冷たさと微かな硝子の重み。彼の胸には、学者としての疑義よりも臨床者としての焦りが先に立った。これは薬でないかもしれない。だが手元にあるのは選択肢と呼べるものの一つであり、目の前の男はその選択肢を待つ余裕を持っていない。
「どういう入手経路か、明確にしておいてくれ」
彼は低く言った。看護師は小さく首を振る。
「私も詳しくは……。探索者の方が、帰り際に寄付してくれたって。連絡先はないそうです」
倫理委員会に書類を回す余裕はこの病院にはない。法的な問題、記録の問題、後の説明責任──それらは頭の片隅に積み上がっているが、今、患者の胸の上下に合わせて刻まれる刻が最も現実的だ。
ナースステーションで、数名が瞬間的な会話を交わす。言葉は短く、しかし温度はある。
「これは……臨床試験じゃない。使ってもいいのか?」
「いいわけないだろ。でも、ここで『様子を見る』という選択肢は、文字通り『様子』で終わる」
「家族には連絡はするの? 同意は……」
「面会制限で来られない。電話で説明すればいいけど、説明したところで投薬するかの選択肢は我々の手元に残る。どうする?」
マルコは患者の顔を見た。酸素マスクの下で、瞼の震えが見える。そこに映るのは恐怖というより疲労だった。家は遠く、面会はできない。家族にはビデオ通話で短く話したことがある。彼らは何かを選べるほどの時間も知識も持っていない。
決断は速やかに降りてきたわけではない。だが、いつものように、行為は静かに現れた。
「経口で投与します。単回。使用は記録して、症状の変化を細かく追跡します。ICU に移す基準は継続して考えましょう。可能性が少しでもあるなら、進むべきだ」
看護師が小瓶の栓を抜き、針のない注射器で慎重に吸い上げた。液体は淡く光り、匂いはほとんどなかった。マルコは唇を湿らせるように患者に注ぎ込ませる。数分の静けさの後、モニタは淡い波を描き続けた。劇的な変化はその場では起きなかった。
だが医療は、時にその「その後」を数える作業である。
投与から三十分ほど経った頃、患者の呼吸がわずかに穏やかになった。胸の上下が浅くはあるが、かすかに規則性を取り戻している。酸素飽和度はつねに上がるわけではなかったが、下げ止まりのように見えた。呼吸数は少し落ち着き、苦しげな表情が和らいだ。看護師が顔を見合わせ、モニタを凝視する。誰も大声で喜んだりはしない。そうするほど簡単な問題ではないと、皆がわかっている。
数時間後には、数値はさらに安定した。挿管の必要は当座回避された。気道確保のための人工呼吸器は別の重症患者に回すことができた。患者は眠りに落ち、酸素投与量を少しずつ下げても波形は持ちこたえた。夜が白み始める頃、看護師は初めて小さく声を漏らした。
「……持ち直した、みたいです」
言葉は慎重だったが、そこに含まれる重みは大きかった。マルコは黙って頷いた。彼は歓喜や安堵をひけらかすことをしない。だが胸の奥に、説明できない一抹の違和感が芽生えているのを感じていた。患者が「治った」わけではない。だが明らかに、進行の流れが止まり、少し戻り始めている。体の状態がなにか別の“基準”に引き戻されたような、説明しづらい感覚。
翌朝、回診の列に主任医が入ってきた。彼は書類をぱらりとめくり、記録に目をやると、不意に眉根を寄せた。
「マルコ君、これをカルテにどう書くつもりだ?」
「投与と反応の経過を時系列で。客観的数値と、看護記録を添えて。原因不明の一時的改善、という体裁でまとめます」
「研究に回すなら倫理委の承認が必要だ。今は臨床上の対応を優先したのだろうね。だがひとつだけ言っておく。これは単発の観察だ。これをもって『有効』とは言い切れない。分かっているとは思うが、外部に出すなら慎重を期すように」
主任の口調は硬く、だがその眼差しには複雑な光があった。彼もまた、何度も瀕死の顔を見送ってきた。『希望』を選ぶことと『無謀』を選ぶことの境界を、誰よりも重く知っている。
マルコはカルテを打ちながら、手元の小さな欄に几帳面に文字を並べた。投与量、投与時間、既往、家族への説明――細かな行。彼は自分が書く文言の重さを意識していた。記録は後から世界を動かす。だが彼は、大勢の前で名を叫ばれたり、賞賛されることを望んでいなかった。目の前の男が息をしている、それだけで十分だ。
午後、院内の小さな会議室で医師たちが短いブリーフィングを行った。噂は既に小さく広がっている。隣の大学病院から若い研究者が電話をかけてきて「詳細を教えてくれ」と言い、地域の保健所からは「経過を逐次報告せよ」との通達が来た。だが正式な検証はまだ遠い。検証用のサンプルはない。入手経路は不明瞭だ。探索者によっていつしか呼ばれるようになった名称は「HPポーション」。だが、それが何を意味するのか、誰が規定したのかは病院内で説明できる者はいなかった。
夜、マルコは病棟の窓から差し込む朝の光を見ていた。疲れはいつもより重く、眼の奥にはかすかな静けさがあった。奇跡めいた物語を語るほど彼は無邪気ではない。だが、名刺ほどの小瓶が一つ、世界の評価軸をずらすには十分な力を持っているかもしれないという予感は消えなかった。
彼は短い報告書をまとめることにした。「一例目」とだけ見出しをつけておく。文言は慎重だ。数値と時系列、観察された変化を淡々と列記する。結論は書かない。結論は証拠が積み重なってから書くべきものだ。だが、事実を事実として残す義務はある。
封をしたPDFファイルを院内のデータベースに置き、コピーを政府の感染症担当にも送信した。マルコはそれを送信ボタンで流し、画面が「送信完了」と表示されるのを見つめた。送信の先にあるのは、検証の始まりか、あるいは噂の拡散か。どちらが先に来るか、彼はわからなかった。
ベッドの隅で、患者は眠っている。酸素はまだ必要だが、呼吸は落ち着いている。マルコはそっと手を伸ばし、患者の額に指先を置いた。体温は微かに高く、湿り気が残る。彼はつぶやいた。
「これは奇跡かもしれない。偶然かもしれない。だけど、僕たちが見つけ出した希望だ」
日付を打った報告書のタイトル行に、彼は静かにこう付け加えた。
『一例目 HPポーションに対する最初の臨床反応の記録(報告番号:Local-0420-01)』
その小さな行は、やがて世界の異なる動きを呼び起こす鎖の、ほんの最初の一コマに過ぎなかった。マルコはそれを知る由もない。ただ、目の前の呼吸が少しだけ楽になったことを確認し、また次の夜の勤務表を眺めた。世の中が大きく動くにせよ、小さく止まるにせよ、自分は明日の朝もここで働いているだろうと、腹の底で思った。
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