第40話 最初の線引き
日本・ダンジョン前規制区域
2020年3月下旬
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早朝の冷気が薄く伸び、規制区域のフェンスは銀色の露をまとっていた。まだ薄暗い中、スマートフォンの画面だけが明るく瞬き、数人のグループがそこに集まっていた。話し声は小さく、しかしどこかはしゃいだ緊張を帯びている。
「ここで合ってるのか?」
「ツイート見せるよ。『今朝から開放』って書いてある」
スマホの画面を見合う。そこには、昨日の夜に拡散された、粗いフォントの画像が表示されていた。
《ダンジョン民間開放/本日開始》
《事前登録制・自己責任》
誰かが言う。
「ほら、ちゃんと書いてあるじゃん」
誰も、その出所を確かめてはいなかった。
腕にスポーツ用のプロテクターを巻き、工事用ヘルメットを半ば逆さに被った男が画面を振るう。隣では作業用グローブに軍手を重ねた女が、小さなビニール瓶をポケットに押し込んだ。瓶には手書きのラベルが貼られている――「回復薬」と読めた。
向こう側、規制線の中にはプレハブの検問と自衛隊のテントが並んでいる。テントの外で待機する隊員たちは、まだ朝礼の終わらない時間帯だった。黒い識別パッチを付けた隊員が、フェンス越しに瞬きする声を聞き、眉を寄せる。
「人数が増えてる。通報はしてるか?」
「地域課に連絡済みです。内閣府の連絡官が向かっていると」
隊員の声は淡く、しかし焦燥が滲んでいた。ここ数日の「熱」はネット経由で加速しており、小さな噂が現場に人を運んでくる。だが現実のルールはまだ整っていない――民間参入は検討中であり、正式な許可など出ていない。現場の対応マニュアルは「想定外の群衆」を十分には想定していなかった。
最初に声を張ったのは、スマホを掲げていた若者の一人だった。彼の胸は期待で膨らみ、語る言葉は単純だった。
「なぁ、受け付けはいつから始まるんだ? 今日から入れるんだろ? 自己責任だろうが関係ない。早く入れてくれよ」
隣の中年男性は、紙を取り出して見せた。印刷された書類には英文の断り書きを含む“契約書テンプレ”があり、ところどころ英語と日本語が混ざっていた。文字列の端に小さな署名欄があるだけで、正式な効力を問う者は誰もいない。期待は契約書の空欄を埋めるだけで現実になるように見えた。
フェンスの向こう、現場の指揮系が決まらないうちに状況は動き始めた。あるグループが押し寄せ、赤いラインの前に立つ。隊員が拡声器で注意を促すが、雑音にかき消される。
「ここは立ち入り禁止です! 指示に従ってください!」
拡声器の音は穏やかで命令調だが、群衆の中に広がる不満の声はそれを上回った。
「話が違う! あんたたちが黙ってるから俺たちが来たんだ!」
「入れてくれ! 準備してきたんだ!」
押し合いが起きたのは、ほんの些細なきっかけからだった。荷物を支えようとして足を滑らせた者がフェンスに手を突き、隣の男の腕を弾いた。突き飛ばされた男のビニールが破れ、中の小瓶が床に転がってガラス片が舞った。ガシャーンと派手な音が鳴り、小さく悲鳴が上がる。それは、瞬間的にパニックの種になった。
「おい! 危ないだろう!」
叫び声と同時に、押し合いは本気の突進に変わるほどには至らなかったが、数名が転倒し、一人が顔面を打って血がにじんだ。救護テントを守っていた衛生班が駆け寄り、包帯と簡易止血で対処した。重症ではないが、現場の空気は一変した。カメラやスマホのレンズが向けられ、短い断片が即座にネットへ流れていく。
内閣府の連絡官が到着すると、現場はさらに慌ただしくなった。紺のスーツにネームタグを付けた彼女は、流れるように指示を出す。言葉は穏やかだが、何度も繰り返されるほどには届いていない。
「皆さん、お願いです。公式な手続きが完了していません。今は立ち入りを認められません。落ち着いてください」
叫びや抗議は止まらない。SNSを通じた不正確な情報が、実地の混乱を作っていた。ある者は「この場で契約しろ」と要求し、別の者は「公開処刑だ」と叫んで情報の不透明さを非難した。群衆は均質ではない。失業と希望、好奇心と絶望、投機的な興奮と真摯な祭礼願望が混ざっていた。
午前のうちに、内閣府記録課へ緊急の電話が入った。現場からの第一報が、官邸の電話回線を震わせる。
「官邸、内閣府です。ダンジョン前で群衆が集結、軽度の負傷者あり。現場は抑えつつあるが、情報の拡散速度が速く、今後も波が来る懸念があります。指示を仰ぎたいのですが」
受話器の向こうで、官邸の対応班は即座に動いた。綾部信三は朝の執務に向かう途中でその報告を受け、書類を一瞥した。
数字は小さかった――数十人の集まり、数名の軽負傷。だが報告書の文言が吸い上げる不安は大きかった。問題は数自体ではない。説明していないことが人々をそこへ向かわせ、説明しないまま放置すれば「最初の線引き」を民衆によって強要されるという事実だった。
綾部は窓の外の空を一瞬見た。灰色の朝の光が街を薄く包んでいた。彼は短く息を吐き、執務室の椅子に背をつけた。
「まずは現場の安全確保を最優先に。二次拡散を抑え、誤情報を正す声明を出しましょう。いや、それだけでは不十分ですね……。今日、我々は──予定していなかった形で‘線’を引かされるかもしれない」
官邸内の連絡網は速やかに動き、内閣府は午後までに簡潔な声明を用意した。声明は冷静な語調で、だがはっきりとした内容だった
――「本日午前中の報道およびSNSにおける『民間参入開始』の情報は誤りである。現時点での立ち入りは認められていない。無許可での接近・立ち入りは厳に禁ずる。違反者には法的措置を検討する」
現場に届いた声明は、即効性を持った。叫び声の何割かは沈静化し、SNS上の一部の投稿は訂正され始めた。だが懐疑は残る。
「官邸が今言ってるのは知ってる。でもさ、朝には別の話だった」
そう呟く者たちは、フェンスの外で固まっていた。
夕暮れ前、フェンスの前に残っていた人々は散り散りになっていった。怒りと落胆が入り混じり、だが逸る足は次第に途絶えた。警備ラインは静まり、隊員たちは震える手で装備を拭いた。救護テントの照明がゆっくりと落ち、血のにじんだ包帯は廃棄袋に入れられた。
綾部は深夜の報告を待ちながら、机の前で小さな紙片に文字をしたためた。彼はわかっていた。今日引いた線は、暫定であり、脆く、説明責任の欠落を一時的に埋めるだけのものだ。しかし、線は引かれた。人々がぶつかって初めて、その存在が意味を持つ線は、もはや彼らの手の中にはない。
彼はペンを置き、窓の外を見やった。夜の冷気の中で、フェンスの向こうにわずかに残る足跡が白く光った。
「線は、本来、事前に引くべきものです。でも、今回は──人がぶつかってから引くことになった。」
それでも、引かなければならなかった。
これが最初の線引きだった。遅く、不格好で、だが現実に触れた線。次は、言葉で説明しなければならない。なぜ遅れたのか。何を許し、何を許さないのか。
世界はもう、待ってくれない。
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