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ゲートキョウソウ  作者: 卜部


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第36話 暗黙のステータス

 ロシア・モスクワ郊外/第8〜10階層最深域

 2020年3月中旬


 ---


 ――息が白くなるほどの寒さではない。だが金属製のテーブルと蛍光灯の光はいつも冷たい。


 セルゲイ・ミハイロヴィチ・ヴォロノフ三佐は、モニタ群の前に座ったまま目を細めるでもなく、画面に映る数字を見続けていた。表示は淡々としている。討伐ログ、出撃記録、帰還兵の心拍・筋電図、回収物の一覧表——それらが列を成して流れていく。彼の顔に表情はない。分厚い書類の山の上に、わずかに埃が積もっているのが見えただけだ。


「第十階層、三部隊が深部から帰還。うち二部隊の人員に負傷あり。回収物は確認済み」

 解析担当が読み上げる。声は緊張を帯びているが、それも形式の一部だ。


 セルゲイは指先でモニタをなぞり、ログの一行を拡大した。階層は8〜10。モンスター種別は報告どおり、フォレストウルフ、ナイトウルフ、ワイルドボア、オーク、キングボア。オークとキングボアは8階層から出現し始めてたモンスターで、公表の上では他の国は未確認のモンスターだ。

 生起した戦闘のサマリには、兵士の位置・被弾箇所・使用火器の一覧。そして最後に、回収された“レアアイテム”の写真が並んでいた。


 オークが落とした保存状態の良い長槍と、キングボアが落とした大きな牙を削った護符。それぞれ「戦装の槍」「王牙の護符」と名付けられた。


 写真は色褪せた光沢を帯び、だがセルゲイの視線はそこに宿る「功能」よりも先に、確率と投入資源の計算に移った。


「ドロップ率は?」


 若い解析官が想定通りの数字を返す。


「報告では、比較的よく落ちるアイテムは25匹に1個、レアは50匹に1個です。ただこれは新規に配属された隊員のデータです。初期から探索を続けている隊員の一部では……1.2倍のドロップ率が観測されています」


 数字の意味を計るために、セルゲイはノートに乱暴に計算式を走らせた。期待値の差、討伐回数の差、そこに至るまでの兵力の消耗率。紙の上で数字が踊ると、そこに明確な方程式が現れる。彼は顔に微かな線を寄せる。感情ではない。条件判断だ。


「つまり、ある程度の“殺し込み”をすれば、特定アイテムの回収は現実的だ。コストは高いが傾向は確実だな」


「はい。討伐数が一定を超えると、個人の何らかの能力が“跳ねる”ことも確認されています。また、第5階層までと第6階層以降では、1匹討伐するあたりの“経験の蓄積”が異なります。第6階層以降への投入を続ければ、効率的に経験が積めます」

「何の能力が“跳ねる”かは本人にも選択不能ですが、ログや報告を見るにダンジョン内での行動・思想が影響を及ぼしている疑いが濃厚です。我々が投入を続ければ、ドロップ率に影響する能力を上げる個体も増えるでしょう。」


 解析官の言葉は、やや興奮を帯びていた。セルゲイはその興奮を消すために、言葉を整えながら次の段取りを図る。


 ダンジョン内部で観察された変化は、単なる噂の域を超えていた。帰還兵の動きは人としての"質"を変えている。反応速度、判断の一貫性、致命的な局面での生還率、それらの統計は偶然では説明できない偏りを示している。さらに重要なのは、特定の装備を身につけた者が明確に優位を示していることだ。


 写真の戦装の槍は、兵士の突きに“明らかな”鋭さをもたらした。王牙の護符は生命維持に直結するような効果を示した。ステータスウィンドウがポップアップされたわけではない。しかし、臨場の報告と筋電図、戦闘の映像を突き合わせれば、相関は強い。セルゲイはそれを「仮説」としてではなく、条件付きの事実として扱った。


「我々がここで得られるものは、資源や数値——ではない。人間そのものの能力変化だ。これを軍事に応用できれば、戦術は根底から変わる」


 若手の顔がゆがむ。誰もが、言外の意味を察した。軍にとって“兵士の性能”は常に操作対象であり続けた。だがここで言う“変化”は、外科的な訓練や薬剤の延長線ではない。ダンジョン入域の経験とドロップした遺物が噛み合い、人間を“別物”にしている可能性がある。


 セルゲイは冷静に計算を進める。まずはリソースの最適配分だ。高火力の消耗は前提となる。彼はメモを取り、必要兵力、弾薬投下量、補給ライン、死者率、期待されるドロップ数のシミュレーションを立てた。数式の先には、また別の判断が待っている。“倫理”はここでは変数に過ぎない。組織の目的が最優先だ。


「犠牲率をどう見る?」


 同僚が尋ねる。セルゲイは目を閉じ、わずかに呼吸を整えた。


「想定の範囲だ。だが想定内であることと容認することは別。損耗を抑えるための手順は強化する必要がある。そのうえで目標を達成する。時間を失えば、それ自体が損失だ」


 その言葉は冷たい。だが同僚は頷く。彼らまた、最悪を想定する訓練を受けてきた。


 翌日、作戦が開始された。深層に投入されるのは三個大隊規模の突入群。前線は重火力で道を切り開き、人員は次々と降下していく。戦闘は荒かった。フォレストウルフの擬態が時折部隊を食わせ、ナイトウルフの反射的な奇襲で一列が揺らぐ。ワイルドボアの突進は防盾を吹き飛ばし、キングボアは長期戦に持ち込むことで一度は全体のバランスを崩した。


 だが、“取るべきもの”は取られた。撤収指令が下ったとき、担架の列はあったが、幾つかの袋には回収品が詰められていた。戦装の槍、王牙の護符、厚い革の切れ端。兵士の一人が泥だらけの槍を掲げ、そこに光が差した瞬間、セルゲイは足元のモニタでその兵の筋電図を見た。突きの速度に0.8秒の短縮が計測されている。心拍の戻りも早い。


「新時代で必要になるのは、兵士の数ではない。質だ」


 彼は独り言のようにつぶやいた。


 解析室でのデータ同化は速い。帰還兵の行動データと回収物の履歴を突合すると、驚くべき図式が浮かび上がる。多数のモンスターを倒した者ほど、再突入時の行動安定度が上がる。レアドロップを身に付けた瞬間に、ある種の補正がかかる。同じ武器、同じ被験者でも、経験量の差が乗算的に効いている。


 セルゲイはこの現象を、軍事的に翻訳した。討伐数の蓄積は学習ではなく、恒常的な能力値の増加である。レアアイテムは単なる資源ではなく、性能を補正する器である。これは兵科間や同盟国間の力学を変える。持っている国と持たない国の差は、戦術的優位を長期にわたって固定化する。


 彼は決断を下した。速やかに、しかし厳密に計画を進める。


 秘密裏に増員し、回収作戦を量産する。専用の訓練場を作り、帰還兵を隔離して能力の定量化と再現を試みる。レアを巡る流通は封印し、国家管理下で解析・利用を独占する。データは外に出さない。国際会議での“控えめな”戦績の提示はそのままに、現場では別の時間軸が動く。


「これを公開すれば、国際的に混乱が生じるだろう。──がゆえに、独占すれば我々は新たな戦術資源を得ることができる」


 セルゲイは冷たく呟く。


 若手の一人が、綻びた声で問う。


「人員は……戻って来られるのでしょうか」


「戻す。戻すために最善を尽くす。我々とて、兵をいたずらに使い潰したいわけではないからな。」

「だが戻らない者は出るだろう。それもまた計算済みだ」


 セルゲイは顔をあげ、初めて短く笑った。それは安堵でも悦びでもない。計画の正確さを確認したときに出る、機械じみた笑いだ。


 夜、深層の作戦地図の前でセルゲイは指先で一点を示した。そこには、いま確保された幾つかの点」と、予定される燃料・供給ラインが赤い線で引かれている。彼はその線を見つめ、静かに宣言する。


「我々は今、時間差で優位を作る。基準が国際的に形成される前に、実地の基準を作る。次の戦争は、既にここで形を取り始めている」


 言葉は短い。だが組織の歯車は動き始めた。封印されるべき記録は鍵のかかったサーバにコピーされ、撤去されたログは別名で保存された。写真はモノクロで切り出され、研究班の手元へと回る。現場では新たな出撃が準備され、補給列車は夜のうちに走った。


 セルゲイは最後に、帰還兵たちの映像を一つ一つ見た。そこに映る動作は、やはり変わっていた。突き、引き、構え、間合い。彼らはもはや単純な兵士ではない。経験と装備が掛け合わされ、別の生産物を生んでいる。


 彼は窓の外の黒い空を見上げ、あまり大きくない声で囁いた。


「我々は……準備するだけだ。だが準備した者が、次の標準になる」


 それは予言ではない。命令だ。冷厳な命令が、夜の基地に落ちた。

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