第32話 基準の揺らぎ
中国・北京市/日本・首相官邸/ロシア・研究部門
2020年3月上旬
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李宇航はテントの端でスマホを凝視していた。画面のループは止まらない。黒い球が光って、落札されて、落札者が誰かの「味方の数」を当てる──その短い動画が、今や世界の何かを揺らしていた。
「……これ、マジでヤバくないか?」
小声で自分に言い聞かせるように呟く。画面の光が顔を照らし、眠そうだった目が覚める。水魔法Ⅰのときの感覚が、フラッシュバックのように頭をよぎる。あのときの“手の感触”と、このオーブの“何かを示す”感じは、どこか重なる。
(俺のこと、バレないか? 言ったら終わりだよな……実験動物行き確定だし)
ノートを取り出し、落書きのように箇条書きする。隠すべきこと、見せてはダメなこと、そして「もし聞かれたらこう答える」リスト。字は走る。心の中はざわついている。
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一方、東京。首相官邸の会議室はいつもより明るく、だが空気は浮つかない。テーブル上には新しい資料が山積みだ。SNSで広まるオーブの動画、オークション価格表、各国の対応メモ。紙が多いほど、決めることが増える。
「この“オーブ”の件、君らはどう見る?」
官房長官が資料をバサッと広げる。手際はいいが口は重い。
厚生省の担当が軽く喉を鳴らしてから答える。
「現実問題として、既成事実化しています。民間が“できる”と証明した瞬間、それはもう計測対象ではなくなりました。扱い方を間違えれば“我々が遅れた”という批判に変わりますよ」
科研担当者がメモをめくりながら、目を細める。
「ただ、我々も冷静にならなくてはいけません。まずは再現性の検証が必要でしょう。力を得たのが偶然なのか、使用者の素質なのか。そもそも使用方法も明確ではない。そこを切り分けないとルールは作れないでしょう」
「切り分けるといっても、具体的な方法は?」
官房長官の問いに、科研担当者が返す。
「使用者を選定して、条件を統制して、同一条件で再現を試みます。装備、環境、被験者の年齢、食事、何でも記録に入れる。実験プロトコルを作れば、科学的に議論できます」
厚生省の担当が割って入る。
「待ってください。そもそもスキルオーブのドロップ自体が世界初だ。同じものが、次いつドロップするかも分からないでしょう。実験も何もあったものではない」
「それでも枠組みは作っておくべきです」
綾部は手を組んだまま、しばらく黙る。目まぐるしく変わるゲートの状況からか、顔には少しの疲れが見えた。けれど、いつもの穏やかな口調が、その場の重さを運ぶ。
「基準を作る、ということは“正当性”を作るということです。誰かが後でそれを問われる。だから我々は――質を取る。急がば回れ、です」
席の隅で、誰かが小さく笑うように言った。
「ですが、綾部総理。ネットは待ってくれませんよ?」
その言葉に部屋の空気が一瞬だけ、くすぐられる。
「分かってます。だからこそ、早く基準を示す必要がある。だが、急いで間違った基準を出すわけにもいきません」
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モスクワの薄暗い解析室では、セルゲイ三佐が画面を睨んでいた。彼の机の上にも、世界中の断片映像が並ぶ。データは少しずつ、だが確実に彼の指に吸い寄せられていく。
「群感知オーブ、だと?」
部下の1人が口をつぐむ。セルゲイは画面を切り替え、動画を再生した。映像は素人っぽいが、効果は分かりやすい。位置が“ぼんやり”見えるだなんて、軍事的には魅力的な話だ。
「まずはドロップを再現させろ。国家として、スキルオーブのドロップ及び使用を稼働条件の下に置く。公的データで示せば、国の交渉位置は有利になる」
セルゲイの声は低く、命令は短い。研究員たちは即座に動き出す。ノートは走り、装置は稼働、被験者の募集メモが紙で配られる。
「ただし、枠組みは厳格に。我々がまず“確認”した事実だけを出す。噂に踊らされるな」
研究員の一人が眉を上げた。
「セルゲイ三佐、この“噂”が先に市場で動いてますよ。民間の成功が既に事実を作ってる。時間がないです」
セルゲイは無言で画面に戻る。言葉は短いが冷たい。
「それはこっちの事情だ。やるべきことをやるだけだ」
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李はテントでまたスマホを見る。箇条書きの紙を手の中でぐしゃりと丸める。どうしても、頭の中から離れない疑問がある。
(今、解析員の連中が必死になって探ってる基準ってさ、結局誰のため? 国家? 研究者? それとも、金儲けする連中?)
風がテントを揺らし、ランプの光が一瞬チカッとする。彼は素直に思う。自分は隠し通せるのか。隠していたら自由でいられるのか。囲い込まれたら、安心は手に入るだろうが、何かが消えてしまう気もする。
「李、お疲れさん」
監視員が差し入れのカップを差し出す。彼はそれを受け取りながら笑う。
「ありがと。ああ、俺、今度から表情筋鍛えたほうがいいかな? 監視カメラ映えってことで」
監視員は苦笑いを返す。場の空気は軽くなる。だが軽さの下には、みんなのヒリヒリが隠れている。
「真面目な話、気をつけろ。国が動き出すと、個人は名簿に載る。面倒だぞ」
李は顔を向け、少しだけ俯いてから笑った。
「まあね。でもさ、俺が何かするのは、俺の選択だ。誰かの義務じゃない」
監視員は目を細めるが、特に返す言葉はない。ただ、コーヒーをすすってから去っていく。
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夜遅く、綾部は自室でメモを書いていた。テレビの速報では、エンタメ色の強いチャンネルが「新・ヒーロー誕生」といった見出しを流している。綾部は小さく苦笑し、ペンを置く。
(私がやるべきは、映画の台本作成ではないですから……)
翌日、彼は会議で短く言った。
「基準は我々の“説明責任”です。国民に説明できるものを出す。それを最優先に進めましょう」
高官の一人が手を挙げる。
「総理。我々がその“説明”を示すスピードは、市場には勝てません。民間は既に実行して、効果を作り出している。追いつけますか?」
綾部は黙って窓の外を見た。朝靄の向こうに、東京のシルエットがぼんやり見える。
「追いつくんだ。──ただし、我々は“基準を作ること”で差をつけます。短期の勝利を取るか、長期の信頼を取るかの違いがあるだけです」
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李は意図せず、二つの世界に挟まれている。彼の“一歩”は、もう単なる個人の行為ではない。基準は揺らぎ、世界は声の早い方を先に信じる。だが信頼は、声だけで築けない。数字と倫理がなければ長持ちしない。
(俺は、どうするんだろうな)
李はそう思って、鼻で小さく笑った。正解を探しているわけじゃない。ただ、他人に決められるのが嫌なだけだ。スマホの画面を伏せる。世界は騒いでいるが、自分のやることは単純だった。
「……やれる範囲で、やる。それだけだ」
誰に言うでもなく呟いて、立ち上がる。守られる側で終わる気はなかった。動くかどうかは、いつだって自分で決める。
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