第29話 対応の速度差
ベルギー・欧州連合会議室/カナダ・国家相談会議室/アメリカ・放送ブースほか
2020年2月下旬
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早朝のニュースループは、どの国でも同じ画を繰り返していた。黒い縁取りの開口部、立ち入り禁止の帯、遠景からの手持ちカメラの揺れ。だが音声と字幕の温度は国ごとに違った。ある国のアナウンサーは用心深く紋切り型の語りを繰り返し、別の国の番組は既に「経済効果」「観光資源」の単語を軽く放り込んでいた。
スクリーンの向こうにあるのは、同じ「ゲート」なのに、世界の反応がばらばらに分かれていく姿だった。
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ブリュッセル。
地下の会議室は照明を落とされ、壁一面に投影されたリモート窓だけが淡く光っていた。世界地図を模した配置で、各国代表の顔が四角い枠の中に並んでいる。どの顔も小さく、硬く、まるで標本だ。誰も身じろぎしない。正座するように、言葉を待っている。
沈黙が長すぎた。
最初に口を開いたのは、フランス代表だった。
「――予防原則に基づき、民間活動の凍結を提案します」
声は低く、平坦で、感情の起伏が削ぎ落とされていた。まるで、誰かの生き死にではなく、化学物質の使用制限を読み上げているかのようだった。
数秒遅れて、ドイツ代表が頷く。
「越境影響のリスクが高い。軍と治安部隊による初期封鎖を、各国で速やかに実施すべきです」
“速やかに”。その言葉が、会議室の空気をわずかに冷やした。誰もが分かっている。速やかに、という言葉ほど、実行から遠いものはない。
そのとき、画面の一角が唐突に切り替わった。
イタリア北部。地方自治体の庁舎らしき部屋からの生中継。照明は白く、雑音が混じり、映像がわずかに揺れている。市長と思しき男が、椅子から半身を乗り出すようにしてカメラに食いついた。
「待ってくれ!」
声が割れる。
「ここは、もう何も残っていない地域なんだ。工場は閉じ、若者は去り、仕事がない!
だが――あのゲートは、初めて現れた可能性だ!」
彼は拳を握りしめていた。
「雇用を生む。人が戻る。それを、書類一枚で“封鎖”だと?中央はいつもそうだ。危険だ、様子を見ろ、その間に――俺たちは何年、死ねばいい?」
会議室に、わずかなざわめきが走る。だが誰も反論しない。肯定もしない。ただ、視線を伏せる。
フランス代表は、目を閉じてから言った。
「感情論では、政策は決められません」
その一言が、火に油だった。
「感情だと!? これは生存だ!」
市長の声は、もはや怒鳴り声だった。
「ゲートの向こうが地獄かもしれない? こっちはもう地獄なんだ!」
通信が、不安定になる。誰かがミュートを押した。画面から音が消え、市長の口だけが動いている。叫んでいるはずの言葉は、もう届かない。
沈黙が戻る。
中央と地方。机の上の数字と、現場の体温。その差が、目に見えない亀裂となって会議室に広がっていく。
「……とりあえず、封鎖声明を」
「文言は強く。各国の判断で柔軟に運用する」
誰も異議を唱えなかった。
誰も賛同もしなかった。
言葉だけが先に決まり、現実は置き去りにされる。書面は整い、声明は発表されるだろう。だがその頃には、現場ではもう、人が動いている。
会議室を出るとき、誰かが小さく呟いた。
「……遅いな」
何が、とは言わなかった。
その夜、EUは「封鎖」を選んだ。だがそれは、秩序ある決断ではない。恐怖を言葉で包み、時間を稼ごうとしただけの、震える合意だった。そしてその震えは、やがて各地の現場で、別の形の“暴走”として現れることになる。
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北米の反応は、別の速度と手触りを持っていた。
オタワで開かれたカナダの国家相談会議は、硬質な危機会議というより、静かな合意形成の場に近かった。机の上には軍の資料と並んで、大学研究室のレポート、鉱山会社の試算、保険業界のリスク表が同時に並ぶ。
首相は、席を立たずに発言した。声量は抑えられていたが、言葉ははっきりしている。
「全面封鎖は現実的ではありません。恐怖に反応して扉を閉ざせば、事態は地下に潜るだけだ。私たちは管理し、測り、段階的に開く。国家として責任を持って、この現象と向き合う必要があります」
政府は即座に方針を打ち出す。「段階的管理と民間協力」。新ゲートは国家資産であり、同時に共同研究と経済活動の対象とする、と明文化された。
アルバータ州ではエネルギー企業がすでに資源回収の試験計画を提出し、ブリティッシュコロンビア州の大学では生態影響チームが編成されていた。軍は前に出過ぎず、警察と研究員の後ろで静かに線を引く。銃より先に、契約書と同意書が準備されていく。
現地の森では、フェンス越しにゲートを見つめる住民たちがいた。恐怖よりも、「どう共存するか」を測る視線が多い。誰も走らない。だが、誰も目を逸らさない。
カナダは決めていた。止めるのではなく、抱え込む。危険を消すのではなく、制度の中に沈める、と。
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一方アメリカは公式声明を先延ばしにしたまま、別の動きが市場で先に起きていた。朝の株式市場は短い沈黙の後、反応を示した。セキュリティ装備メーカーの株価がぎくりと跳ね、民間警備や保険会社の板がざわめく。情報を得た投資筋は既に動いている。合衆国の投資家たちは、政治の声明よりも“先に来る金の匂い”に敏感だ。
マイケル・ハリスの目は細く光り、既にスライドの草案に次の段取りを書き込んでいる。
「我々は規制が追いつく前に動く」
彼はあくまで冷静に言う。画面の外で、起業の計画書と法人名が生まれていた。
ダニエル・クーパーはラジオで違う言葉を選んだ。彼の放送は陽気で、しかしそこに潜むジレンマは隠しきれない。
「オーケー、オーケー、落ち着け落ち着け! いや、無理か! 俺だって心拍数ぶち上がってる!」
「でもな、聞いてくれ。怖がるなって言ってるんじゃない。怖いってこと自体が、もう“現実”になっちまったって話だ!」
彼の声は、好奇心を煽る一方で、耳の中に小さな不安を残した。
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現場は、もっと生々しかった。
イギリス、ロンドン近郊の荒れ地にできた新ゲートの周囲には黄色い封鎖テープが雑に張られている。その外側で、人が溜まっていた。配信者は既にカメラを回し、若者は笑いながらスマホを掲げ、報道バスがエンジンをかけたまま待機している。
誰も引き返そうとしない。
封鎖線のすぐ向こうに、黒い穴がある。ただそれだけで十分だった。
現地責任者の将校は無線を握り、舌打ちをした。「封鎖を徹底しろ」と上は言う。だが兵の数は足りず、人の流れは止まらない。テープを越えようとする者を力ずくで押し戻せば、次は映像が炎上する。
「……ここは街が近すぎる」
独り言のように漏れた声は、誰にも届かない。
問題は、何も起きていないことだった。血も、悲鳴も、死体もない。だから人は言う。「まだ大丈夫だ」「今なら行ける」と。
将校はゲートを見つめる。 この場で何かが起きるまで、封鎖は“やりすぎ”で、起きた瞬間に“遅すぎる”。
判断は、もう現場に投げられていた。
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東京では、慎重が日常だった。官房長や角山は記者会見で「注視」「情報共有」「影響評価」を繰り返す。言葉は抑制的で、政治的な余地を残す。
中国の解析室は、データを限定的に共有しながら内側で選別を続けている。李のログは、静かに国際参照値の一つとして名指しされ、欧米の解析チームにも流れていた。だが中国はその扱いを丁寧に、厳格に制御している。
李はテントの隅で画面を眺めていた。世界中で開いた黒い口の映像は、どれも自分が足を踏み入れた空間と同じ“盤面”に見えた。誰かの「足跡」が世界を動かしたのかもしれないという実感が、彼の胸に静かに増している。
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夜になると、各地の対応はますます色を帯びた差を見せた。欧州は封鎖と学術的厳格さを主張し、北米は管理と市場のテコ入れを優先する。一方で民間は、既に「やれる」体制を整えはじめていた。保険商品の説明会、装備パッケージのオンライン広告、ツアー事業者のプレリリース案内――画面の短い断片が次々に流れていく。
ラジオのスタジオで、ダニエルはマイクに向かって言った。
「俺は探索者じゃない、マイク持ってる側だ。だけどさ……この声、軽いノリ、テンションMAXの煽り――それで誰かが一歩踏み出すなら、それってもう、俺も当事者だろ?」
「だから言っとく。行くなら、ヒーロー気取るな。帰ってこい。絶対だ。俺はここで喋り続ける。笑って、叫んで、盛り上げて――生きて帰ってきたやつの名前を、でっかい声で呼ぶためにな!」
声には皮肉が滲んだ。彼はわかっている。声が人を動かす力を持つことを。天秤の片方に「好奇心」と「金」、もう片方に「安全」と「倫理」が載っている。どちらが先に重みを増すかは、まだ決まっていなかった。
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会議室でも、現地でも、放送ブースでも、共通していた不安はひとつだった――誰も、次に何が起き得るかを完全に把握してはいない、という事実だ。閾値が満たされたときに世界が応答した事実はある。しかしその応答が、どの方向へ流れるのか。封鎖が効くのか、管理が追いつくのか、あるいは民間の速度が規制をすり抜けるのか。
夜が深まり、黒い口は何も語らないままそこにあった。だが世界は、もう無視できないところまで来てしまっていた。
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