第28話 閾(しきい)を越えて
ロシア・モスクワ研究施設/中国・解析室/イギリス・郊外ほか
2020年2月下旬
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モスクワ郊外、凍りついた夜の研究施設。戦略研究部門所属のセルゲイ三佐は、暖房が効いているにもかかわらず、無意識に肩をすくめていた。
室内に並ぶモニタには、各国から送られてくるログが淡々と流れている。討伐数、時間帯、階層、死亡率、回収資源。どれも既に何度も見た数字だった。
セルゲイは、もう一度だけと思いながら手元の集計モデルを開いた。理由はない。強いて言えば、数字の並びが「きれいすぎる」ことが気になった。
「……おかしいな」
彼は独り言のように呟き、過去二週間分のデータを累積に切り替える。日ごとの増分では見えないものが、積み上げた瞬間に顔を出すことがある——それは、彼が長年の事故解析で学んだ癖だった。
グラフは、滑らかな上昇曲線を描いていた。
セルゲイはマウスを止め、拡大する。
「……98,000」
彼は声に出さず、頭の中で数字を追った。
各国の補正値、未報告分、民間ダンジョンの遅延ログを含めた推定値。誤差を見積もっても、線はある一点に収束していく。
99,600。99,800。
セルゲイは、椅子の背にもたれかかった。
「……ほぼ、十万匹だ」
それは確信ではない。だが、偶然で済ませるには、あまりに揃いすぎている。
彼は別のウィンドウを開き、昨日起きた異常イベント——湧きの停止——を重ね合わせた。
それは、推定──累計討伐数十万匹の後に起きている。
セルゲイの喉が、無意識に鳴った。
「……十万が閾値か?」
彼はすぐに通信を開いた。相手は日本でも中国でもアメリカでもない。これらの国のダンジョンで、モンスターが出現しない時間帯があったことはすでに既知だ。
セルゲイは、ゲート未出現国のうち、同時刻で変化を観測している可能性の高い主要国家に連絡を取った。
「こちらロシア。累積討伐数、推定で十万付近に達している。——今、そちらで何か“起きていないか”?」
数秒の沈黙。次いで、複数の回線が同時にざわめいた。
「……こちらカナダ、未確認の空間裂開を観測」
「フランス、採石場で局所的な重力異常」
「ドイツ、森林保護区で未知の発光現象」
セルゲイは目を閉じた。偶然ではない。これは、数字が条件を満たした結果だ。
「やはり……数は、ただの記録じゃない」
彼は低く呟いた。討伐は消耗戦ではなかった。積み上げた結果が、世界そのものに反映される仕組み——誰かが設計したわけでもない、だが確実に存在するルール。
セルゲイは、静かに次の一文を入力した。
「国際観測網へ緊急共有」
「累積討伐数 ≒ 100,000 に到達」
「同時多発的なゲート発生の可能性あり」
送信ボタンを押した瞬間、彼は自分が、世界の次のページをめくってしまったことを理解していた。
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世界の時間は容赦なく進んだ。中国の解析室の時計の針が刻む秒が、いつもより重く感じられる夜だった。解析官のもとに、国際観測センターから緊急の回線が入った。音声が繋がると、まずは数値が読み上げられた。そしてロシアからもたらされた推測と、画面には世界地図上に小さな「点」が点灯していく様子が映し出される。
「14時間前、四か国の累積討伐数が十万匹に到達したと推測されます。これは、四か国のダンジョンにてモンスターの沸きが一斉に止まった時点と一致しております。」
「……さらに、四か国の沸きの再開時刻と同時刻に、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、カナダにて——」
言葉はそこで止まった。スクリーンに映る新しい情報は、いくつもの生の映像で裏打ちされていた。
ロンドン近郊の荒れ地で、霧を断ち切るようにして存在する……。
ドイツの保護林で、古木の根元を裂いて現れた……。
フランスの石切り場で、崩れかけた床から立ち上る……。
イタリアの田舎の遺跡で、石畳の一部を飲み込む……。
カナダの森の奥で、木と木の間に開いた……。
ゲート、ゲート、ゲート。
各地に新しく現れた、しかしここ2か月でもう見慣れた“黒い穴”
誰もが画面の隅で気づいた。映像は「開いた」跡を見せている。そこに、確かに「新しい口」が生まれていた。
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新たに確認されたゲートはいずれも、外見だけを見れば既存のものと大差なかった。地面に穿たれた黒い縁取り、内部を覗けば奥行きを錯覚させる暗がり。入口の形状も、大きさも、既存ゲートとほぼ一致している。
最初に内部確認が行われたのは、イギリス北部の旧採石場跡だった。完全装備の偵察班が慎重に一歩を踏み入れる。――そこにあったのは、既知の洞窟だった。
湿った岩肌。低い天井。人工物の痕跡はないが、自然洞窟とも微妙に異なる均質な構造。足元の感触、反響する音、空気の重さ。そのすべてが、すでに人類が知っているダンジョンの第一階層と一致していた。
「……同じだな」
誰かが小声で言う。ライトに照らされた壁面には、既存ダンジョンと同じ鉱脈のような模様が走っている。床の傾斜、通路の幅、分岐の角度まで、記録と誤差の範囲に収まっていた。
数十分後、ドイツ、フランス、イタリア、カナダからも同様の報告が届く。
「入口直後は洞窟構造」「第一〜第五階層まで、構造・素材・空間反応が共通」「階段配置や経路は異なる(既存のダンジョンも経路の違いは確認済み)」
違っていたのは出現場所だけだった。
どのゲートも、人の少ない地帯に静かに口を開けている。だが中に入れば、そこは完全に「同型の空間」だった。まるで同じ設計図を、別の地点に複製したかのように。
モンスターの出現も確認される。スライム、ゴブリン、ウルフ。種類も挙動も、既存ダンジョン初期層と変わらない。個体差はあるが、体系は同一だ。
解析官たちは、この事実に言葉を失った。
「場所が違うだけで……中身は、完全に同じだ」
新しいゲートは、新しい世界ではなかった。同じルールが、同じ構造で、ただ増設されたに過ぎない。
「じゃあ、何が…… 何のために同じ盤面を増やしたんだ……」
誰かが言ったその一言が、部屋の空気を冷やした。
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政府間の回線では、即座に緊迫した議論が始まった。東京では角山が夜遅くまで電話を握り締め、欧州の担当はフランス語と英語を行き来しながらデータを照合している。声明を出すべきか、否か。情報を封鎖してまずは国策で対応すべきか、それとも公開して国際協力を募るべきか。判断の速度は、安全と政治の天秤だ。
民間の動きはそれよりも速かった。映像が流れると、瞬時にSNSは反応を爆発させ、映像は切り刻まれて拡散される。市場はさらに速い。私有地の運営者は既に深層への有料ツアーの計画を詰め始め、保険会社は数値モデルの改定を急ぎ、装備メーカーは「6層対応パッケージ」を宣伝する準備を整える。
マイケル・ハリスのような投資家は、深夜でもタブレットのスワイプを止めない。「今を逃したら次はない」——彼は画面に向かって淡々と呟く。儲けるタイミングと政治の遅さを計算し、既に幾つかの法人設立案がメールに乗っていた。
ラジオのブースではダニエルがその夜、番組のテーマを変えていた。スタジオには少しの緊張がある。だがマイクの前の彼は相変わらず陽気で、どこか哀しげでもあった。
「みんな、聞いてくれ。今、世界が変わってる! だからって、無茶はダメだ。俺も喋ってるけど……喋るってことは、誰かを動かすってことなんだ。気持ちは複雑だよ」
彼の声はいつもの高揚を帯びながらも、どこか遠くを見ているようだった。大勢の耳を相手にしながら、彼は自らの影響力に疑問を向けていた。
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中国の監視下にある李は、解析チームのライブ映像を見ながらテントの隅で息を呑んでいた。画面に映る各国の裂け目、そしてそこにある見慣れた盤面。解析官が彼に近づき、静かに言った。
「我々は、門の発生が累積量に依存すると推定している。閾値が満たされたんだ。今、世界に新しい門が生まれた。」
李は映像の中で、自分が動かしたかもしれない小さな石のような存在の余波を感じた。彼は選択の余白に踏み込んだ男だ。ある種の恐ろしさと誇りが胸の奥で綯い交ざる。
(俺の“一歩”が……数字になって、世界を動かしたのか)
問いに答えはない。だが彼の中にあるのは、制御される恐怖だけではない。自分の足で選ぶことの意味が、世界規模で問い直されているという事実だ。
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夜が深まる。新ゲートの周囲には即席の封鎖線が張られ、軍・研究・環境保護の混成チームが結成される。国際機関が緊急の共同声明を出すことが決まり、文書が各言語に翻訳されていった。だが人々の耳に届く速度は、映像の拡散速度に勝てない。先を見越した者たちは既に動き、現場では公式の線引きが追いつく前に民間の影が伸び始めていた。
解析室の主任は黒いコーヒーを一口飲み、深く息を吐いた。
「数は……ただの数じゃない。ある種の合図だったんだ」
言葉は静かだが、世界を変える宣言のように重かった。誰も、十万という数字に祈りを捧げてはいなかった。だがその閾が満たされた瞬間、世界は別の回路に切り替わった。
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鷹宮は深夜のテントで火を見つめながら、既に動き始めた世界の片隅を思った。ダンジョンの湧きは戻り、だが様相は変わった。モンスターの出方、数の偏り――どれも前と違っていた。ニュースは「ゲートの国際的拡大」を報じ、夜のニュースルームには厳しい顔が並んだ。人々の頭は既に次のステップに切り替わっている。
そして何より、彼らは知った。数字が、世界のルールを変えることを。誰かが数を増やし、誰かがそれを計り、満たされたときに世界が応答する——その応答は容赦なく、だが単純だった。
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深夜、ダンジョンの口元で鷹宮は静かに呟いた。
「数が動かすんじゃねえ。数の向こうにいるヤツが、動かしてるんだ」
その言葉は、彼自身にもよく分からない予感と憂鬱を含んでいた。数が示したものは門の発生だけではない。市場の構造、国家の措置、個人の選択、そして運命の皮肉が、これから同時多発的に変わるだろう——ということだった。
世界は十万を越え、新しいゲートは灯った。人々は既に次の一手を計り始めている。けれども、誰もまだ知らない。数が満ちた先で、本当に何が待っているのかを。
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