第27話 空白の数時間
日本・神奈川某所/中国・解析室/世界各地
2020年2月下旬
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朝の現場は、いつもどおりに始まった――はずだった。
鷹宮恒一は、隊列の最後尾で装備の最終確認をしていた。ライトの残量、弾倉の固定、腰のポーチに下げた識別瓶。どれも規定どおりだ。合図が鳴れば進み、出てきたものを倒し、回収して戻る。それを繰り返すだけの日常。ダンジョンが現れてから、彼らはその日常を必死に“日常”として保ってきた。
「……出ないな」
前方にいた若い隊員が、ぽつりと漏らした。
鷹宮は足を止めず、ライトの先を凝視する。岩肌、湿った床、天井から垂れる水滴。どれも変わらない。だが、足元に這い出してくるはずの黒い影がない。スライムも、ゴブリンも、気配すら見せない。
「……まだですか?」
「……出ませんね」
短い会話が交わされる。最初は誰も気に留めなかった。湧きが遅れることは、これまでも何度かあった。だが、五分、十分と時間が過ぎても、何も起きない。
監督者が無線で確認を入れる。
「現時点で接触ゼロ。継続待機」
だが三十分を超えたあたりから、空気が変わり始めた。待機は予定されていても、沈黙は想定されていなかった。ダンジョンは危険だが、常に何かが動いていた。だからこそ、人間は対処できた。
――動かないダンジョン。
その異様さが、じわじわと現場を侵食する。
「一度、戻ろう」
慎重な判断だった。鷹宮たちは地上へ引き返す。足音が洞窟に反響し、やけに乾いた音を立てた。テントに戻っても、いつもの雑談は生まれない。誰もがスマートフォンを手に取り、同じ映像を見ている。
“どこの現場も、同じだ”
モンスターが、出ていない。
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北京の解析室では、朝の定例ログ確認が淡々と進められていた。世界各地のダンジョン稼働データが、巨大なスクリーンに並ぶ。通常なら、湧き数、討伐数、回収量が途切れなく更新される。
だがその朝、グラフは奇妙な沈黙を示していた。
「……定点カウント、ゼロが続いています」
解析官の声は平静だったが、手元のタブレットを握る指に力が入っている。
「対象は?」
「低層全域です。スライム、ゴブリン、ウルフ系――全てです」
一瞬、室内が静まる。
「センサーの異常では?」
誰もが最初にそこを疑った。だが診断ログは正常。カメラも、赤外線も、空間歪曲センサーも反応している。“何もいない”という情報だけが、一致している。
別の端末に、海外からの速報が流れ込む。
「日本、同様の報告」
「アメリカ西部、接触ゼロ」
「ロシア、湧き停止」
世界地図が切り替えられ、稼働中のゲートが点で表示される。どの点も、同じ傾向を示していた。
「……世界で、同時にですか?」
誰かが低く呟いた。
解析官たちは言葉を失う。偶発では説明がつかない。だが、意図や意思を想定するには、材料が足りなすぎる。
スクリーンに映る時系列グラフには、不自然な“平坦な帯”が走っていた。稼働は続いているのに、結果だけが消えている。
「まるで……」
主任が言葉を探す。
「……スイッチを切られたみたいだな」
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世界各地の現場でも、同じ困惑が広がっていた。
アメリカの私有地では、焚火の周りに人が集まり始めていた。カメラを回す者、怒鳴る者、笑って誤魔化す者。
「モンスターが1匹もいないぞ。全部狩っちまったのか!?」
「ダンジョンはフロンティアじゃなかったのか?」
「映せよ。何か出せよ!」
だが映るのは、人間だけだ。昨日まで確かにあった戦いの痕跡――足跡、黒い粉、折れた枝――それだけが残り、“中身”が抜け落ちている。
ロシアでも同様だった。管理区域のダンジョンは沈黙し、現地部隊は判断を保留する。四か国同士でお互いに問い合わせが殺到するが、どの国も答えを持たない。
ダンジョンは壊れていない。閉じてもいない。
ただ、何も出てこない。
その事実だけが、じわじわと恐怖に変わっていく。
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6時間が経過しても、状況は変わらなかった。
中国の解析室では、沈黙が続くログを前に、誰も軽口を叩かなくなっていた。仮説はいくつも出たが、どれも決定打にはならない。自然現象にしては同期しすぎている。人為的にしては、主体が存在しない。
「……ダンジョンは、人類を見ているのかもしれない」
誰かが、ぽつりと漏らした。
その言葉は、否定も肯定もされず、空気の中に残った。
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夕方、鷹宮は再び洞窟の前に立っていた。中は相変わらず静かだ。風の音だけが、入り口を抜けていく。
若い隊員が冗談めかして言う。
「ダンジョンにも、メンテナンス時間があるんですかね」
笑いは起きなかった。
鷹宮は空を見上げる。雲の流れも、光の色も、昨日と変わらない。だが、世界の手応えだけが変わっている。
(止まった、って感じじゃねぇな)
彼は思う。
(……変わろうとしている)
理由はない。ただ、長い現場経験がそう告げている。これは終わりではない。準備だ。数字ではなく、感触がそう言っている。
その日の夕方を過ぎても、モンスターの湧きは戻らなかった。
世界は、理由の分からない沈黙を抱えたまま、夜を迎える。
誰もが理解していた。
“この空白は、ただの静寂ではない”
何かが切り替わる、その直前の、息継ぎなのだと。
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