表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゲートキョウソウ  作者: 卜部


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/29

第26話 余白に踏み出す

 中国・ダンジョン周辺/解析室

 2020年2月下旬


 ---


 朝の霧は薄く、地面をなでるように消えていった。ゲートの空き地は、薄い灰色の光に包まれている。管理テントのスピーカーからは、淡々とした確認アナウンスが定間隔で流れていた。スケジュールは、もう誰の耳にも馴染んでいる。何時何分、誰が入るか。討伐数、回収目標、装備のチェックリスト。全ては紙とモニタで折りたたまれ、予定表の格子にきれいに収まっている。


 李宇航はリュックを背負い、手首のセンサーを確認した。ヘッドセットのランプが緑に点滅する。彼の番号が表示されたボードの光が、他の番号と同じリズムで点滅した。今日も「同条件」。だが、胸の中には昨日芽生えた小さな違和感がくすぶっている。安全は与えられた。だが変化は、いつの間にか止まってしまったように感じる。


(昨日と同じ、か。安全だけど、何も変わらない気がするんだよな)


 思いははっきりしているが、言葉にすると軽い。彼は深呼吸をして、いつものようにゲートに向かった。同行する監督者たちの顔は見えない。遠巻きに立つカメラやセンサーの金属的な目が、彼を何事もないように見つめている。


 ---


 合図の笛。集団は一歩、ゲートへ踏み入れる。音がすうっと薄れて、周囲の世界が別の厚みを持つ。床の岩は冷たく、湿り気が足の裏に馴染む。進行はいつもどおりだ。スライムを避け、ゴブリンを確認し、拾得物は識別コードをつける。だが李の観察眼は、細かな変化を拾う。


 今日は、わずかな“余白”があった。いつもの定刻に、通信のノイズが通り過ぎたのだ。短い白い破線のようなノイズ。監督の一人が無線を確認して、短く首をかしげた。運用マニュアルには「ノイズ時は待機」と書かれている。だが現場は流動的だ。被験者の一人が軽いめまいを訴え、投入人数が一人減った。公式には「待機」が推奨されるが、撤退を選ぶほどの危機でもない。


(ここが分水嶺……な気がする)

(勘だ……勘だけど、その勘に何度も救われてきた!)


 李の胸の中に、昨日決めたことが浮かぶ。大きなことではない。誰も気づかないような一歩。誰も指ささない、いつもの外れた選択。彼はその一歩のことを考えながら、隊列の端の分岐へと歩を寄せた。


 ---


 分岐は小さかった。マップ上では等価に見える側の通路。普段なら監督が指示を出して「直進」を選ばせるところだ。今日は、監督は別の被験者の処置に回っている。空いた片方の通路が静かに息をしている。李は立ち止まり、手袋の縫い目を指先でなぞった。心拍が少しだけ早くなる。


(これが、条例違反でも反逆でもないなら——)


 彼は小さく顎を引いて、そちらの道へと足を運んだ。走らず、急がず。速さは重要ではない。重要なのは「選んだこと」だ。人目に付かぬところで、管理された秩序の余白へ一歩踏み出す。彼の歩幅はいつもより少しだけ大きく、足裏で床の硬さを確かめながら進む。


 道はすぐに森の気配を増した。いつもの五層までと違って、葉の匂い、湿った土の匂いが混じる。誰かが人為的に道を作ったような均された踏み跡が、微かに曲線を描いている。光は葉の隙間からこぼれ、彼のライトの輪郭に揺れる。視界が僅かに異なるだけで、反応は違いを示し始めた。


 ---


 最初の接触は小さかった。フォレストウルフが葉の陰から滑り出る。毛は深緑、眼光は暗い。普通なら奇襲を受けて初動にあたふたするところだが、李の身体は少しだけ早く反応した——ほんの一瞬、早く、微かに違う。足を一段下げ、腕をわずかに引く。ウルフの牙は空を切り、相手はその瞬間にバランスを崩す。木の幹へと軌道が干渉し、小さくぶつかってよろめく。連鎖は続き、小さな混乱が生まれた。


 李は呼吸を意識せずに整え、無為に止まることなく相手を回避し、打撃も当てた。倒れたフォレストウルフは黒い塵になり、土の上に小さなビー玉大の魔結晶と深緑の毛布が転がる。フォレストウルフがたまに落とすらしい薄汚れた毛皮ではない、ネットで情報が出回っていない初めて見る品だ。ゴブリンの歪貨束のように何か有用な効果があるかもしれない。


(……応えてる、のか?)


 心の中でその言葉が生まれる。突拍子もない考えだ。だが体の中で何かが確かに合った感覚が残る。ライトに映る葉の影が、自分の呼吸に合わせて少しだけ揺れるように感じられた。偶然の一致かもしれない。だが、その偶然が積み重なれば、それはもう偶然ではなくなる。


 ---


 道を進むごとに、小さな違いが積み重なっていった。敵の初動が読みやすい場面が増え、避け損なう確率が下がる。被弾しても、浅い傷に留まることが多い。ドロップ率は、まだ討伐数が少ないため断言はできないが、心なしか上がったように思える。李は魔結晶や薄汚れた毛皮、深緑の毛布を手で確かめ識別コードを打ち込んだ。儀式のように淡々と、だが心の中では何かが膨らんでいく。


 彼が気づいたのは「確信」ではなく「感触」だった。管理された条件に戻れば数値は安定する——解析室のグラフのように均されるだろう。しかし、彼の選択は一瞬の“応答”を生んだ。応答とは相互作用だ。ダンジョンが、彼の選択に対して何らかの反応を返したのではないかという、奇妙な予感が胸を満たす。自分は今日成長したと。


 ---


 地上に戻ると、解析チームはすでにモニタを操作していた。データが流れ、彼の軌跡、心拍、筋電図が分解能の高いグラフとして表示される。若手の補助員が興奮気味にキーボードを叩き、数値を並べ替える。


「前回と比較して、回避成功率の分散が縮小してます。誤差範囲は小さいですが、傾向は出てますね」


 主任は眉間に皺を寄せ、しかし口調は平静だ。だが若手の目は光っている。狙いは解析的好奇心であり、そこに倫理的な不安は二の次である。


「今回の投入で、被験群との差がさらに強まるようなら——」


 若手は言いかけるが、主任が手で制した。


「まだ散発的だ。ノイズの可能性を排するまで続ける。報告は簡潔にして、想定外の解釈は控えろ」


 若手は小さく頷いたが、その顔には「見てしまった」という余韻が残っている。彼は画面の片隅に表示された小さな変化、そのズレを見逃さなかった。


 ---


 李は解析室の一角で自分の胸の波形を眺めていた。数字は自分の体を切り取った断片だ。だがその断片が誰かの手で「価値」として扱われる様を、彼は無意識に感じ取っている。監視下の生活は、安定と安全を与えた。だがその代償は、自由な偶発性を削ぎ落とすことだった。


(囲われれば、守られる。でも守られたら、変わらないかもしれない)


 彼は思いを言葉にせず、ただ静かに頷いた。決意は激しいものではない。むしろ淡い。それでも、確かに存在する。小さな余白を見つけたら、そこに足を差し入れる。許される範囲で、できるだけ慎重に。死ぬわけにはいかない。だが、生きるためには、自分で選ぶ必要がある。


 ---


 夜、テントのそばで彼はひとり缶ジュースを飲みながら、スマホの映像を流した。民間の映像は今も拡散を続けている。笑う者、叫ぶ者、そしてうずくまる者。編集された勝利と編集されない敗北が同じ画面で何度も切り替わる。そのどれもが、李の心をざわつかせる。


「守りたいんだか、行かせたいんだか……」


 彼は小声で呟いた。答えは出ない。だが足元の砂利の上に落ちる小さな影が、彼にひとつの結論をくれた。


 明日も、余白が生まれたら——行く、と。


 言葉にならない確信が、静かに、しっかりと彼の内側に根を張った。翌朝のスケジュールには彼の番号が記載されている。だが彼の中では、もう一つ小さな予定が追加されている。誰にも見せない、許可のない一歩の予定だ。


 そして、偶然にして世界もまた、次なる一歩を踏み出そうとしていたのだ。

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも良いなと思っていただけましたら、

ブックマーク、評価、リアクションのほど、よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ