表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゲートキョウソウ  作者: 卜部


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/29

第25話 選ばれる側の論理

 中国・ダンジョン周辺

 2020年2月中旬


 ---


 路地裏の朝は以前と変わらず、薄い霧が地面をなぞっていた。李宇航はいつもの癖でリュックを肩にかけ、布に包んだ魔結晶の欠片に軽く触れてから歩き出す。

 昨夜の雑音のような思考がまだ残っている。ただの遠い映像、焚火の周りで沸き立つ笑い声、そしてテントに置き去りにされた者の影――自分が行かなかった未来の断片。それらが、短い断片として彼の胸の内で跳ね返っている。


「今日は二回、行きます」


 ――検査テントの係員は、にわかに忙しそうにスケジュールを書き込んだ。言葉は柔らかい。「協力のお願い」に紛れているのは、もう指示と変わらない量の期待と不安だ。


 手首に巻かれたセンサーはきつく、ヘッドセットからは淡いクリック音と確認アナウンスが漏れる。李がゲート前に立つと、周囲のカメラが一斉に向きを変えた。遠巻きで影のように立つ同行者たちの表情は見えない。彼は短く息を吐き、深呼吸する。今日も「同条件」だと言われている。装備は標準支給。人数も、投入時間も、討伐目標も、すべて管理されている。


 だが李は前回と同じように胸の奥でざらつく違和感を覚えた。揃えられた条件が齟齬を生むのはいつものことだ。だが今日の違和感は、もっと静かで重い。まるで同じ拍を刻む時計の針が、一瞬だけずれているのを見つけるような感触だ。


「3、2、1、はい、入って」


 合図とともに、集団は黒い“口”の向こうに一歩を踏み出した。音が落ちる――いつもの樹脂のような無音が世界を包む。李は足先の感触を確かめながら進む。床はいつもどおり岩で、湿り気が鼻をくすぐる。スライムがじわりと膝下に群れ、ゴブリンの唸りがどこかでこだまする。全部が、「いつもの」順序で動いているように見えた。


 2階層に入り最初の接触があった。右側からゴブリンが飛び出し、隊列の中で一瞬の乱れが生まれる。隣の若い被験者が反射で拳を振るった。その拳は空を切り、ゴブリンの攻撃が脇腹に当たる。次の瞬間、他の被験者の援護で小さな黒い粉が舞い、被験者は膝をついた。


「大丈夫だ。大した傷じゃない」


 痛みで顔を歪めながら、そう言い張る。だが、李たちは個人で潜っているわけではない。同行している監督者の判断で、若い被験者は撤退が命じられた。


 ゴブリンとの次の接触があったとき、李は無意識に一歩だけ後ろへ引いた。その“一歩”で、ゴブリンの攻撃が方向を外す。攻撃は空を切り、相手がよろめく。その僅かなズレが連鎖し、隣のゴブリン同士が干渉し合って態勢を崩した。

 李はただ淡々と、手袋で魔結晶を拾い上げ、識別コードを書き留める。胸の奥のざわつきが、ほんの少し収まる。


 ---


 李が地上に戻ってきた後、解析室の大型モニタにはすぐさまビジュアライズされたデータが並んだ。軌跡、加速度、心拍の小さな波形。若い研究者が目を輝かせながら説明を始める。


「被験群との比較で、回避成功率が平均より高く出ています。被ダメージの分布も偏っていますし、ドロップ率についても、統計的に有意な差が見られます」


 だが主任研究員の顔は硬い。スクリーンの端で彼は、棒グラフの上に赤い注記を書き入れる。


「再現性がないではないか」

「我々の既存モデルでは説明できない部分が残っている。単純な“加算”ではなく“補正”のような働きがあるのではないか? 確率分布の歪み――わずかな有利が回数を重ねて累積するのかもしれない」


 その言葉は、室内の空気を一瞬で変えた。補正、確率分布の歪み――理屈としては冷たいが、意味するものは噛みしめるほどに重い。国家の観測官が、静かにメモを取る。誰もそれを非難しない。だが、李のデータが「価値」として扱われ始めたことは隠しようがない事実だった。


 研究者たちの会話はやがて、選択のジレンマへと移る。李を頻繁に出すことでサンプルが増え、解析の精度は上がる。だが出しすぎれば、貴重な個体を失うリスクがある。囲い込めば安全だが、成長が止まるかもしれない。彼らは政治や倫理の枠組みを口にするが、本音はひとつだった――「結果を得たい」。だが結果がどう国に帰結するのか、どの答えが正しいのかは誰も確約できない。


 ---


 李は、モニタの向こうで自分の心拍の折れ線を見ていた。それは自分のものだが、他人の監視対象でもある。自分の生存が統計の上で「有利」と刻まれれば、彼は一種の商品に近づく。誰かの口からはっきりとした言葉が出るわけではない。だが彼は理解する。ここで自分は、「守られている」のではなく「壊してはいけない資産」に変わりつつあるのだ、と。


 午後、休憩時間に渡されたタブレットの画面で、李は短い映像を再生した。海外の私有地での深層帰還映像。焚火の周りで笑う男たち、誇らしげに掲げられた大きな魔結晶、肩を叩き合うシーン。

 次いで、別の短いクリップが流れた。テントに横たわる人、血の乾いた衣服、誰かが嗚咽を漏らす音。カット割りの巧みさが、勝利と失敗の物語を同じ画面の上で踊らせている。


「こいつらは戻ってきて強くなってる――でも、戻れない奴らも出る」


 李は短く吐き出すように言った。映像は人を煽る。社会は煽りで動く。だが煽りの向こうにあるものは、いつも生の重さだ。


 夜、彼はテントの外で立ち止まり、手袋を外して指先で地面を掻いた。監視下の生活は食い扶持や医療の安定をくれた。だがそれは同時に、行動の自由と引き替えの約束事でもあった。守られた檻か、保護された温室か。李の胸の中で二つの像が並列して回る。


「俺は……守られてるのか? それとも、進む資格がないって言われてるだけか?」


 問いは皮膚をつたって内側へ入っていく。彼には答えが出ない。国家は彼を選び、研究は彼を測る。だが彼自身の意思は、まだ誰にも握られてはいなかった。


 決意は、その夜の静けさの中で芽生えた。大きなことを言うわけではない。申請表の隙間、管理の隙間、スケジュールの端っこ――小さな余白を見つけたら、そこへ一歩踏み出す。監視の目をまっすぐに受け止めつつも、自分の足で道を作る。死ぬわけにはいかない。

 だが生きるために、彼は自分から動くことをやめないと心に決める。


 夜風がテントの帆布を揺らす。遠くで機材が片付けられる音がして、誰かが笑った。李は小さく笑い返す。その笑顔は、安堵でも誇示でもない。

 次の朝、彼はもう一度リュックを背負い、ヘッドセットを手に取る。目はまだ窓の向こうの映像を忘れていないが、靴紐を締める指先には、ほのかな決意の固さが宿っていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも良いなと思っていただけましたら、

ブックマーク、評価、リアクションのほど、よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ