第24話 遅れてきた線引き
日本・庁舎会議室/ゲート前仮設テント
2020年2月中旬
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深夜の会議室は薄い蒼色に染まっていた。窓の外の街灯は遠く、安定したリズムで光を返している。だが会議室の空気だけが、スクリーンのタイムコードのように、目に見えない速度で進んでいた。
スクリーンには、海外から流れてきた数本の断片映像が並ぶ。編集された断片ではあるが、映しているものの重さは隠しようがない——先日のアメリカでの第6階層突入映像。
焚火の光、叫び、そして「勝利の歓声」が編集された短いクリップだ。画面の端で、フォレストウルフが木立ちに溶け、ワイルドボアが地面を轟かせる。数秒ごとに映像は切り替わり、HPポーションを小瓶から直接飲む手つき、ぶら下がった魔結晶を掲げる掌が映し出される。
防衛省防衛政策局参事官の角山健介は、少しぬるくなったコーヒーを一口飲んでから、スクリーンを見つめ直した。彼の表情はいつもより硬い。
「……説明してくれ」
角山の声は冷静だが、聴衆の背筋を凍らせる冷たさを含んでいた。官房長、総務、経産、厚労、防衛、外務、そして研究機関の代表。肩書きだけが列挙された長いテーブル。誰もが言葉を選んでいる。
「アメリカの民間映像です。無許可の深層突入が複数記録されています」
「この映像は編集されています」
研究者が前置きした。
「ですが、複数点で一致する傾向が観測されます。第6階層の環境は『森』に近く、視認性の低い擬態型の個体が確認されました」
「HPポーションは外傷止血に効果があり短時間の機能回復を示す一方で、内部損傷の改善は確認されていません」
「生還者の行動ログには、運動・回避・命中精度に関して有意な差が見られます」
「有意差とは、どの程度だ」
角山が低く問うた。
「現状の解析では、被験群と比較して……二標準偏差を超える領域が、一部に見られます」
研究者は慎重に言葉を選んだ。それゆえ、その言葉が何を意味するのかを、即座に言い換えられる者はいなかった。
総務省の高官は、通信ログをまとめた資料に視線を落とした。
「我々は当初、これを資源管理の問題として見ていた。だが、映像が先行する以上、情報は止められない」
厚生省の高官が続ける。
「エネルギーか、あるいは産業の芽か——。だがこれ、医学でもなく単なる資源でもない。観測からは、明確に“行動様式”が変わっている者がいる」
会議室に一瞬の沈黙が落ちる。誰かが、言葉を拾った。
「戦力の再配分ですか?」
経産省の高官の問いに、防衛の席が静かにうなずいた。
「もし民間が先に“適応”して強くなるなら、指揮系統に従わない武装勢力が一部地域で実質的な優位を取る可能性があります。国家レベルでの秩序維持に対する構造的なリスクです」
研究者が手元の資料を指した。グラフは冷たく、だが示すものは明確だった——特定条件下での生存率の上昇、ドロップ品の偏り、行動の安定化。再現性はまだ低い。だが、それが“発生している”という事実は、政策決定者の感覚を硬直させるには十分だった。
「提案する方針は三点です」
角山は一度、資料から目を離した。それは「決める側」にだけ許された、短い猶予だった。
1. 第6階層以深への個人・民間による突入を国内で原則禁止する(海外既遂は別問題として対応)。
2. 魔結晶・ポーション類の国内流通を即時に厳格管理、密輸経路の監視強化。
3. 探索に関与する者は全員登録。研究用の限定サンプル提供は国家機関が一元管理する。
「執行には刑事罰も含める」——彼の声はそう結んだ。
だが会議の空気は、それで晴れない。防衛省の若手幕僚が、モニタに映る編集済みの短いクリップを示す。
「問題は時間です。海外で動いている——映像が先行して、情報はグローバルに拡散している。国内だけ締めても意味が薄い。さらに、映像の影響で“真似”が始まる。経済的な利益が絡めば、止める理由より進む理由の方が早く増える」
誰かが小さく笑ったように見えたが、その笑いは乾いていた。角山は紙にサインをし、決定は採択された。記者発表用の文言は速やかに作られ、国内向けに厳しい線引きを示すためのフォーマットが白い紙に印刷されていく。だが、その場にいた全員が、画面の向こうで動き続ける別世界の存在を思っていた。
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——現場の方は、もっと生々しかった。
鷹宮恒一は灯りの少ない現場テントで、書類に目を通しながら煙草を一本くゆらせた。彼はもはや単なる民間警備ではない。第一発見者として、そして最近は「外部協力者」という名目で国家の現場に居た。国家管理下にある日本のゲートでは、民間の無許可探索など存在しない。だから、鷹宮の立場は微妙である。国家の枠組みの中で、現場の感覚を伝えること。現場の限界を国家へ還元すること——その板挟みに、彼は時折、違和感を覚えた。
「今日も定点狩りか」
若い自衛隊員がそう声をかける。手順は緻密で、討伐数、時間帯、参加人数、使用した武器と弾薬の種類、回収した魔結晶の識別コードまで、すべてが記録される。データのための作業が、作業のための作業にならないようにと、誰もが気をつけている。
「……今日、出方が違いませんか?」
若い隊員が、独り言のように呟いた。
鷹宮も歩きながら、妙な違和感を拾っていた。先週と同じ時間帯に同じ地点へ入ったはずなのに、出現する個体の間隔が微妙に変わる。人数が多い日と少ない日で、同じ場所に同じモンスターが重複して沸くかどうかが違う。記録上は説明できない“何か”が、彼の足裏に伝わる。
(……見られてるのか、あるいは数えてる?)
彼はそんな馬鹿げた仮説を心の中で立てる。だがその“感覚”は収まらない。ダンジョンが、人間の動きに“応答”しているようにさえ見えるのだ。誰かが入ると、そこが少しだけ変わる。少しだけ、条件が入れ替わる。
鷹宮は提出前の魔結晶の一つを手の中で転がした。ガラスケースに並ぶそれらは、研究室で冷たく扱われる「試料」だが、現場ではまだ“何か”の痕跡を保っている。彼は思う。理屈は北の会議室で作れるが、答えは(たぶん)ここにある——人が足を運ぶその瞬間の感触に。
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夕方、国内向けの規制発表がテレビで流れた。政府は言葉を慎重に選んで「公衆の安全」を前面に押し出す。だがネットは冷たく反応する。海外の断片映像を「勇気ある挑戦」と讃える投稿、禁止されればこそ価値が上がるはずだと煽る怪しげなアカウント。国内では民間の深層突入は現実に存在しない――だが世界は一斉に動いている。
深夜、角山の机には追加資料が届く。別の国の大使館からの非公式情報、海外での買付け価格、民間の資金流入の軌跡。経済活動は法律の網目をすり抜けて動く。魔結晶単体の価値、HPポーションというブランド、そして「深く入って取ってきた奴が勝ち」という市場の論理。角山はペンを置き、窓の外に目をやる。東京の光は静かに流れ、だがどこかで仕組まれた歯車は回り続ける。
線は引いた——彼は反芻する。
法律、罰則、監視の増強。だがその線は、越えられる前提で引かれている。世界の片側には規制がある。もう片側には、規制を無視する者たちの動きがある。どちらが先に“済んだ”事実を手に入れるか。政治は遅く、資金は速い。
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鷹宮はテントの灯りの下で、搬出されていくドロップアイテムを眺めていた。彼は知っていた。理詰めの線引きがいかに肝要でも、現場を変えるのはいつも“人”の選択だと。だが人は金や名声や好奇心で動く。そして、その動きは今、国家の線引きの外側で既に加速している。
ゲートの口元で、かすかな風が揺れた。木の葉の匂いが消え、洞窟の微かな湿り気が戻る。灯の影の中で、世界は静かに次の一手を待っている。政府は線を引いた。だが線の先にはもう、別の世界が動き始めていた。止める理屈は揃った。だが進む理由は、数として既に勝っている——そんな感触が、鷹宮の胸に重く落ちた。




