第23話 先に進む者たち
アメリカ・ダンジョン
2020年2月上旬
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――「行くぞ、行くぞ、行くぞー!」
ダニエル・クーパーはマイク越しに叫んだ。声はいつもの調子より少しだけ張っている。カメラが回り、スマホの小さな通知音が耳元で踊る。背後では、凍えた手先を温めるための焚火が赤く揺れ、男たちの影が伸びては消えた。
「リスナーのみんな、今日は本当に特別な夜だ。民間ツアー……じゃない! フロンティア探索の現場に来てるぜ! 金と勇気があれば誰でも参加できる、新時代の冒険だ!」
彼の口調は煽るようで、しかしどこか本心が混じっていた。煽りは仕事、好奇心は本能だ。マイクの前と後ろの世界は違う。だがダニエルは両方を知っていた。
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運営テントの裏手には、分厚い契約書の山があった。保険会社のロゴ、免責事項、署名欄がびっしりと並ぶ。文字の密度は、責任の分散の厚さを示していた。参加者は皆、それを読み飛ばすようにペンを走らせる。署名することでリスクは「個人のもの」になる。だが現場では、どれだけ条項を重ねても、予測できないことが起きる。
「それでも、やるんだな」
ダニエルは小さく呟いて、イベントMCの癖で笑ってみせる。だが笑いの裾が冷たい。
向こう側に立つのはマイケル・ハリスだ。スーツはカジュアルだが、動きは正確で、声は穏やかだ。
「死亡時の保険金はうちが立て替えるが、装備と結晶の権利は回収する」
「国家は全体の失敗を恐れる。私利が露わになれば、政治的損失が生まれる。だが、投資家は違う。自分の失敗しか怖がらない」
マイケルは淡々と、しかし逃げ場のない言い方をした。彼の言葉は、効率と契約で世界を割り切る投資家の論理そのものだ。
ダニエルはその場で小さく頷いた。納得している自分が嫌だった。だが画面の向こうには既に数千の視聴が溜まっている。成功の瞬間は視聴を呼び、視聴は資金を呼ぶ。
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夜が深まる。民間のチームは動き始めた。非公式、無許可の「第6階層突入」。表向きは「自己責任の挑戦」、実態は「契約で縛った実験の実演」だった。参加者はヘルメットにライト、腰には拳銃やナイフ、そして小瓶がいくつかぶら下がっている。小瓶の中身は、噂の「HPポーションⅠ」と呼ばれるものだ。効果は断片的にしか確認されていないが、現場では「救急薬」として扱われ、価格がついて回る。
ダニエルは機材を片手に、入り口のフェンス越しに現場を追った。スマホを回し、実況を始める。声は跳ね、観客の「行け」のチャットが流れる。
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ダンジョンは第5階までが洞窟の延長だったが、6層の入り口を越えると景色が変わった。洞窟状の均一な壁面から、踏み固められた土の道と木立ちが現れる。陽光のように錯綜する微かな発光が葉の間にちらつく。不規則な影が動き、空気の匂いまで違う——湿った土の香り、腐葉土、野獣の体臭。そこは「森」だった。自然に見えるが、道は不自然に整っている。誰かが歩きやすくしたような痕跡が、無言で示されていた。
「ウルフか? 5階層までのとは違うな……」
「気をつけろ。あいつら森溶け込むような色をしてる」
ダニエルがすかさず盛り上げる。
「おーっと、早速ニューモブ登場だぜ! さしずめ、フォレスト(森)ウルフってところか?」
フォレストウルフの一匹が、深緑の毛皮ごと木の葉に溶け込む。動きは滑らかで、瞬間的に距離を詰めてくる。最初の接触は予想よりも激しかった。フォレストウルフの擬態は、ライトの絞りや人の足音によって簡単に破られるわけではない。地形を利用され側面に回り込まれた。隊列が乱れる。
近接戦が発生し、金属音、悲鳴、そして慌ただしい命令が混ざり合う。ダニエルはマイクを噛み締めながらも、カメラを止めない。
「一発目、セーフ! だが相手は強い。無理すんな! 医療キット、出せ!」
HPポーションの出番は早い。小瓶が手渡され、裂けた皮膚に注がれる。数秒で傷口の縁が滑り、出血が収まる。
「腕の軽い切り傷だぞ。高けぇんだし、わざわざHPポーション使わなくても大丈夫だったのに」
「何言ってんだ! 今日はカメラ入ってんだ。スポンサー様もついてる。どんだけ使ったって問題ねぇよ」
「それに、HPポーション使うのは絵になるしな!」
軽口が飛び交う。ダンジョンが出現してから1か月、幾度となく挑んできた彼らにとって、新階層とはいえまだまだ余裕があった。あるいは、ダニエルの実況がいつも以上に彼らの余裕を増長していた。
成功の匂いがまだまだ濃い。数体のフォレストウルフを排除し、5階層までのパチンコ玉サイズより明らかに大きい、小さめのビー玉サイズの魔結晶や、ドロップアイテムの薄汚れた毛皮が回収されるたびに、歓声が上がった。
ここまではエンタメの範囲内だった。だが、想定外の損耗が出た。
いや、損耗も含め、エンタメの想定内だったのかもしれない。
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撤退途中、狭い直線になっている道の先に、新たなモンスターを発見した。
「今度はフォレストウルフじゃないぞ! あいつは……ボアだ!」
「外の猪に比べて、随分ワイルドな見た目してやがるぜ。さすがダンジョン産!」
ワイルドボアの鼻息が地面を震わせ、正面衝突が致命的になることを示す。
「おーと、これはまずい」
地面が鳴ったのではない。鳴っているように感じたのだ。
「退避!!」
リーダーが大声で叫ぶ。出会った場所が最悪だった。狭い直線では逃げ切ることはできない。皆は、細かい切り傷を負いながら側の森に飛び込んだ。だが、全員が避けきれたわけじゃない。ワイルドボアは、逃げ遅れたうちの一人に狙いを定めて重い突進をはなった。
「がはっ!!」
装備が壊れ、無線が雑音で割れる。腹に入った。「ローガンの例」が頭によぎる。だが回復より先に、この目の前のモンスターを何とかしなくてはならない。
「……! 今のうちだ! 次の突進が来る前に仕留めきらなきゃまずいぞ!」
何度も銃声が響く。一瞬の混乱状態で、いつもより過剰に弾丸が撃ち込まれた。だが、今回ばかりはその混乱に救われた。厚い脂肪層と皮膚に覆われたワイルドボアは、銃弾が通りにくかったからだ。
ハチの巣ともいえるほどの銃弾の雨によって、ワイルドボアはその巨体を横たえ、黒い塵となって消えた。
戦闘が終わった後、すぐにHPポーションは何本か注がれ、血の止まり方や裂傷の浅さは改善された。だがすべてが綺麗に治るわけではない。内臓の打撲、神経の損傷、微細な出血は、見た目でわかるほどには治らない。小瓶を舐めた者は一時的に顔色を戻すが、短時間でまた力が抜ける。
外見での回復はあっても、歩けなくなり、嘔吐を繰り返し、呼吸が乱れた。ダンジョンを出てテントに戻されたとき、メディックは低い声で言った。
「外傷は止まってるが、体内で何かが起きている。内部出血の可能性がある。CT検査が必要だが、ここにはない」
——それが民間の限界だ。HPポーションは即席の救命措置にはなるが、万能の治療薬ではなかった。
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それでも、驚くことが起きる。撤退は余儀なくされたが、この探索は成功だった。新たな階層、新たなモンスター、新たなドロップ。そして何より、探索者たちの動きが途中からわずかに、しかし確かに違ったのだ。
攻撃を受けた男が、無意識に一歩だけ位置を変えた。その一歩で、次の危険を避けている。呼吸は荒いが、判断のブレが小さくなっている。銃を構える角度、反射的な体の運び、敵の見切り方――それまでの「慌てる癖」が、どこか削ぎ落とされている。行動の質そのものが変わっているように見えた。
ダニエルはそれを見て言葉を失った。「さっきまで」と「今」の間の何かが、彼の目に跳ね返った。映像には乗らない――けれど確かに現場から伝播する「差」だった。
翌日、録画映像は途切れ、フラグメントだけがネットにばら撒かれる。だがそのフラグメントは、ある種の魅力を持っていた。短いクリップは「僅かな回復」と「強くなったように見える動き」を切り取り、コメント欄に「いける」「次は深いとこ行こうぜ」という声を呼ぶ。
功績と批判が同じページで踊る。投資家は数字を読み、装備メーカーは注文を取り、保険業界は細かい免責を組んで商品のラインナップを変える。
遠隔地の政府機関からは早くも警告が出される。公式のアナウンスは冷淡で、理性的な語りが並ぶ。「深層への無許可探索は禁ずる」「安全基準に達していない」。しかしその声明が届く頃には、動画はもう拡散していて、成功談と失敗談がSNS上で入り混じっていた。規制の言葉は遅く、流れは速い。
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マイケル・ハリスは負傷者に一瞥もくれず、タブレットの数字だけを見ていた。彼の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「止められますかね?」
ダニエルが訊ねる。
「時間の問題だよ」
マイケルは短く答えた。
「法が追いつく前に、誰かが成功例を作る。成功例は貨幣化され、模倣される。止めたければ、手遅れになる前に力を行使しなければならない。でも、その力を行使するのは、政治だ。政治は遅い。遅さは、既得権を守るための機構だ」
彼の声は冷え切っていたが、合理の匂いが濃い。そこには、人の命を秤にかける計算が透けていた。
「……次はこの層までを商品化できるな」
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深夜、ダニエルは自分の放送をまとめるように小声で語り始めた。マイクはもう手元にない。だが言葉は内側から溢れた。
「これ、止めたら負けだ。だって、もう話題になってる。話題になったら資金が動く。資金が動いたら、誰かが損をしないで済む方法を見つける。見つけたら、次に進む。止めるより先に、進む奴が勝つんだ」
彼は小さく笑った。笑いは虚勢だった。続ける。
「でも……進んだら誰かが死ぬだろう? こういう時の勘は外れないんだ。でも止められない。俺が喋ってるのも、その一部だ。声を当てるだけで、誰かを送り出す手伝いをしてる」
冷たい風が夜のテントを走った。焚火に集う者たちの顔は、疲れている者も、興奮している者も混じっている。彼らは自分たちがどこまで賭けているかを、まだ完全には理解していない。だが一つだけ確かなことがある。成功はもう「管理」される前に実装され始めた。
朝が来たとき、ある者たちは負傷を抱えて戻り、別の者たちは誇らしげに小瓶を片手に写真を撮った。国が規制をかける文言を練っている間に、民間は既に次の契約書を用意している。成功談はコピーされ、失敗談は検閲にも似た編集で目に触れにくくなる。経済の論理は残酷だ。被害は必ずしも影響力を持つわけではない。
ダニエルはカメラを切り、ひとりで歩き出した。言葉が身体の中で重くなっている。彼の胸には、いつかの予感が張り付いていた――声の重さが、人の命の重さと同じではないことを知る予感。
「止めたら負け。進んだら誰かが死ぬ」――その二つが、重なり合って夜に溶けていく。ダニエルは自分がどちらに手を貸しているのかを、まだ選べないでいた。




