第22話 見えないステータス
中国・ダンジョン/研究所
2020年1月下旬
---
路地裏の朝は、いつもより静かだった。薄い霧が地面を引きずり、屋台の湯気が歩道に広がる。屋台の湯気が、寒さのせいでいつもより濃く見えた。李宇航は、かじかむ指先を擦り合わせながら、いつものようにリュックの中を軽く確認した。防寒用の薄いジャケット、懐中電灯、汚れた手袋。あとは昨日拾った小瓶と、いくつかの魔結晶の欠片が布に包まれているだけだ。
彼は自分が「特例」になったと聞かされたとき、冗談だと思った。中国政府から連絡が来るなんて、彼の人生の想定外だった。だが電話は本当に来て、冷たい声でこう告げられた。
「君の行動記録について、少し話を聞かせてほしい」
あの日、ゲート出た後、さっき通った路地に同じ色の車が停まっているのを見たのは、つまりはそういうことだった。
法律の表現は巧妙で、形式上は「自発的協力」だと書かれていた。しかし現場の運用は違った。李は「ほぼ個人探索」の体裁を保ちながらも、監視カメラとセンサー、同行者の名札、定期的な健康チェックに囲まれるようになった。彼はそれを、簡単に言えば「測られる」生活だと思った。
(測られるのは嫌じゃない。でも、測られるのが俺の“普通”になっちまうのは、どうも居心地が悪いな)
特例探索者として最初の二回の探索は、李としても想定通りだった。見つけたスライムを踏み潰し、結晶を拾い、水筒から少量の水を出して喉を潤す。同行者の前で水魔法Ⅰを使うほど愚かじゃない。
第三回目の探索で、ゴブリンに相対したとき彼は自分の身体が反応するのをはっきりと感じた。視界の端で何かが動く。反射的に一歩下がると、相手の攻撃が空を斬る。距離感が合わない。敵の咄嗟の動きが、まるで一瞬遅れているように見えた。
(運が良いだけだ。そう言い聞かせれば楽だ)
しかし「運」という言葉で片付けるには、偏りが大きすぎた。似た場面で同じ「ズレ」が再現される。回避のタイミング、被弾の部位、致命的な失敗を避ける確率――それらが個人的な体感ではなく、客観的なログに現れ始めた。
ある朝、彼は検査テントで係員に簡単な身長と体重の記録を取られ、センサーを手首に巻かれ、ヘッドセットを装着された。ゲート前に立つと、数台のカメラが彼を見つめていた。同行者は最低限、遠巻きに影を落としているだけだ。彼は胸の奥がざわつくのを抑え、静かに洞窟へと入っていった。
侵入の瞬間、いつもの静けさが訪れた。音が希薄になり、世界の縁が揺れる。だが今回は、飼い慣らされた緊張が妙に落ち着きに変わる。それは、彼自身も説明できない。反射的に身をかわしただけなのに、攻撃は外れ、相手は居場所を暴露したかのように挙動を乱す。結果、敵同士が接触して互いにひるみ、連鎖的に数を減らす場面が何度か起こった。
戻った後、彼にはログが渡された。音声はカットされた記録映像、加速度センサーの小さなグラフ、心拍の増減、歩行の軌跡。専門の技術者がモニタに指を走らせる。彼らの言葉は事務的だったが、その目は妙に熱を帯びていた。
「回避成功率が平均より二標準偏差高いな。被ダメージ分布も偏っている。ドロップ率にいたっては平均の1.6倍程度ある」
李は数字を覗き込んだが、そこに自分の感覚はない。数値は彼に何かを与えたが、同時に何かを奪った。彼は自分が「観察対象」になったことを突きつけられた気分になった。
(うわぁ、観察されてる。)
(でもこれ観察されてるだけで、俺のことが信じられるわけじゃないんだよな)
(どう見ても、人を見る目じゃない。実験動物のそれだ)
研究側は、彼のデータを抱えて別室へと消えた。冷房が効いた解析室の中で、薄い緑色のスクリーンに数列が流れる。若い研究者たちは、比較群と李のログを対照し、統計的な有意差を探った。グラフ上の線は、李の生存確率と回避率が、同じ環境に投入された被験者群と明確に異なることを示していた。
だが彼らの口から出てくる言葉は、慎重だった。
「説明可能な変数――装備、年齢、運動能力、反射神経……それらを補正しても差が残る。環境要因としか説明できない部分があるが、それも相関が取れない」
彼らは慣れない単語を繰り返す。「変数」「補正」「有意差」――どれも冷たい。冷たいが、そこに含まれるのは確かな驚きであり、欲求でもあった。国家側の監視官が次のスライドを指し示す。
「この個体——李宇航は、ドロップ率が他よりあきらかに高い。魔結晶は他と変わらず100%だが、アイテム・レアアイテムの出現が統計的に偏っている。ただし、サンプル数が少ないため断定はできない」
断定できないという枕詞が、会議室にいつまでもこだまする。誰も決断を下さないが、誰もが決断を期待している。国は「結果を欲しがる」。研究者は「事実を欲しがる」。李はそのひとつの点になってしまった。
彼は研究者の前に座らされ、簡単な質問に答えた。いつ、どこで、何を感じたか。自分の行動の動機。彼は正直に答えた。嘘はつかなかった。だが、数字はもっと多くを語っていた。
ある年代の博士が、そっとメモを閉じながら言った。
「個体差は、我々の既存モデルでは説明しきれない。もしこれが再現可能であれば、我々は新しいパラメータを導入する必要がある。しかし現時点では、このパラメーターを増やせない。増やすための手順も、倫理も、存在しない」
言葉は簡潔だが、その含みは重い。国家は欲しがる。だが、欲しがることと管理できることは別だ。研究者の眼差しは、同時に羨望と戸惑いに満ちていた。
夜、李は独りで帰路についていた。遠くの街灯が薄く夜の霧を照らす。誰もいない。彼は自分の手のひらを見つめた。外見上は何も変わっていない。だが確実に何かが――差が――残っている。失敗が一つ減り、回避が一つ増えた。その積み重ねが、彼を今日まで運んできたのだ。
(運……いや、偶然で済ませていいのか? もし仮に“偏り”があるのだとしたら、それは俺の意思で切り離せるものじゃない。 だいたい、人類にステータスなんて実装されてないだろ! でもダンジョンな世界になっちまったし、ありえるのか? てか、俺のステータスが特別なら、国に飼殺されるんじゃ……)
思考は堂々巡りした。国家に囲われれば、食い扶持や生活の安定は手に入るかもしれない。だが味わったことのない注視と、スケジュールに縛られる生活が待っている。逆に何も言わずに続ければ、いつしか自分の行為が勝手に解釈され、他人の手に利用されるだろう。
彼はゆっくりと息を吐いた。足元で、小さな黒い粉が風に舞った。小さな勝ちが積まれるたびに、彼の自由は、目に見えない糸で縛られていく。
翌朝、研究室ではデータがさらに増えていた。監視カメラの映像、心拍の周期、筋電図の断片――それらを解析するソフトは、些細な傾向を拾い上げる。若い研究者が小さな声で言った。
「もし個体差が遺伝的なものなら、倫理委員会の議題になります。もし環境依存なら、誘導要因を探さなければ……」
だが誘導要因は見つからない。李が何か特別な訓練を受けた形跡も、特殊な食品を摂取した痕跡も、異常な触媒物質との接触も、いっさい検出されなかった。唯一わかったのは、彼が実際に繰り返し「生き延びている」という事実だけだ。
監視側の幹部は、冷静を装いながら書類にサインをした。
「一時的な観測対象として扱う。だが、極秘で追加サンプルと長期観測を続けること。外部への情報漏洩は厳禁だ」
その文言が意味するところは明白だ。李は国家の資源になり得る。けれど国家がそれをどう使うか、李自身にも想像がつかなかった。
夜が深まる。李は薄い布団に横たわり、天井を見つめた。体に変化はない。数値も感覚も断片的だ。だが確かに、彼の世界は少しだけズレている。
このズレに、いつ名前がつくのか。
それを考えるのが、いちばん怖かった。




