第2話 踏み込んだ者
日本・神奈川県某所
2020年1月1日 午前9時台
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規制線の内側は、すでに秩序というものがなかった。
「近づかないでください!」
「撮影はやめて!」
「何なんだよアレ!」
怒号と好奇心と、正月特有の浮ついた空気が、狭い一角に折り重なっている。スマートフォンを掲げる腕が、何本も伸びていた。止めようとしている警備員の声は、ほとんど届いていない。
「……やっぱ、こうなるよな」
鷹宮恒一は、ため息混じりに周囲を見回した。
民間警備会社の人員では、物理的に足りない。警察は呼んでいるが、正月の朝だ。すぐに機動隊が飛んでくるような話でもない。誰かが、ふざけ半分で黒い“何か”に触れるまで、そう時間はかからないだろう。
目の前には、あの黒。
光を吸い、存在感だけを主張する、縦長の欠け。
「……触るなよ、って言っても聞かねえよな」
元自衛官。だが、実際に敵と撃ち合ったことはない。
それでも、危険な場所で「何を優先すべきか」を考える訓練だけは、嫌というほど受けてきた。
――中を知らないまま、外で事故が起きる方が厄介だ。
英雄になる気はない。
最初の探索者なんて肩書きも要らない。
ただのリスク管理だ。
「……悪いな」
誰に向けたとも分からない言葉を呟き、鷹宮は規制線をくぐった。
「ちょっと確認してくるだけだ。下がってろ」
制止の声が上がる前に、彼は黒へと手を伸ばす。
触れた――その瞬間。
衝撃は、ない。
引き込まれる感覚も、落下もない。
ただ、音が途切れた。
次に、重力が一拍、遅れる。
視界が暗転するより先に、「ここじゃない」という感覚だけが、脳に焼き付いた。
そして――
気づけば、そこに立っていた。
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洞窟だった。
天井は高く、照明があるわけでもないのに、周囲はぼんやりと見える。光源が分からない。だが、暗くはない。影の付き方が均一すぎて、逆に気味が悪かった。
「……中、か」
声を出すと、反響はするが、やけに整っている。遅れも歪みもない。洞窟特有の雑な返りがなく、録音スタジオの中にいるみたいだった。
地面は岩だが、歩きにくさはない。転がる石も少なく、意図的に均されているようにも見える。
腕時計を見る。秒針は、普通に動いている。
「時間は……繋がってるな」
ポケットからスマートフォンを取り出す。画面は点灯し、操作もできる。だが、表示されるのは無情な文字列だ。
《圏外》
「はいはい。外とはお別れ、ってか」
無線も試したが、結果は同じ。外界と切り離されている。それだけで、この場所が「戻れないかもしれない場所」だという認識が、じわじわと重くなる。
深呼吸を一つ。
空気は、問題ない。息苦しさもない。
だが、外とは違う。説明できない違和感が、肺の奥に引っかかる。
「……確認だけだ。深入りはしねえ」
そう言い聞かせ、歩き出した。
数十メートルも進まないうちに、違和感は形を持った。
水たまり。
……いや、違う。
ゆっくりと、動いている。
足を止めた瞬間、それはじわじわと広がり、鷹宮の靴先に触れた。
冷たい。
そして、絡みつく。
「おっと」
反射的に足を引く。だが、遅い。ぬるりとした感触が、足首を這い上がろうとする。
「……生き物かよ」
警棒を抜き、軽く叩いた。
手応えは、ほとんどない。水を打ったような感覚だ。
だが、内部に何かがある。
動きが、止まらない。
「こいつが弱点、か?」
根拠はない。ただの勘だ。
再度、警棒を振り下ろす。今度は、中心部の格のようなものを狙って。
コツン、と硬い感触。
次の瞬間、抵抗が消えた。
水の塊だったものが、崩れるように形を失い、黒い塵へと変わる。塵は、数秒ほど宙に漂い――消えた。
跡形もなく。
「……は?」
思わず声が漏れた。
水も、砕いた核も、何も残っていない。そこにいたという痕跡ごと、消えている。
鷹宮は、その場に立ち尽くし、さっきの光景を頭の中で反芻した。
倒した感触はある。攻撃も成立していた。だが、結果が現実に存在しない。
「……こいつは、とんだ異常事態だぜ」
人が死ねば、死体が残る。それが当たり前だ。
なら、こいつらは――生物じゃない。少なくとも、地球のルールでは生きていない。
ふと、足元に小さなものが落ちているのに気づいた。
親指の先ほどの、透明に近い結晶。光を反射するが、宝石ともガラスとも違う。
「お前が……残りかす?」
拾い上げてみる。軽い。熱も感じない。
価値は分からない。危険かどうかも断定できない。
「判断保留だな」
そう呟いて、ポケットに入れた。
視線を上げると、洞窟の奥に、下へ続く階段が見えた。暗くはない。だが、先は見通せない。
進めば、もっと分かるだろう。だが、一人だ。装備も不十分だ。
「……ここから先は、俺の仕事じゃねえな」
単独行動の限界。
情報は、もう十分だ。
踵を返し、来た道を戻る。
黒い“それ”に入る瞬間、不意に思った。
――また、戻ってくるな。これは。
根拠はない。
だが、確信だけがあった。
次の瞬間、現実の光と音が、一気に押し寄せる。
「うわっ……」
騒音。
フラッシュ。
人の声。
たった数分しか経っていないはずなのに、世界が少しだけズレている。
鷹宮は、肩をすくめた。
「さて……どう説明するか」
新年早々、面倒な仕事が増えたらしい。
そう思いながら、彼は人混みの中へと戻っていった。




