第19話 真のリスク
アメリカ・私有地内
2020年1月下旬 夕方
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風が、いつもより冷たく感じた。
地下の空気とは違う、金属と埃の混じった昼の風。仮拠点の外灯は明るく、焚火の残り火が赤く揺れている。だがその暖かさは、今いる者たちには届かなかった。
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ローガンは、半ば笑っていた。血に濡れたシャツのあちこちを手で押さえながら、仲間に向かって軽口を放った。
「見るか? 俺のしょぼい勲章だぜ。次は皆で酒だ、約束な?」
チームリーダーの男はローガンの肩を慰めるように、しかし乱暴に叩いた。彼らには習慣という武器もあった。冗談で場を和らげ、恐怖を薄める。
だがその笑いは、ほんの一瞬だった。
「ローガン、内臓っぽいわ。深いから慎重にしてちょうだい。まずは止血よ」
──メディック役の女が低く言う。彼女の声は、訓練で磨かれた冷静さを保っていたが、手は震えていた。救急袋の中身は心もとなく、消毒も不足している。
ローガンはポケットから小瓶を取り出した。HPポーション──彼らが勝手にそう呼んだ瓶だ。先日の小さな幸運。仲間たちが笑って名付けた。
女が小瓶を代わりに開け、傷口に注いだ。液体がしみこみ、皮膚の裂け目がさっと閉じる。腹部には、見た目には塞がった切創があり、術後のようにぴったりくっついているように見えた。血は止まり、皮膚は艶を取り戻している。数秒後、彼は息を吐き、顔色が良くなったように見えた。
「いけるぞ。歩ける」と、ローガンは力を込めた声で言った。自分で立ち上がろうとする。笑みが戻る。仲間たちは安堵のため息をつく。誰もが、あの小瓶が救ったと信じた。
だが、HPポーションは万能ではなかった。
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侵入は、当初の計画どおり進んでいた。
第3階層を抜け、境界線を越えた先――第4階層に足を踏み入れるところまでは。
足元の岩肌の色も、天井の高さも、通路の幅も、今まで通りだ。だが、分岐が少し多いように見える。
「ここからが、噂のラインだな」
ローガンが言った。
第4階層。
アメリカの民間探索者の間では「入った者はいるが、毎回ここまで潜る者はいない」段階。
新種の魔物が出るという話はなく、確認されているのはウルフだけ――それが、彼らの持っていた情報だった。
「ウルフだけなら、いけるだろ」
第2階層でも、第3階層でも、ウルフは出ていた。数が増えただけで、動き自体は知っている。
新しい魔物がいない以上、装備と人数が揃っていれば、危険度は跳ね上がらない――彼らはそう判断した。
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第4階層の通路は、想像以上に厄介だった。
一本道に見えて、緩やかな分岐が多い。角度も距離感も狂いやすく、来た道を振り返っても、同じ景色にしか見えない。
「……おい、マーキング、あったか?」
返事が遅れる。
誰かがライトを振り、岩肌を照らす。刻んだはずの印が、見当たらない。
「おかしいな。さっき通ったはずだぞ」
誰かが言う。
誰も断言できなかった。
そのときだった。
低い唸り声が、足元から響いた。
迷宮めいた区画でウルフの群れに遭遇した。
状況は混沌とし、銃声と足音が折り重なる。銃声が反響し、弾丸が岩に弾かれる。その混乱の中で、事故は起きた。
側面から跳びかかったウルフを避けようとして、ローガンは足を滑らせた。
傾斜のある岩棚。その鋭い岩角に腹部を強く打ちつける。
次の瞬間、追い打ちをかけるようにウルフの牙が浅く腹を裂いた。
致命傷ではない。
だが、内側に衝撃が残る種類の負傷だった。
短い交戦ののち、彼らは撤退の判断をし、ローガンの負傷を抱えて帰路につくことになった。
──だが、想定外は1度や2度とは限らない。
狭い通路を抜けた瞬間、背後で奇妙な音がした。振り返ると、角を曲がる群れの動きに合わせて、ウルフの1体が狭い裂け目から飛び出し、数匹が前方で低く唸り、数体が連携して追い込むように回り込んでくる。誘導だったのか、偶然だったのか。瞬時に、撤退ルートが封鎖される。
「戻れ! こっちだ!」
リーダーは叫んだ。だが通路は狭く、退路は一つ。銃撃と格闘が断続的に続く。ローガンは、仲間に支えられながら必死に脚を動かした。
「ローガンの状況は?」
リーダーが端的に尋ねる。
「外傷は塞がってる。止血はしてある。でも……」
女は言葉を切った。彼女の目はローガンの腹部を押さえる手に注がれていた。その手は冷たく、汗で濡れている。数分前に見えた「回復した肌」の違和感が、彼女には消えなかった。
「でも、何だ?」
リーダーの声に、少しの苛立ちと焦燥が混じった。
「内部で出血している可能性が高いわ。拍動が荒いし、冷や汗もかいてる。まだ安定してない」
──女は現場で出来る処置を尽くした。携帯のモニターには微かな低血圧のサインが出る。
だが彼らは多数の敵に囲まれていた。後方支援は期待できない。援護射撃も、着弾効果が落ちるこの区画では効率が悪い。度重なる戦闘で動き回り、現在地を見失っていた。
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時間が経つ。ローガンは、一度は顔色を取り戻したが、歩を進めるうちに表情を曇らせた。呼吸が浅くなる。言葉が途切れる。数分ごとに、また元気になるように見せかけ、すぐに意識が散る。
「限界だ……!」
リーダーの声は震えていた。仲間の誰もが、ミッションを中止し全力でローガンを運び出す案を望んでいた。だが敵は増え、銃弾は底を見せ始める。補給は遠い。時間は彼らの味方ではなかった。
「ここで止まると、全員やられるぞ」
低い声でつぶやいたのはベテランの一人だ。
議論は短く、激しく、そして痛ましかった。誰もがローガンを見た。ローガンは目を開け、かすかに笑った。
「行け……行ってくれ……」
朦朧とした声。彼の唇が震えた。人は絶望的なとき、嘘のように優しくなる。
「あと五分持てば、合流できるかもしれない」その希望が、誰の口からも出なかった。
リーダーは手を震わせながら首を振った。怒りと悲しみが入り混じる。彼はローガンの顔を見下ろし、固い決断を口にする。
「すまない。行く。必ず……戻る」
その瞬間、仲間の何人かが泣き声を押し殺した。幾人かは、それではローガンを抱え上げようとするが、スロット状の通路での緊急搬送は不可能だった。結局、チームはローガンを狭い側溝のような窪みに横たえ、布をかけ、手持ちの装備と少量の食料を置いて、位置をマーキングした。リーダーは地面に矢印を刻むように泥で印をつけ、無線で他の探索者へ救援を要請した。だが、第4階層では、その無線が通じる保証はなかった。
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拠点に戻った夜、怒声はなかった。酒も、乾杯もなかった。焚火の周りで男たちは黙っていた。HPポーションの効能が確かめられたのは紛れもない事実だ。だがその「治った」という事実が、裏切りに変わる瞬間を誰も予見していなかった。
ローガンを置き去りにしたことは、仲間の胸の中で重く響いた。リーダーの男はテントの隅で独り、ヘルメットを握りしめた。メディック役の女は消毒薬の匂いを嗅ぎながら、唇をかむ。だれもが自分を責めた。
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ニュースはすぐに走る。だが走るのは真実ではない。
探査チームからの断片的な映像がクリップとして拡散する。荒く編集された映像は、撤退する隊列、洞窟に置き去りにされたかもしれない形跡、そして消え入る焚火の残りを映していた。SNSは二つに割れる。
「英雄的撤退だ」──という投稿。
「裏切りだ。仲間を見捨てた」──という投稿。
動画のコメント欄は炎上し、誰もが自分の正義を叫ぶ。だが映像は断片的で、決定的な瞬間は存在しない。真実は、カメラの死角の中に消えた。
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翌日、報道は慎重になる。民間の探索団の広報は淡々と声明を出した。
> 「負傷者は現地に残されました。救助のため全力を尽くします。詳細は調査中です」
だが噂は先に走る。SNSは生き物のように拡散する。断片が積み重なり、物語を自ら作り出す。アメリカ国内の議論は激しくなる。支持者は「リスクを取る者の宿命」と言い、批判者は「無責任」と非難する。
遠く離れた国々では、これが別の意味を持って受け止められる。
日本の官僚たちは、例え米国内部の出来事であっても、こうした「成功の裏切り」を見逃さない。防衛省と有識者会議は記録を重ね、内部メモでこう整理した。
──回復薬は外傷処置に有効だが、内臓損傷・神経損傷等の深刻なケースには無力。運用は医療監督下での限定的使用に留めるべき。
中国側は違う角度で受け取った。
国内ニュースは早々に「民間任務の危険性」を指摘し、国家管理の必要性を強調する材料として扱った。
どちらの反応も正しいが、どちらも完全に真実を伝えてはいなかった――ローガンが、岩の陰でどういう最期を迎えるかは、誰にも即断できないのだ。
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夜が明け、彼らは地図上にローガンの置き去り地点を記した。小さな円を付け、赤い点でマーキングした。それだけでは償えない。だがそれが、彼らのやり場のない怒りと悲しみの痕跡だった。
ローガンの仲間たちは約束した。「次に行くときは、必ず連れて帰る。これを教訓にして、二度と同じことはしない」――だが彼らの声は夜の冷気で薄くなった。
HPポーションはニュースの見出しを飾り、民間市場は冷静さを失った。だが真実は、赤い点の下に眠っている。見せかけの「治癒」と、見えない内部損傷。小さな勝利が、油断を呼び、代償を引き寄せた。
世界は学ぶだろうか。だれが代償を払うのか。問いは大きく、答えはまだ遠い。




